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離婚されたら、侯爵家の誰も靴が履けなくなりました  作者: 三上あゆみ


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第24話 お義父様が、自分の靴を脱げない

 ゲルハルト様は、工房の中で座っていた。


 母が奥にいた。革包丁を握ったまま、出てこなかった。この人が客の前に出ないのは、六年前に一度あったきりだ。


 わたくしは扉を閉めて、外套を掛けた。


「閣下」


「土地の件は聞いた」


「はい」


「二十年、こちらの手落ちだ」


 その方は椅子の肘掛けに両手を置いていた。背もたれには寄りかかっていない。前のめりでもない。ちょうど真ん中で、動かずにいる。


「詫びる気はない」


「はい」


「詫びても土地は戻らん」


「はい」


「用件は別だ」


    ◇


「御用達を、辞退しろ」


 わたくしは巻き尺を作業台に置いた。


「理由をうかがってもよろしいでしょうか」


「うちが推した工房が落ちた」


「アルトハウス工房でございますね」


「うちの顔が潰れた。二度目だ」


「二十年前と」


「そうだ」


 その方は肘掛けを握った。


「辞退すれば、選び直しになる。次は、うちが推した家が入る」


「わたくしが辞退する理由は、ございません」


「金なら出す」


「いりません」


「では何が要る」


 わたくしは首を横に振った。


「何も要りません。ですので、辞退もいたしません」


    ◇


 その方は、しばらく黙っていた。黙ったまま、立とうとした。


 立たなかった。


 肘掛けに手をかけて、体重をかけて、そこで止まった。止まって、もう一度力を入れた。二度目も同じところで止まった。


 わたくしは動かなかった。


 三度目に、その方は右足を床から浮かせた。浮かせて、左足だけで立とうとして——椅子が後ろへずれた。


 背中が背もたれに落ちた。


「……閣下」


「近寄るな」


「はい」


 わたくしはその場で腰掛けを引き寄せて、座った。座ると、こちらのほうが低くなる。低いところにいる者は、押しつけられない。


「お靴を、拝見してもよろしいでしょうか」


「見てどうする」


「見なければ、何もわかりませんので」


    ◇


 その方は答えなかった。答えないまま、右足を少しだけ前へ出した。


 わたくしは腰掛けごと近づいて、その靴を見た。既製の靴だった。仕立てのいい既製だが、既製だ。甲の革が、右だけ膨らんでいる。膨らみは丸くない。内側の一点が押し出されている。


