第26話 わたくしの名が、王城の階段を上がっていく
秋の式典の朝、看板を掛け直した。板は、二十年前のものをそのまま使った。傾いていたのは金具が緩んでいたからで、板そのものは生きていた。母が「削るのかい」と聞いたので、削らないと答えた。
文字は、父の字だ。
——ハルトマン靴店
その下に、板を一枚足した。小さい板だ。わたくしが彫った。
——王室御用達
母は脚立の下で、それを見上げていた。見上げて、しばらく何も言わなかった。
「お母様」
「なんだい」
「見えますか」
「見えないよ」
「はい」
「けど、そこにあるんだろ」
「ございます」
母は脚立を押さえた。
「じゃあ、いい」
◇
板を足すことにしたのは、母の考えではなかった。わたくしが「新しい看板をお作りしましょうか」と言ったとき、母は首を横に振った。
「あの板は、うちの人が彫ったんだよ」
「はい」
「二十年、傾いたまま出しといた」
「はい」
「傾いてたのは、直さなかったからじゃない」
母は脚立を運びながら、そう言った。
「直したら、あの人の字が減るだろ」
だから、削らなかった。金具だけ締め直して、下に一枚足した。足した板は、うちの店で一番新しい木だ。三年寝かせた樺の余りで、木型には使えない端のところを使った。
◇
王城の大階段は、三十八段ある。式典の日は、下に人が集まる。今日はいつもより多かった。秋の式典は年に一度の大きな儀で、警護の任に就いた家が十二家、門と廊下に立つ。
わたくしは踊り場の柱の陰にいた。道具箱と、やすりと、当て革を三枚。夏と同じ場所だ。あのときは、誰もわたくしを知らなかった。今日は、通りかかる人が二度に一度こちらを見る。見て、頭を下げる人もいる。慣れない。
「ハルトマン殿」
バルテルさんだった。門衛長の礼装をしている。
「本日は」
「巡回の前に、一度寄れと会計方に言われましてな」
「お痛みは」
「ない」
その人は自分の足を見下ろした。
「四十年、痛いのが仕事だと思っておりました」
「はい」
「思っていたのが仕事で、痛いのは仕事ではなかった」
◇
馬車が着いたのは、鐘が二つ鳴ったあとだった。従者が二人、扉の脇に立った。椅子は降ろされなかった。
その方は、一人で降りた。夏のときと同じだ。同じだが、一つだけ違った。
降りてから階段の下まで、九歩。夏は十一歩だった。
◇
一段目。
二段目。
三段目。
わたくしは柱の陰から見ていた。新しい靴だ。夏に作ったものではない。式典用に、もう一度木型から彫り直した。右の補高は、三分から三分半へ上げてある。半年で、左の膝が少し伸びたからだ。
補高は少しずつ足す。一分足して、半年おいて、また足す。三年かかる。あと二年半、この方はうちへ通うことになる。二年半ぶんの予定が入っている客というのは、うちには初めてだ。
十段。
二十段。
下でざわめきが起きた。夏にも起きた。今日のほうが大きい。
三十段。
三十八段目で、上がりきった。
◇
上がりきったところで、その方は止まらなかった。夏は止まった。止まって、右足を見た。確かめる顔だった。
今日は、そのまま歩いていった。確かめる必要が、もうないのだと思う。
わたくしは道具箱を膝に抱えたまま、その背中を見ていた。その靴の踵には、「H」と、短い横線が一本、焼き印で押してある。
誰にも見えない。踵は、下から覗き込まない限り見えない場所だ。けれど、そこにある。
いま、三十八段を上がっていったのは、その名前だった。
◇
式典は三刻で終わった。その方が踊り場まで降りてきたとき、わたくしはまだ座っていた。
「ハルトマン」
「はい」
「当たりは出なかった」
「よろしゅうございました」
「三刻立った」
「はい」
その方は窓枠に手をつかなかった。ついて、離す癖が、いつのまにか消えている。
「一つ、頼みがある」
「はい」
「次は、走るための靴を頼めるか」
わたくしは道具箱の留め具に手をかけた。かけて、外さなかった。
「……走るのですか」
「いずれ」
「いずれ、とは」
「北へ戻る」
その方は窓の外を見た。王城の庭の向こうに、北へ続く街道が見える。
