第21話 工房の土地は、侯爵家の名義でした
その方は、噴水の陰から出てこなかった。わたくしのほうが、近づいた。
「お義父様」
「その呼び方はやめろ」
六年ぶりに聞く声だった。低くて、平らだ。応接間で離縁の条項を読ませたときと、まったく同じ調子だった。
「閣下」
「店へ戻れ。話がある」
「本日はもう店を閉めますので、明日でよろしければ」
「今日だ」
その方は背を向けて、歩きはじめた。六歩で、一度止まった。止まって、また歩いた。
◇
工房に着いたとき、母は帳面を広げていた。顔を上げて、それから立ち上がった。立ち上がって、革包丁を作業台に置いた。置く音が大きかった。
「ヴェルデンの」
「マーレン・ハルトマンか」
「そうだよ」
「二十年ぶりだ」
「二十年前に会った覚えはないね」
「覚えていなくてよい」
ゲルハルト様は工房の中を見た。作業台。棚。壁に掛かった型紙。竈。梁から吊るした革の巻き。
この人がこういう場所に立っているのを、わたくしは初めて見た。侯爵邸の応接間にいるときと、姿勢が変わらない。背筋が伸びていて、外套の前が合っている。そのままの姿勢で、天井の低い工房に立っている。
合っていなかった。合っていないことを、この人は気にしていなかった。
「狭いな」
「はい」
「ヨナスの店は、もっと広かった」
母が顔を上げた。
「うちの人の店を、見たことがあるのかい」
「一度ある」
「いつだい」
ゲルハルト様は答えなかった。椅子を勧めたが、座らなかった。立ったまま、外套の内から書類を出した。
「読め」
◇
土地の権利書だった。王都南区、革通り、第十七区画。地番と面積が書いてある。その下に、所有者の名。
ヴェルデン侯爵家。
日付は、二十年前の春だった。
「これは」
「あの証文の担保だ」
ゲルハルト様は書類の下のほうを指した。
「借財の際、この土地を担保に入れている。返済がないまま二十年が過ぎた。所有権はその時点で移っている」
「ギルドは、承認外の借財と申しました」
「ギルドは土地の登記に口を出せん」
わたくしは書類を裏返した。登記所の印が押してある。二十年前の日付。印は本物に見えた。本物だと思う。この家はこういうところで嘘をつく必要がない。
「建物は」
「建物はあなたたちのものだ。土地はうちのものだ」
「では」
「出ていってもらう」
母が椅子の背を掴んだ。
「期限は」
わたくしが聞いた。
「来月の九日」
母が椅子を引いた。引いて、座らなかった。
「あと二十日だよ」
「二十日ある」
「この店は二十年ここにあるんだ。二十日で畳めるかい」
「畳めるだろう。あなたたちは道具しか持っていない」
母は何か言おうとして、口を閉じた。閉じたのは、それが本当だからだ。うちの財産は、道具と木型と、母の手と、わたくしの手しかない。家具は借り物で、竈は据え付けだ。二十日あれば、たしかに畳める。
畳めるということと、畳んでよいということは、別だ。二十年ここにあった店を二十日で畳めるのは、うちが貧しいからであって、身軽だからではない。
◇
来月の九日。王室御用達の選定は、来月の十日だ。
「選の前日でございますね」
「そうだ」
「工房のない工房は、選に出られません」
「そうだろうな」
その方は書類をこちらへ押した。
「異論があるなら登記所へ行け。裁きに三月かかる。三月経てば選は終わっている」
「はい」
「わかったら支度をしろ」
わたくしは書類を作業台に置いた。置いてから、一つだけ聞いた。
「閣下」
「なんだ」
「六年前、なぜわたくしを嫁にお取りになりましたか」
◇
その方は、初めてわたくしの顔を見た。六年、この家にいた。応接間で、食堂で、廊下で、何百回もすれ違った。顔を見られたのは、たぶん十回もない。
「腕が惜しかった」
その方は言った。
「それだけだ」
「はい」
「お前は十四から彫っていた。十九のとき、ヨナスの娘が父親と同じ手をしていると聞いた。だから取った」
「はい」
「取れば、外へは出ん」
「はい」
「間違っていたか」
わたくしは首を横に振った。
「六年、出ませんでした」
「一つ、間違えた」
その方はそう言った。
「はい」
「お前を離縁したことだ」
わたくしは顔を上げた。
「エルマーが言い出した。止めなかった。止める理由がないと思った」
「はい」
「木型が出ていくとは、考えなかった」
「はい」
「木の塊だと思っていた」
その方は初めて、少しだけ視線を下げた。棚のほうへ。麻布の包みが、三段に並んでいる。
「いまも、そう思っている」
「はい」
「思っているが、あれがないと家が止まる。つまりわたしは二十年、何を財産だと思っていたのか、という話になる」
◇
「お義父様」
「その呼び方はやめろと言った」
「閣下」
「なんだ」
「二十年前にも、同じことをなさいました」
その方は書類を折りたたむ手を止めなかった。
「父の御用達を取り上げて、アルトハウス工房を推薦なさいました。断られました」
「調べたか」
「はい」
「そうか」
否定は、しなかった。その方は書類を懐に入れて、外套の前を合わせた。
「一つ教えてやる」
「はい」
「あの年、王室の弟君が亡くなった」
「……」
「お前の父が靴を作っていた相手だ。あの方が亡くなって、補高の要る客は王室からいなくなった」
「はい」
「御用達というのは、必要があるから置く。必要がなくなれば、要らん」
その方は扉のほうを向いた。
「わたしはそれを、少し早く動かしただけだ」
◇
母が何か言おうとしたので、わたくしは袖を押さえた。押さえた手を、母が振り払わなかった。それだけで、この人がどれだけ怒っているかがわかった。
「閣下」
「まだあるのか」
「来月九日までに、お引き渡しいたします」
ゲルハルト様は少しだけ振り返った。
「素直だな」
「土地は、閣下のものでございますので」
「本当にそう思っているのか」
「思っております」
「なぜだ」
「紙にそう書いてございますので」
その方はしばらくこちらを見ていた。
「お前は、六年前もそう言った」
「はい」
「木型はわたくしのもの、と紙に書いてある、と」
「はい」
「同じ理屈だな」
「木型はわたしのものではない、と言ったのと同じ口でか」
「同じ口でございます」
その方は、それに何も返さなかった。
◇
扉のところで、その方は敷居をまたいだ。またぐとき、一度止まった。
止まって、右足を持ち上げ直した。一度目は爪先が敷居に当たったのだと思う。二度目で、少し高く上げて、越えた。
外反が進んでいらっしゃる、とわたくしは思った。この家の当主は六十に近い。親指の付け根が外へ倒れると、爪先が上がりにくくなる。上がりにくくなれば、敷居に引っかかる。年相応の足だ。
わたくしは書類の写しを取るために、紙とペンを出した。母が扉のほうを見たまま、動かなかった。
「お母様」
「……なんでもない」
「写しを取ります。手伝っていただけますか」
「ああ」
母は椅子に座った。座って、しばらく手を膝に置いていた。
【今日の一足】敷居を、二度に分けてまたぐ。——爪先が上がらない足は、低いところで引っかかります。
土地と建物の所有者が違う、という状態は現実にもあります。建物を壊す権利は建物の持ち主にありますが、そこに建て続ける権利は土地の持ち主が握っている。動かせないものほど、こういう理屈で押さえられます。
ここまでで第三章が終わりました。母が、六年ぶんの手紙を出してきます。




