第4話 殴り合いの喧嘩
レンがカイに向って叫んだ。
「そうやってすぐ噛みつく。だからお前はFランクなんだよ」
倉庫が凍った。
鉄骨の隙間を抜ける夜風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
ケイゴが小さく息を呑む。
ナナの目が鋭くなる。
ヤマガの拳が、無意識に握られた。
ミオだけが、静かにレンを見ていた。
人間の言葉が、刃になる瞬間を観察するように。
カイは動かなかった。
ただ、レンを見ていた。
その目は怒っている。
だが、それだけではない。
呆れ。
痛み。
悔しさ。
そして、ほんの少しだけ、傷ついた子供のような色があった。
カイは低く言った。
「……今、何て言った」
レンは一瞬だけ目を逸らしかけた。
だが、逸らさなかった。
ここで引いたら、また昔の自分に戻る。
カイの後ろで、言いたいことを飲み込んでいた自分に戻る。
だから、レンは言った。
「だからお前はFランクなんだって言った」
カイの拳が、ゆっくり握られる。
レンも続けた。
「何も変えられない。壊すだけ。逃げるだけ。吠えるだけ」
「……」
「俺たちはずっとそうだった。警察から逃げて、AI端末を壊して、バイクで走って、世の中に中指立てて、それで何か変えた気になってた」
レンの声が震えていた。
怒りで。
いや、怒りだけではない。
ずっと胸の底に沈めていた、本音が濁流のように溢れていた。
「でも今日、俺は変えたんだ」
レンは自分の胸を指差した。
そこには、政府認定バッジ。
そして、Aランク表示。
「俺が警察ロボを止めた。俺が市民を助けた。俺が街を守った。誰かに必要とされた」
カイは歯を食いしばる。
「AIにつけられたランクで、そんなに嬉しいか」
「嬉しいよ!」
レンは叫んだ。
その叫びは、倉庫の壁にぶつかって跳ね返った。
「嬉しいに決まってるだろ!」
カイの目が揺れた。
レンは止まらない。
「お前には分からないんだよ! お前はFランクでも平気な顔して笑ってられる。最低評価でも、全部ぶっ壊して走ってられる。でも俺は違う!」
レンは拳を震わせた。
「俺は怖かったんだよ。ずっと。自分が何者でもないのが。お前の横にいるだけの奴だって思われるのが。誰からも必要とされないまま終わるのが!」
カイは言い返す。
「俺はお前を必要としてただろ!」
レンの目が見開かれる。
その言葉は、胸に刺さった。
だからこそ、余計に腹が立った。
「そういうとこだよ!」
レンは一歩踏み込んだ。
「お前が必要だって言えば、それで俺が救われると思ってるのか!?」
「違ぇよ!」
「違わない!」
レンはカイの胸を突いた。
「お前は俺を相棒って呼んだ。でも、お前はいつも前にいた。俺はいつも後ろだった。お前が決めて、お前が走って、お前が殴って、お前が助ける」
「それは」
「守るためだろ?」
レンは先に言った。
カイが黙る。
レンは苦しそうに笑った。
「ほらな」
その笑いは、笑顔ではなかった。
ずっと飲み込んできた惨めさが、顔に張りついたような表情だった。
「それが嫌だったんだよ」
カイは低く言う。
「守られるのが嫌なら、そう言えよ」
「言えるわけないだろ!」
レンの声が裏返った。
「惨めだからだよ!」
倉庫の空気が、さらに重くなる。
レンは目に涙を浮かべていた。
だが、絶対に泣かなかった。
泣いたら、また負けた気がする。
「お前みたいになりたかったなんて」
レンは歯を食いしばる。
「お前の背中を追いかけてたなんて」
声が震える。
「言えるわけないだろ……!」
カイの表情が変わった。
怒りの奥に、何かがひび割れる。
「レン……」
「その顔やめろ!」
レンは叫んだ。
「同情するな!」
「同情じゃねぇ!」
「じゃあ何だよ!」
「心配だ!」
「いらねぇよ!」
レンが叫ぶ。
「もう、お前の心配なんかいらねぇ!」
その瞬間、カイの中で何かが切れた。