「六年、戻っていない。座って指図するだけなら誰でもできる。俺がやる意味がない」
「はい」
「戻る前に、一つ済ませることがある」
「はい」
「俺の足を、十日で歩かせた男を探す」
わたくしは顔を上げた。
「軍医は、戦死なさったとうかがいました」
「軍医は戦死した」
その方はこちらを見た。
「触ったのは軍医ではない」
わたくしは道具箱の留め具から手を離した。
「なぜ、いまそれを」
「あんたが言ったからだ」
「わたくしは、何も申し上げておりません」
「骨は十日では付かない、と言った」
その方は窓から離れた。
「六年、誰も言わなかった。俺が聞かなかったからだ。聞けば答える者はいたかもしれん。聞かなかった」
「はい」
「聞かなければ、痛くない」
「……はい」
「あんたは、聞く前に見た」
その方は階段のほうへ歩いた。三十八段を、今度は下りる。
「だから、聞くことにした」
◇
帰りは、歩いて戻った。王城の外庭を抜けて、坂を下りる。この坂をハンスさんは毎日、歩いて下りている。
途中で、書付を出した。王室御用達の書付だ。受け取った日に一度読んで、意味のわからない一行があった。母に見せようと思って、そのままにしていた。
——王室御用達 靴工 リディア・ハルトマン
その下に、一行。
——ただし戴冠式の靴を除く
除く、と書いてある。
王室の靴を作る者が、王室の一番大きな儀式の靴だけは作らない。では、誰が作るのか。
書付には、書いていなかった。
◇
工房に戻ると、母が作業台で縫っていた。燭台は二本のままだ。母は針の穴を探すのをやめた。わたくしが通す。一日に三十回ほど。
「終わったかい」
「終わりました」
「当たりは」
「出ませんでした」
「そうかい」
母は手を止めて、縫いかけの革を裏返した。裏返して、指の腹で縫い目をなぞった。上から下へ、ゆっくり。
「まっすぐだね」
「はい」
母は縫い目をなぞる手を止めなかった。
「あんたの父さんが死んでから、二十年だ」
「はい」
「二十年、この店には名前がなかった」
「はい」
「いま、あるね」
「ございます」
母は革を置いた。
「じゃあ、明日も開けようか」
◇
その晩、わたくしは新しい帳面を開いた。一頁目に、名前を書いた。
エルマー・ヴェルデン。甲が高い。既製の型では紐が締まらない。三月前に踵の減り方が変わり、いまはまた変わっている。
二頁目に、もう一つ。クラウス・フォン・アーレンス。右が三分半短い。あと二年半で、三分半を足し終える。
三頁目は、白いままにしておいた。誰の名前が入るかは、まだわからない。わからないものを空けておけるようになったのは、たぶん今年からだ。
明日、四足ぶんの革を裁つ。糊は昼に煮る。煮た糊は三日もつので、三日で使い切る。
そういう店を、これから続けていく。
第一部「離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました」、これにて完結でございます。
全二十六話、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
【今日の一足】踵に「H」と、短い横線が一本。——下から覗き込まない限り、誰にも見えません。
この物語は、はじめから終わりまで、主人公が一度も声を荒らげない話でした。彼女は復讐もしていませんし、告発もしていません。木型を持って実家に帰り、来た客の足を測っていただけです。
それでも、捨てた側は歩けなくなりました。理由は魔法でも、権力でも、天罰でもありません。木型は職人の道具だと法が決めていて、その法には「注文されたら断ってはならない」という第二項までついていた。道は最初から開いていて、通らなかったのはあちらです。
書付の末尾の一行と、辺境伯の右足を触った人物については、まだ何も申し上げておりません。続きを書くかどうかは、皆さまのご様子を見てから決めようと思います。
ブックマークと評価は、看板の下に足した小さな板の、彫り賃に充てさせていただきます。自分で彫ったので、ただ働きなのですが。




