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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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第25話 「今からでも」と言われて、わたくしは寸法帳を閉じた

 セシリア様が靴を取りに来たのは、三日後だった。馬車は、今度は革通りまで入ってきた。狭い道なので、御者が二度切り返していた。


「お待たせいたしました」


 わたくしは箱を出した。中に二足。歩くための靴と、少し改まった席のための靴だ。踵は、両方とも二分。


 その方は座って、履いた。履いて、立った。立ってから、店の中を歩いた。戸口まで八歩、戻って八歩。二度目は、少し速かった。


「……低いですね」


「二分ですので」


「思ったより、低くない」


「膝が伸びておりますので」


 その方は自分の膝を見下ろした。それから、鏡はないので、窓の硝子に映る姿を見た。


「本当だ」


「はい」


「四分より、高く見えます」


「はい」


    ◇


 支度をしながら、その方は言った。


「先月、家に戻りました」


「ロートリング家に」


「はい。父が、いい加減にしろと」


「はい」


「怒られました。生まれて初めてです」


 その方は箱の紐を結んでいた。結び目が固かったのか、二度やり直していた。


「怒られて、少し楽になりました」


「そうでございますか」


「あの方とは、もう」


 そこで言葉が止まった。わたくしは巻き尺を巻いていた。巻きながら、続きを待たなかった。待たれると、人は言わなくてもいいことを言ってしまう。


「靴屋さん」


「はい」


「あの日、わたしが誰か知っていて、二分にしましたよね」


「四分は、お身体には高すぎましたので」


「それだけですか」


「それだけでございます」


 その方は箱を持ち上げた。


「……つまらない答え」


「よく言われます」


 その方は少し笑った。この方が笑うのを見たのは、二度目だった。


    ◇


 帰り際、その方は箱を抱えたまま、棚のほうを見た。


「あの布の包み、全部お靴の型ですか」


「木型でございます」


「たくさんありますね」


「百ございます」


「百」


「四十七と、五十四と、割ったのが一つでございます」


 その方は数えるような顔をして、それからやめた。


「あの、変なことを聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「型って、その人が死んだらどうするんですか」


 わたくしは棚を見た。考えたことがなかった、と言えば嘘になる。二十年前の父の棚には、いま何も載っていない。母がそこへ何も置かなかったのは、置きたくなかったからだと思っていた。


 いまは、少し違う気がしている。


「捨てます」


「捨てるんですか」


「はい。その方のお足は、もうございませんので」


「……なんだか」


「はい」


「なんだか、お墓みたいですね」


 わたくしは頭を下げた。


「そう思ったことは、ございませんでした」


    ◇


 その日の夕方、エルマー様が来た。今度も一人だった。馬車もない。外套の裾に埃がついていた。前と同じだ。


 違ったのは、歩き方だった。戸口を入ってくるとき、肩を枠にぶつけなかった。ぶつけないように、身体を斜めにして入ってきた。二十日ほど前から、そうしているのだと思う。


「まだ開いているか」


「開いております」


「そうか」


 その方は立ったままだった。わたくしは腰掛けを出しかけて、やめた。前に出しかけて、止められている。


    ◇


「父上が、家督を譲ると言い出した」


「そうでございますか」


「秋の式典に出られん家の当主が、当主の顔をしていられんそうだ」


「はい」


「俺が継ぐ」


「おめでとうございます」


「めでたくない」


 その方は作業台に手をついた。


「継いでどうなる。門に立つ者がいない。踊れる者がいない。招かれる家がない」


「はい」


「靴がないだけで、家が止まる」


「靴だけではございません」


 その方が顔を上げた。


「何が違う」


「六年、あの家は、外に何も預けませんでした」


 わたくしは棚のほうを見た。麻布の包みが、三段に並んでいる。


「木型も、腕も、名前も、全部お屋敷の中にございました。中にあるあいだは、誰にも取られません。取られませんが、外にも残りません」


「……」


「外に何も残っていない家は、中の一つが欠けると止まります」


「それは、うちだけの話か」


「いいえ」


「他の家もそうか」


「存じません。ですが、王都の靴店には、二百軒ぶんの木型が八百ございます」


「八百」


「ケルナー靴店だけで、でございます」


 その方は作業台の木目を見ていた。


「……八百のうち、うちの分は」


「ございません」


「一つも」


「一つも」


    ◇


 その方は、しばらく黙っていた。それから、外套の内から紙を出した。折り目が新しい。今朝書かれたものだ。


「注文書だ」


 わたくしは受け取った。


 ——ヴェルデン侯爵家 次期当主 エルマー・ヴェルデン。木型四点、靴四足。値は王都の相場にて。


 署名があった。書き慣れていない字だった。この方が自分で書類を書くことは、たぶん六年で一度もなかった。


「ギルド規約第九条第二項だろう」


「はい」


「注文すれば、断れんはずだ」


「断れません」


「では作れ」


「はい」


    ◇


 わたくしは注文書を作業台に置いた。置いて、帳面を開いた。母がつけている新しい帳面だ。名前と、住まいと、痛いところと、直した日を書く。


 ペンを取った。


「では、採寸をいたします」


「採寸」


「はい」


「木型はあるだろう」


「六年前のものでございます」


「合わんのか」


「合いません」


 わたくしはペンを置いた。


「三月前に、旦那様の踵の減り方が変わりました。それから、いまはまた変わっております。扉の枠に肩をぶつけない歩き方を、二十日ほど続けていらっしゃいますね」


「……」


「六年前の木型は、六年前の旦那様のものでございます」


    ◇


 その方は、椅子に座らなかった。座らずに、こう言った。


「今からでも、やり直せないか」


 わたくしはペンを箱に戻した。棚の三段目に、麻布の包みがある。あの中の一つが、この方のものだ。もう一つは、割った。査問の間の卓の上で、二つにした。


 その断面には、六年ぶんの日付が並んでいた。


 五月十一日。七月二日。九月十九日。十一月四日。


 あれは、この方の足の記録だ。この方の六年でもある。わたくしの六年でもあった。


 わたくしは寸法帳を閉じた。


「旦那様の足の記録は、六年前で終わっております」


「……」


「新しい記録は、今日から始まります。別の帳面でございます」


 その方は何も言わなかった。


「明日、素足でお越しくださいませ」


    ◇


 扉が閉まった。しばらく、動かなかった。母も奥から出てこなかった。


 工房の中は、革と糊のにおいがしていた。糊のにおいは甘い。革のにおいは重い。二つが混じると、たいていの人は顔をしかめる。わたくしは十四のときからこの中にいるので、しかめない。母もしかめない。父もしかめなかったはずだ。


 この店の空気は、二十年変わっていない。糊は昼に煮たものだ。煮た糊は三日もつ。三日経つと酸くなるので、そうなる前に使い切る。明日は四足ぶん裁つから、ちょうど使い切れる。


 わたくしは新しい帳面を出して、一頁目を開いた。


 白かった。


 白いままの頁というのは、悪くない。埋まっていない場所が残っているというだけの意味だが、そう思えるようになるまでに六年かかった。

【今日の一足】踵二分。膝が伸びると、四分より高く見えます。


 「今からでも」という言葉は、言った側にとっては提案ですが、言われた側にとっては、たいてい採寸のやり直しです。


 第一部の最終話です。王城の階段を、三十八段。

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