カイは一歩踏み込んだ。
「だったら、何でここに戻ってきた」
レンの顔が強張る。
カイは続けた。
「政府に行くって決めたなら、黙って行けばよかっただろ。Aランク様になったなら、俺たちみたいなFランクの巣に戻ってくる必要なんかねぇ」
「……」
「なのに来た」
カイはレンを睨む。
「俺に見せに来たのか。そのバッジを。そのランクを。お前が認められたってことを」
レンの唇が震えた。
図星だった。
認めてほしかった。
カイに。
誰よりも。
だが、その気持ちを認めた瞬間、自分がまたカイの評価を欲しがっているようで、たまらなく悔しかった。
レンは低く言った。
「お前が羨ましがると思ったんだよ」
カイの目が細くなる。
「何?」
レンは笑った。
冷たく。
自分でも嫌になるほど、冷たく。
「俺がAランクになった。街に必要とされた。英雄って呼ばれた。だから、お前は悔しいんだろ」
カイの拳が震える。
「レン」
「悔しいって言えよ」
「黙れ」
「お前は俺を心配してるんじゃない。俺が自分より先に行ったのが気に入らないんだ」
カイの顔が歪んだ。
「黙れって言ってんだろ」
「Fランクのまま吠えてろよ、カイ」
その瞬間。
カイの拳が、レンの顔面に叩き込まれた。
鈍い音が倉庫に響いた。
レンの顔が横に弾かれる。
政府認定の接続者用スーツが、衝撃で揺れる。
口の端から血が飛んだ。
ケイゴが悲鳴を上げる。
「カイ!」
ヤマガが前に出る。
「おい、やめ――」
「来るな!」
カイが怒鳴った。
その声に、ヤマガの足が止まる。
カイはレンを睨んでいた。
レンはゆっくりと顔を戻す。
唇が切れている。
血が顎へ垂れている。
だが、笑った。
「やっと殴ったな」
次の瞬間、レンの拳がカイの頬に突き刺さった。
今度はカイが吹き飛ぶ。
背中が作業台にぶつかり、工具が床に散らばった。
ガシャン!
金属音。
火花。
カイは肩で息をしながら立ち上がる。
レンは拳を握り直した。
「俺だって、殴れるんだよ」
カイは血を吐き捨てた。
「知ってるよ」
「知らねぇだろ!」
レンが突っ込む。
カイも前に出る。
二人の拳が同時にぶつかった。
倉庫の中央で、カイとレンは殴り合いを始めた。
技なんかない。
構えもない。
きれいな喧嘩ではなかった。
胸ぐらを掴み。
肩を押し。
顔面を殴り。
腹を打ち。
足をもつれさせ。
鉄骨にぶつかり。
床に転がり。
また立ち上がる。
ただの、若い喧嘩だった。
だが、その一発一発に、言葉にならなかった感情が乗っていた。
カイの拳がレンの頬を打つ。
「勝手に遠くへ行くな!」
レンの拳がカイの鼻をかすめる。
「ずっと遠かったのは、お前だろ!」
カイがレンの胸ぐらを掴んで鉄柱へ押しつける。
「俺はお前を下に見たことなんかねぇ!」
レンが膝でカイの腹を突く。
「だったら何で、いつも守る側の顔してんだよ!」
カイがよろめく。
レンが顔面へ拳を入れる。
カイの唇が切れる。
血が床に落ちる。
カイもすぐに殴り返す。
レンの頬が腫れる。
青白く光っていた目が、一瞬揺れる。
だが、レンは下がらない。
二人は何度も殴り合った。
拳が痛む。
息が切れる。
顔が腫れていく。
目の下が赤くなる。
唇が裂ける。
額から血が滲む。
それでも止まらない。
ヤマガは歯を食いしばりながら見ていた。
「くそ……」
止めたい。
でも止められない。
これは、誰かが割って入れる喧嘩ではなかった。
ケイゴは泣きそうな顔で叫ぶ。
「もういいよ! 二人とも!」
ナナはケイゴの腕を掴んで止めた。
「今止めたら、もっと壊れる」
「でも!」
「分かってる」
ナナの声も震えていた。
「でも、今は殴らせるしかない」
ミオは、ただ見ていた。
理解できないものを見る目で。
痛いのに。
傷つくのに。
なぜ、人間は向き合うために殴るのか。
なぜ、大切な相手ほど、強く傷つけてしまうのか。
彼女には分からない。
だが、胸の奥が少し苦しかった。
