第22話 母は、六年ぶんの手紙をとってあった
第四章「歩き方」がはじまります。
荷造りは、二度目だった。一度目は六年ぶんを一晩で畳んだ。今度は二十年ぶんを、二十日かけて畳むことになる。
母は先に、道具から手をつけた。急ぐものから畳むのが荷造りだと父が言っていたそうだ。革包丁、鑿、槌、木型を留める万力。父の代からある道具は、みんな錆びていない。母が二十年、油を引き続けたからだ。
わたくしは棚の木型を数え直していた。四十七に、二十七人ぶんの五十四。合わせて百一。うち一つは割ったので、百。
百の木型を、どこへ持っていけばいいのかは、まだ決まっていない。革通りに空き家はない。近い通りにもない。母は「どこかあるだろ」と言うが、あてがあって言っているのではないと思う。
「リディア」
「はい」
「奥の棚、下から二段目」
「はい」
「布のかかってる箱、下ろしといで」
◇
箱は重かった。両手で抱えて、作業台に置いた。埃をかぶっていたので、布で拭いた。拭いてから、蓋を取った。
手紙だった。紐で束ねてある。束が六つ。それぞれの紐の色が違う。
一番上の束を取った。封筒の宛名は、母の字ではない。わたくしの字だった。
「……これは」
「あんたが寄越したのを、全部とってある」
六年、月に一度、わたくしは母に手紙を書いていた。用件はいつも同じだった。変わりないこと。屋敷の食事のこと。季節のこと。侯爵家の話は書かなかった。書けなかったからだ。手紙は家令が改めることになっていた。
だから、書けることは少なかった。少ないので、いつも同じ話を書いた。
——今月は、木型を三つ直しました。
◇
「裏を見な」
母がそう言った。
わたくしは封筒を裏返した。字があった。母の字だ。大きくて、真っ直ぐで、一頁に三人しか入らないあの字。
——五月 三つ 右踵二 甲一 ヨナスなら二日
次の封筒を裏返した。
——六月 なし 屋敷の飯が薄いと 塩を送る
次。
——七月 五つ 夜会前だね 寝てないよこの子
次。
——八月 一つ 甲を上げた 夏に上げるのは痩せたから 訊いてない
わたくしは束を持ったまま、動かなくなった。六年ぶん。七十二通。全部の裏に、書いてある。
「お母様」
「なんだい」
「これは」
「あんたが三つ直したって書いてきたら、あたしは三つ考えるんだよ」
母は椅子に座って、腕を組んだ。
「どこを直したのかね、って。右の踵か、甲か、爪先か。あんたが書いてこないから、こっちで考える」
「……」
「考えて、書いとく。次の手紙で答え合わせをするからね」
「答え合わせ」
「あんたは何も書かないだろ。だからあたしが当てる」
母は鼻を鳴らした。
「六年で、七十二回だ」
◇
わたくしは、封筒を一通ずつ裏返していった。六年ぶんある。七十二通。裏返すのに、四半刻かかった。
母の字は、途中から少しずつ大きくなっていた。一年目のものは、封筒の裏の下半分に収まっている。六年目のものは、裏いっぱいに書いてある。
大きくなったのは、書くことが増えたからではない。小さく書けなくなったからだ。
わたくしは五年目と六年目の封筒を並べて、字の高さを比べた。二倍近い。二年で二倍になるというのは、そういう落ち方をしたということだ。
◇
わたくしは束を作業台に並べた。一年目の束。二年目。三年目。
三年目の束は、束ねる紐が緩んでいた。何度も解いた紐の緩み方だった。
「三年目に、あんたは手紙を三月書かなかった」
「……はい」
「四月目に来たのが、これ」
母が一通を抜いた。封筒の裏に、母の字がある。
——十一月 書けなかったんだね いいよ こっちは何も減ってない
わたくしはその一行を、何度か読んだ。三年目の冬に、わたくしは「この家に嫁いだのは腕を欲しがられたからだ」と気づいた。気づいて、三月、手紙が書けなかった。