 紐は、外してあった。外して、通し直さずに、そのまま履いている。


「何日、お履きでございますか」


「……」


「二十日でございますね」


 その方の指が、肘掛けの上で動いた。


「グレーテさんにうかがいました」


「余計なことを」


「はい」


 わたくしは踵に手をかけた。


「脱がせます」


「やめろ」


「腫れております。このままですと、明日は自分でお脱ぎになれません」


「やめろと言っている」


「閣下」


 わたくしは手を止めた。


「二十日でございます。もう、ご自分では脱げないのではございませんか」


    ◇


 時間がかかった。革は伸びる。伸びた革は、腫れた足に貼りつく。無理に引くと皮が剥ける。


 わたくしは踵の縫い目を鋏で切った。上等な靴だ。切れば終わりだ。切った。それから、少しずつ広げて、抜いた。


 抜いたとき、その方は声を出さなかった。息だけが、短く二度鳴った。


    ◇


 右足を見た。


 踝から下が、腫れていた。腫れは表面ではない。中から押している腫れ方だ。皮膚が張って、光っている。わたくしはそっと持ち上げて、外側から見た。


 骨があった。


 外踝の少し下に、骨が一つ、外へ出ている。出方が丸くない。角がある。折れた骨が、ずれたまま付いた形だ。わたくしは、その角を指の腹でなぞった。


 なぞってから、手を止めた。


    ◇


 ずれ方に、向きがある。外へ、そして前へ。爪先を外へ払うように、ねじれて固まっている。


 こういう折れ方をするのは、足を外側へ持っていかれたときだ。地面に置いた足が、体重の乗っている途中で外へ滑ると、骨は外へねじれる。


 五段目の左端に、右足の爪先が外へ流れた跡があった。滑ったのは、右足の人だ。


「閣下」


「言うな」


「まだ何も申し上げておりません」


「言うな」


 その方の手が、肘掛けの端を掴んでいた。わたくしは足を下ろした。下ろして、床に置いた。置くとき、体重がかからないように、踵から先に着けた。


「これは、二十年前でございますね」


    ◇


 答えは、ずいぶん長いあとに来た。


「あの日、あの男は登記所から来た」


「はい」


「済んだ、と言った」


「はい」


「土地はもう当家のものではございません、と。頭を下げて、そう言った」


 その方は天井を見ていた。


「腹が立ったわけではない。……いや、立った。だが、それだけではない」


「はい」


「こわかった」


 わたくしは膝の上で手を重ねた。


「うちは、あの男に一つ握られていた」


「何をでございますか」


「知らんほうがいい」


「はい」


「知らんほうがいいことを、あの男は知っていた。それだけだ」


 その方は目をこすった。


「裏の階段で追いついた。腕を掴んだ。振り払われた」


「はい」


「わたしが先に落ちた」


    ◇


「先に落ちて、途中で足が引っかかった。踏み外したのではない。引っかかって、外へ回った」


 その方の右手が、自分の右足のほうへ動いた。動いて、途中で止まった。


「あの男は、わたしの上に落ちてきた」


「……」


「下で止まったのはわたしだ。あの男は止まらなかった」


 窓の外で、荷馬車が通った。石畳の音が長く鳴って、遠ざかった。


「二十年、誰にも言っていない」


「はい」


「医者にも見せていない。見せれば、いつの傷か聞かれる」


「はい」


「だから、この足は治らなかった」


 その方は初めて、自分の右足を見た。


「六年、お前に彫らせた。右だけ、外を厚くしろと言った」


「はい」


「厚くすれば、腫れても隠れる」


「はい」


「お前は、理由を聞かなかった」


「はい」


「一度も聞かなかった」


 わたくしは頷いた。


「聞いてはいけないと、思っておりましたので」


    ◇


 その方は、しばらく動かなかった。わたくしは切った靴を拾って、麻布に包んだ。捨てるにしても、そのままでは持てない。


「閣下」


「なんだ」


「お作りしましょうか」


 その方が、顔を上げた。


「木型から彫り直します。右は、外を厚くいたしません。骨の出ているところに逃げを作って、その分を土踏まずで受けます。三度は直します。三度で済めば、よいほうでございます」


「……」


「そうすれば、歩けます」


 その方は、長いこと黙っていた。それから、首を横に振った。


「いらん」


「はい」


「作らせたら、わたしはお前に借りができる」


「はい」


「二十年、誰にも借りを作らずに来た」


「はい」


 わたくしは頭を下げた。


「承知いたしました」


    ◇


 その方は立った。右足を床に着けずに、左だけで立った。壁に手をついて、扉まで六歩を、三度に分けて進んだ。


 わたくしは腰掛けから動かなかった。


 扉のところで、その方は麻布の包みを見た。切った靴が入っている。


「それを」


「お持ちになりますか」


「持って帰る」


 わたくしは包みを渡した。


 その方はそれを右手に持った。持って、扉を開けた。馬車まで、履かずに歩いていった。素足で、石畳を。


 わたくしは扉のところに立って、それを見ていた。裸足で歩けば、石は冷たい。腫れた足には、そのほうが楽なのだと思う。楽なのだと思ったので、何も言わなかった。

【今日の一足】外踝の下に、外へ前へとねじれて固まった骨。——地面に置いた足が体重の途中で外へ滑ると、骨はこう折れます。


 あの方が「今からでも」とおっしゃいます。

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