それが何なのかも、まだ分からなかった。
カイはレンの肩を掴み、床へ押し倒した。
工具が散らばる床に、二人の体が転がる。
カイは上からレンを殴ろうとした。
だが、拳が一瞬止まる。
レンの顔は、もうボコボコだった。
頬は腫れ、唇は切れ、片目の下には赤黒い痣ができている。
それでもレンは、カイを睨んでいた。
涙を浮かべながら。
絶対に負けたくない顔で。
カイの拳が震える。
その隙に、レンはカイを押し返した。
「手ぇ止めんなよ!」
レンが叫ぶ。
「また守る気かよ!」
カイの目が見開かれる。
レンは体を起こし、カイの顔を殴った。
「俺を!」
もう一発。
「弱い奴みたいに!」
さらに一発。
「扱うな!」
カイの顔が弾かれる。
鼻血が流れる。
だが、カイもレンの胸ぐらを掴み返した。
「弱いなんて思ってねぇよ!」
カイが叫ぶ。
そして、レンの顔面を殴った。
「お前が強いのは知ってる!」
もう一発。
「頭いいのも知ってる!」
もう一発。
「俺が無茶できたのは、お前がいたからだ!」
レンの表情が歪む。
カイは叫び続けた。
「お前が止めてくれると思ったから!」
「お前が後ろを見てくれると思ったから!」
「お前がいるから、俺は前に走れたんだよ!」
レンの拳が止まった。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
だが、その言葉はレンの胸を貫いた。
ずっと欲しかった言葉だった。
ずっと聞きたかった言葉だった。
けれど、今さら言われても遅い。
遅すぎる。
レンは歯を食いしばる。
「だったら……」
声が震える。
「だったら、もっと早く言えよ!」
レンの拳が、カイの顎を打ち抜いた。
カイが床へ倒れる。
レンも膝をつく。
二人とも、もう限界だった。
息が荒い。
拳は腫れている。
顔は互いにボコボコ。
血と汗と涙が混ざって、どちらのものか分からない。
それでも、二人はまだ立とうとする。
カイが作業台に手をついて立ち上がる。
レンも鉄柱に寄りかかりながら立つ。
二人はふらつきながら、もう一度向かい合った。
カイが言う。
「レッドノイズを抜けるって、本気か」
レンは荒い息を吐きながら答える。
「本気だ」
「政府に行くのか」
「ああ」
「利用されるぞ」
「分かってる」
カイの目が揺れる。
レンは続けた。
「それでも、力が必要なんだよ」
「俺たちじゃ足りねぇってことか」
レンは黙った。
それが答えだった。
カイの顔が歪む。
「そうかよ」
レンは拳を握った。
「お前は、いつも勢いでどうにかしようとする。でも今回は違う。相手はガイア・マザーだ。都市そのものだ。世界そのものだ」
「だから?」
「だから、俺は中に入る」
レンは胸のバッジを掴んだ。
「Aランクでも、政府でも、接続者でも、使えるものは全部使う」
カイは低く笑った。
「偉くなったな」
レンも笑う。
「少なくとも、外から吠えてるだけのお前よりはな」
カイの拳がまた飛んだ。
レンの拳も同時に飛ぶ。
二人の拳が互いの顔面を捉えた。
鈍い音が重なる。
二人は同時によろめき、膝をつく。
それでも、互いの胸ぐらを掴んだ。
カイは叫ぶ。
「俺はお前を止める!」
レンも叫ぶ。
「俺はお前の後ろには戻らない!」
「戻れなんて言ってねぇ!」
「じゃあ何だよ!」
「一人で行くなって言ってんだよ!」
その言葉に、レンの目が揺れた。
だが、すぐに顔を伏せる。
「……一人じゃない」
レンは小さく言った。
「政府がいる。都市ネットワークがある。俺を必要とする人間がいる」
カイは吐き捨てる。
「それは仲間じゃねぇ」
レンは顔を上げた。
「お前が決めるな」
二人はもう殴らなかった。
殴れなかった。
体力が尽きたのではない。
殴れば殴るほど、本当は互いを失いたくないことが分かってしまったからだ。
レンはゆっくりとカイの胸ぐらから手を離した。
カイも同じように、レンの服を離す。