書けなかった理由は、書かなかった。母は、書かれていないものに返事を書いていた。
四年目の束を取った。
——三月 二つ 右の甲 これは痩せたんじゃない むくんだんだね
——七月 なし 夏は動かないのかい あんたが動かないのかい
——十月 四つ 四つは多い 誰か倒れたか
十月に、お義母様が階段で足を捻られた。屋敷中の靴を見直した月だ。母が当てている。
五年目の束。
——二月 一つ 左の小指 これは靴じゃない 床だ
当たっていた。冬に居間の絨毯を替えて、その下の板が反っていた。
六年目の束は、薄かった。
最後の一通の裏に、こう書いてある。
——四月 三つ この子、そろそろ帰ってくるかね
◇
目が熱くなったので、下を向いた。下を向いたら、封筒の束の下にもう一つ、紙が挟まっているのが見えた。
古い紙だった。手紙ではない。折り目が四つある。役所の紙の折り方だ。
「お母様、これは」
「それは違うよ」
「違う」
「それは、六年より前のだ」
わたくしは紙に手を伸ばして、途中で止めた。母が椅子から立ち上がっていた。
「……先に、聞きな」
「はい」
「二十年前、あんたの父さんが死んだ年」
「はい」
「うちは、土地を買い戻してる」
◇
わたくしは手を下ろした。
「買い戻し」
「借財の担保に入れたのが二十年前の春だ。買い戻したのが、同じ年の五月三日」
「五月三日」
「うちの人が登記所へ行った日だ。あたしは店にいた。帰ってきて、『済んだ』とだけ言った」
「では、あの権利書は」
「担保に入れたときの古いやつだよ」
母は箱の縁に手をかけた。
「あの家は、買い戻しを知らないんだと思う」
「知らない」
「知ってたら、二十年も黙ってない。あんたを嫁に取る必要もない。土地を押さえてるなら、いつでも潰せるんだから」
◇
「お母様」
「なんだい」
「なぜ、いままで」
母は答えなかった。
答えないのが答えになる場合がある。けれど、この夜のそれは、また違う種類のものだった。
「……うちの人が死んだのが、その二十日あとだ」
「はい」
「あたしはね、リディア」
母は箱の縁を握った。
「土地の紙を見るたびに、その二十日を数えるんだよ」
「……」
「済んだ、って言った顔を思い出す。嬉しそうだった。ずいぶん嬉しそうだった」
母は手を離した。
「二十年、見られなかった」
◇
わたくしは紙を取らなかった。母がそう言ったから、というだけではない。手を伸ばせば取れるところにある紙が、そこにあるということだけで、しばらく足りる気がした。
母は箱を押して、わたくしのほうへ寄せた。
「持ってきな」
「はい」
「登記所の控えは、あんたの父さんの道具箱の底だよ。御用達の紙の、下」
わたくしは顔を上げた。
「あの紙の、下」
「もう一枚あるだろ」
◇
あの夜、わたくしは道具箱の底の紙を、元のとおりに畳んで戻した。油を吸わせる紙として。二十年、そうしてあったのだから、そうしておくのが正しい気がして。
その下は、見ていない。
母は椅子に座り直した。座って、封筒の束を一つ、指の腹で撫でた。目は近づけなかった。
「これは、証文より強いよ」
どの証文のことかは、母は言わなかった。
【今日の一足】封筒の裏に、六年ぶんの答え合わせ。——書かれていないものに、返事を書く人がいます。
封筒の裏を帳面にする、というのは紙が高かった時代にはよくあったそうです。捨てる前に一度使う。この家がそれをやっている理由は、たぶん紙代だけではありません。
王室御用達の選定です。課題は「同じ足に二足」でした。
ブックマークと評価は、糊を煮る薪の代金に充てさせていただきます。うちは冬に薪が買えない家系です。




