表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
26/26

第26話 わたくしの名が、王城の階段を上がっていく

 秋の式典の朝、看板を掛け直した。板は、二十年前のものをそのまま使った。傾いていたのは金具が緩んでいたからで、板そのものは生きていた。母が「削るのかい」と聞いたので、削らないと答えた。


 文字は、父の字だ。


 ——ハルトマン靴店


 その下に、板を一枚足した。小さい板だ。わたくしが彫った。


 ——王室御用達


 母は脚立の下で、それを見上げていた。見上げて、しばらく何も言わなかった。


「お母様」


「なんだい」


「見えますか」


「見えないよ」


「はい」


「けど、そこにあるんだろ」


「ございます」


 母は脚立を押さえた。


「じゃあ、いい」


    ◇


 板を足すことにしたのは、母の考えではなかった。わたくしが「新しい看板をお作りしましょうか」と言ったとき、母は首を横に振った。


「あの板は、うちの人が彫ったんだよ」


「はい」


「二十年、傾いたまま出しといた」


「はい」


「傾いてたのは、直さなかったからじゃない」


 母は脚立を運びながら、そう言った。


「直したら、あの人の字が減るだろ」


 だから、削らなかった。金具だけ締め直して、下に一枚足した。足した板は、うちの店で一番新しい木だ。三年寝かせた樺の余りで、木型には使えない端のところを使った。


    ◇


 王城の大階段は、三十八段ある。式典の日は、下に人が集まる。今日はいつもより多かった。秋の式典は年に一度の大きな儀で、警護の任に就いた家が十二家、門と廊下に立つ。


 わたくしは踊り場の柱の陰にいた。道具箱と、やすりと、当て革を三枚。夏と同じ場所だ。あのときは、誰もわたくしを知らなかった。今日は、通りかかる人が二度に一度こちらを見る。見て、頭を下げる人もいる。慣れない。


「ハルトマン殿」


 バルテルさんだった。門衛長の礼装をしている。


「本日は」


「巡回の前に、一度寄れと会計方に言われましてな」


「お痛みは」


「ない」


 その人は自分の足を見下ろした。


「四十年、痛いのが仕事だと思っておりました」


「はい」


「思っていたのが仕事で、痛いのは仕事ではなかった」


    ◇


 馬車が着いたのは、鐘が二つ鳴ったあとだった。従者が二人、扉の脇に立った。椅子は降ろされなかった。


 その方は、一人で降りた。夏のときと同じだ。同じだが、一つだけ違った。


 降りてから階段の下まで、九歩。夏は十一歩だった。


    ◇


 一段目。


 二段目。


 三段目。


 わたくしは柱の陰から見ていた。新しい靴だ。夏に作ったものではない。式典用に、もう一度木型から彫り直した。右の補高は、三分から三分半へ上げてある。半年で、左の膝が少し伸びたからだ。


 補高は少しずつ足す。一分足して、半年おいて、また足す。三年かかる。あと二年半、この方はうちへ通うことになる。二年半ぶんの予定が入っている客というのは、うちには初めてだ。


