第23話 王家御用達は、二足で決まる
道具箱の底の紙は、二枚重ねてあった。上が御用達の書付。下が、登記所の控えだった。
——王都南区 革通り第十七区画 所有権移転 買主 ヨナス・ハルトマン
二十年前、五月三日。
紙は油を吸って、端が飴色になっていた。触ると、指に薄く油が残る。文字は読めた。印も読めた。わたくしはそれを持って登記所へ行き、原本と突き合わせてもらった。三日かかった。三月ではなかった。異議の申し立てではなく、控えの照合だからだ。
◇
登記所は、王城の東にある。石の建物で、窓が小さい。紙を日に当てないためだ。二十年前の帳簿は、地下の棚にあった。役人が二人がかりで運んできて、卓の上で開いた。埃が上がった。
登記所の役人はこう言った。
「先方の権利書は、担保設定時のものでございますな。抹消の登記が入っておりますので、無効でございます」
「先方は、ご存じないのでしょうか」
「二十年、一度も照会に来ておられません」
◇
写しを一通、フォークトさんに届けた。受け取ったとき、その人はしばらく紙を見ていた。それから、深く息を吐いた。
「わたくしがお渡ししてよろしいのですか」
「はい」
「閣下は、お怒りになります」
「はい」
「……なぜ、わたくしに」
わたくしは頭を下げた。
「二十年前に手すりの話を進言なさったのは、フォークトさんではございませんか」
その人は答えなかった。答えないのが答えになる場合がある。それだけ確かめて、わたくしは帰った。
◇
王室御用達の選定は、王城の会計方の広間で行われた。三軒。ケルナー靴店のヴィルフリート親方。アルトハウス工房の当主。それから、うち。
アルトハウス工房の当主は、七十を過ぎた男の方だった。杖をついていた。従者を六人連れていて、その全員が前掛けをしていた。
「ハルトマンか」
そう声をかけられた。
「はい」
「二十年前、うちに推薦が来た」
「うかがっております」
「断った」
「その節は、ありがとうございました」
その方は杖の頭を握り直した。
「礼を言われる筋合いはない。あれはあんたの父親のためではない。うちのためだ」
「はい」
「他家の空けた席に座ると、次に空くのはうちの席だ」
◇
課題は、その場で告げられた。
「同じ方のお足に、二足」
会計方の長がそう言った。
「一足は、歩くための靴。もう一足は、立ち続けるための靴。三日で仕上げ、四日目の朝に提出」
ヴィルフリート親方が前掛けの端を握った。
「お相手は」
「王城正門の門衛長、バルテル。四十年、あの門に立っております」
◇
バルテルさんは、六十二だった。背が高い。肩が厚い。立ったまま眠れるという噂がある人だ。
三軒とも、同じ部屋で採寸した。順番はくじで、うちが三番目だった。
アルトハウス工房は、六人がかりで測った。足長、足囲、踵幅、甲高、指の付け根の角度。数字を六人で読み上げて、確かめ合っていた。速い。正確だ。四半刻で終わった。
ケルナー靴店は、親方が一人で測った。半刻かかった。親方は測りながら、バルテルさんの脹脛を何度も押していた。むくみを見ていたのだと思う。いい仕事だった。
うちの番になった。わたくしは腰掛けを引き寄せて、その前に座った。
「バルテル様」
「様はやめてくれ。門番だ」
「では、バルテルさん」
わたくしは巻き尺を膝に置いた。置いたまま、まだ測らなかった。
「一日を、教えていただけますか」
「一日」
「何刻に起きて、何刻に門にお立ちになって、いつ動かれるかでございます」
バルテルさんは、少し口を開けた。
◇
その方の一日は、こうだった。夜明けの一刻前に起きる。歩いて城まで四半刻。門に立つのが夜明けから。そこから三刻、動かない。
三刻めに交代が来る。半刻休む。休むときは座る。それからまた二刻立つ。
昼過ぎに、城内を巡回する。これは歩く。一刻半、石畳を歩き続ける。戻って、また二刻立つ。
日が落ちて交代。歩いて帰る。四半刻。
「立つのが七刻。歩くのが二刻でございますね」
「そうなるな」
「立っているとき、体重はどちらに」
「……どちらに、とは」
「右と左と、前と後ろでございます」
バルテルさんは、しばらく考えた。
「右だ。槍を右で持つから」
「巡回のときは」
「歩くときは、槍を担ぐ。だから左になる」
わたくしは巻き尺を巻いた。
「では、違う靴が二足要ります」
「そう言われたぞ、さっきから三度」
「はい。ですが、理由が違います」
◇
三日、寝なかったわけではない。二刻ずつは寝た。立ち続けるための靴は、踵を厚く、底を硬くする。硬い底は疲れないが、歩くと足が曲がらない。だから歩くための靴は、底を薄く、爪先の返りを深くする。
それだけなら、どの職人でもやる。うちが変えたのは、右と左だった。
立つための靴は、右の踵の内側を一分厚くした。七刻、右へ体重をかけ続ける足は、右の踵の内から潰れる。先に厚くしておけば、潰れる場所が減る。歩くための靴は、逆にした。左を厚くした。槍を左に担げば、体重は左へ寄る。
同じ足に、左右の違う二足。母が横で縫った。二日目の夜に、母は針の穴を探すのをやめて、わたくしに通させた。三十回ほど通した。
「お母様」
「なんだい」
「見えておりますか」
「見えてないよ」
母は初めてそう言った。
「けど、縫えるんだ。手が覚えてる」
◇
四日目の朝、三軒が並んだ。バルテルさんが履いた。三軒ぶん、六足。
歩いて、立って、また歩いた。会計方の長が横で数えていた。最後に、うちの二足を履いたとき、バルテルさんは立ったまま動かなくなった。
一刻ほど、そのまま立っていた。誰も声をかけなかった。
「……門番」
会計方の長が呼んだ。
「はい」
「どうだ」
「わかりません」
「わからん、とは」
バルテルさんは、自分の足を見下ろした。
「四十年、立ってると足が痛い。それが仕事だと思っておりました」
「うむ」
「痛くありません」
◇
決定は、その日の午後に出た。会計方の長は、書付を読み上げる前に、こう言った。
「三軒とも、寸法は正しかった。腕に差はない」
アルトハウス工房の当主が、杖を握り直した。
「差が出たのは、測ったものだ」
その方は書付を開いた。
「ハルトマン靴店は、門衛長の一日を測っている。他の二軒は、足を測った」
◇
書付を受け取ったのは、夕方だった。
王室御用達 靴工 リディア・ハルトマン。
父の名の下に、二十年ぶりに名前が入った。入ったのは、父の名ではなかった。書付の末尾に、一行あった。細い字で、印の下に添えてある。読んだが、意味がわからなかった。書き忘れではないと思う。役所の紙に、書き忘れは載らない。母に見せようと思って、畳んで懐に入れた。
◇
革通りへ戻ると、工房の前に馬車が停まっていた。黒い。轍が広い。泥除けがない。
ヴェルデン侯爵家の馬車だった。御者は轅から降りていた。四刻でも待つ、という停め方だった。
【今日の一足】立つ靴は右の踵を一分厚く、歩く靴は左を一分厚く。——同じ足でも、槍を持つ手が変われば体重が動きます。
「歩くための靴」と「立ち続けるための靴」は、いまも別物として作られます。底の硬さも、踵の高さも、爪先の返りも違う。一足で兼ねようとすると、たいていどちらにも中途半端になります。
二十日、同じお靴のままの方が、うちにいらっしゃいます。