倉庫に、荒い呼吸だけが残った。
レンはふらつきながら立ち上がる。
特殊スーツは汚れ、政府認定バッジには血がついていた。
Aランクの輝きは、殴り合いの中で泥と血にまみれていた。
それでも、レンはそれを外さなかった。
カイは床に座り込んだまま、レンを見上げる。
「行くのか」
レンは答える。
「行く」
ケイゴが小さく言った。
「レン……」
ヤマガが歯を食いしばる。
「本当に、それでいいのかよ」
ナナは何も言わない。
ミオはレンを見つめている。
レンは全員を一度だけ見た。
懐かしい場所。
油の匂い。
壊れたバイク。
散らばった工具。
何度も笑った倉庫。
何度も逃げ帰った場所。
レッドノイズの根城。
自分の居場所だった場所。
レンの喉が震える。
だが、言葉は冷たく出た。
「俺は、もうレッドノイズじゃない」
その一言が、倉庫に落ちた。
誰もすぐには動けなかった。
カイは俯いた。
拳が震えている。
怒りか。
悲しみか。
分からない。
レンは背を向ける。
シャッターの外には、政府軍の護衛が待っている。
白いライトが差し込む。
レンはその光へ向かって歩き出した。
カイが呼んだ。
「レン」
レンは足を止める。
カイは、血だらけの顔で笑った。
痛そうに。
悔しそうに。
それでも、いつものカイらしく。
「今のお前、すげぇムカつく」
レンは振り返らない。
「だろうな」
「だから、次会ったらまた殴る」
レンは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
「やってみろよ、Fランク」
カイも笑った。
「上等だ、Aランク」
レンは倉庫を出ていった。
シャッターが閉まる。
重い金属音が響く。
レッドノイズの根城から、ひとつのエンジン音が遠ざかっていく。
青いバイクの音だった。
カイはその音を、黙って聞いていた。
遠ざかる。
どんどん遠ざかる。
相棒の音が。
やがて、完全に聞こえなくなった。
ヤマガが低く呟く。
「……行っちまったな」
ケイゴは涙声だった。
「殴り合って、顔ボコボコにして、それで出ていくなんて……馬鹿だよ……二人とも馬鹿だよ……」
ナナは端末を閉じた。
「でも、あれがあの二人の会話だったんでしょ」
ミオは静かに言った。
「人間は、理解するために傷つけ合うのですか」
誰も答えられなかった。
カイは床に落ちていた古いエンジン部品を拾った。
喧嘩の衝撃で、端が欠けている。
それでも、まだ使える。
カイはそれを強く握った。
顔は腫れている。
唇は切れている。
鼻血も止まっていない。
片目も少し開きにくい。
だが、その目だけは死んでいなかった。
カイは立ち上がる。
ふらつきながら。
それでも立つ。
「俺たちも行くぞ」
ヤマガが顔を上げる。
「どこへ」
カイは、シャッターの向こうを見る。
レンが向かった方角。
政府庁舎。
そして、そのさらに奥。
旧東京。
母の塔。
ガイア・マザーの心臓。
カイは笑った。
「Aランク様が道を間違えた時、Fランクが殴りに行ける距離にいねぇとな」
ヤマガが、少しだけ笑った。
「青春だな」
ケイゴが泣きそうな顔で言う。
「青春って、もっと爽やかなものじゃないの?」
ナナが肩をすくめる。
「この街じゃ、血まみれでも青春よ」
ミオはカイを見た。
「カイ。レンは戻りますか」
カイは少し考えた。
そして、血だらけの口で笑った。
「戻らなきゃ、連れ戻す」
「殴って?」
「殴って」
「それは効率的ではありません」
「知ってる」
カイは赤いバイクへ歩く。
「でも、俺たちは人間だからな」
倉庫の中に、エンジン音が響いた。
レンが去った夜。
レッドノイズは、ひとりの仲間を失った。
だが、カイはまだ終わったとは思っていない。
殴り合った。
傷つけ合った。
顔がボコボコになるまで、本音をぶつけ合った。
それでも、あいつはまだ相棒だ。
たとえ今は、別々の道を走っていても。