 十段。


 二十段。


 下でざわめきが起きた。夏にも起きた。今日のほうが大きい。


 三十段。


 三十八段目で、上がりきった。


    ◇


 上がりきったところで、その方は止まらなかった。夏は止まった。止まって、右足を見た。確かめる顔だった。


 今日は、そのまま歩いていった。確かめる必要が、もうないのだと思う。


 わたくしは道具箱を膝に抱えたまま、その背中を見ていた。その靴の踵には、「H」と、短い横線が一本、焼き印で押してある。


 誰にも見えない。踵は、下から覗き込まない限り見えない場所だ。けれど、そこにある。


 いま、三十八段を上がっていったのは、その名前だった。


    ◇


 式典は三刻で終わった。その方が踊り場まで降りてきたとき、わたくしはまだ座っていた。


「ハルトマン」


「はい」


「当たりは出なかった」


「よろしゅうございました」


「三刻立った」


「はい」


 その方は窓枠に手をつかなかった。ついて、離す癖が、いつのまにか消えている。


「一つ、頼みがある」


「はい」


「次は、走るための靴を頼めるか」


 わたくしは道具箱の留め具に手をかけた。かけて、外さなかった。


「……走るのですか」


「いずれ」


「いずれ、とは」


「北へ戻る」


 その方は窓の外を見た。王城の庭の向こうに、北へ続く街道が見える。


「六年、戻っていない。座って指図するだけなら誰でもできる。俺がやる意味がない」


「はい」


「戻る前に、一つ済ませることがある」


「はい」


「俺の足を、十日で歩かせた男を探す」


 わたくしは顔を上げた。


「軍医は、戦死なさったとうかがいました」


「軍医は戦死した」


 その方はこちらを見た。


「触ったのは軍医ではない」


 わたくしは道具箱の留め具から手を離した。


「なぜ、いまそれを」


「あんたが言ったからだ」


「わたくしは、何も申し上げておりません」


「骨は十日では付かない、と言った」


 その方は窓から離れた。


「六年、誰も言わなかった。俺が聞かなかったからだ。聞けば答える者はいたかもしれん。聞かなかった」


「はい」


「聞かなければ、痛くない」


「……はい」


「あんたは、聞く前に見た」


 その方は階段のほうへ歩いた。三十八段を、今度は下りる。


「だから、聞くことにした」


    ◇


 帰りは、歩いて戻った。王城の外庭を抜けて、坂を下りる。この坂をハンスさんは毎日、歩いて下りている。


 途中で、書付を出した。王室御用達の書付だ。受け取った日に一度読んで、意味のわからない一行があった。母に見せようと思って、そのままにしていた。


 ——王室御用達 靴工 リディア・ハルトマン


 その下に、一行。


 ——ただし戴冠式の靴を除く


 除く、と書いてある。


 王室の靴を作る者が、王室の一番大きな儀式の靴だけは作らない。では、誰が作るのか。


 書付には、書いていなかった。


    ◇


 工房に戻ると、母が作業台で縫っていた。燭台は二本のままだ。母は針の穴を探すのをやめた。わたくしが通す。一日に三十回ほど。


「終わったかい」


「終わりました」


「当たりは」


「出ませんでした」


「そうかい」


 母は手を止めて、縫いかけの革を裏返した。裏返して、指の腹で縫い目をなぞった。上から下へ、ゆっくり。


「まっすぐだね」


「はい」


 母は縫い目をなぞる手を止めなかった。


「あんたの父さんが死んでから、二十年だ」


「はい」


「二十年、この店には名前がなかった」


「はい」


「いま、あるね」


「ございます」


 母は革を置いた。


「じゃあ、明日も開けようか」


    ◇


 その晩、わたくしは新しい帳面を開いた。一頁目に、名前を書いた。


 エルマー・ヴェルデン。甲が高い。既製の型では紐が締まらない。三月前に踵の減り方が変わり、いまはまた変わっている。


 二頁目に、もう一つ。クラウス・フォン・アーレンス。右が三分半短い。あと二年半で、三分半を足し終える。


 三頁目は、白いままにしておいた。誰の名前が入るかは、まだわからない。わからないものを空けておけるようになったのは、たぶん今年からだ。


 明日、四足ぶんの革を裁つ。糊は昼に煮る。煮た糊は三日もつので、三日で使い切る。


 そういう店を、これから続けていく。

 第一部「離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました」、これにて完結でございます。


 全二十六話、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。


【今日の一足】踵に「H」と、短い横線が一本。——下から覗き込まない限り、誰にも見えません。


 この物語は、はじめから終わりまで、主人公が一度も声を荒らげない話でした。彼女は復讐もしていませんし、告発もしていません。木型を持って実家に帰り、来た客の足を測っていただけです。


 それでも、捨てた側は歩けなくなりました。理由は魔法でも、権力でも、天罰でもありません。木型は職人の道具だと法が決めていて、その法には「注文されたら断ってはならない」という第二項までついていた。道は最初から開いていて、通らなかったのはあちらです。


 書付の末尾の一行と、辺境伯の右足を触った人物については、まだ何も申し上げておりません。続きを書くかどうかは、皆さまのご様子を見てから決めようと思います。


 ブックマークと評価は、看板の下に足した小さな板の、彫り賃に充てさせていただきます。自分で彫ったので、ただ働きなのですが。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