王弟殿下、半分正解でさらに迷子になる
珖雅は、瓶の中の木ノ実をじっくりと観察した。
蜂蜜の中で静かに揺れるのは、どれも丁寧に殻を割られ、中身が露わになった木ノ実たちだった。
「……木ノ実、だよな……」
珖雅は低く呟く。
「つまり、甘くなる準備はできている。だが、それでも蜂蜜が中まで染み込むには時間がかかる……という蓮珠からの宣告だな」
その瞬間、珖雅の胸に、清々しいほどの敗北感が広がった。
そして同時に、それを上回るほどの高揚が満ちていく。
あの子は、自分の心が甘くほどける時間さえ、自らの手で決めようとしている。
ならば、その時間をどう過ごすか。
そこに、珖雅が入り込む余地がある。
「……なるほど。そう来たか、蓮珠」
珖雅は手紙の横に、小さな箱を並べた。
箱の中には、白と淡い桃色の落雁。
形は、またしてもうさぎだった。
以前とは違う。
あの時のうさぎが「大事」なら、今度のうさぎは「特別」という誓いだ。
珖雅は筆を取り、慎重に言葉を選んだ。
◇ ◇ ◇
蓮珠へ。
蜂蜜に漬けられた木ノ実、しかと受け取った。
殻を割り、蜜の中に身を浸しながらも、簡単にはその奥まで甘さを許さない。
……君は本当に、どこまで私を翻弄すれば気が済むのだろうな。
「甘くなるには時間がかかる」
そういう意味なら、私はその時間を惜しまない。
君が納得するまで待とう。
君が私の言葉を受け取る気になるまで、何度でも言葉を尽くそう。
共に添えたのは、また落雁のうさぎだ。
以前の「大事」とは意味を変えよう。
このうさぎは、改めて君と向き合い、君を「特別」として大切にするという、私の誓いだ。
約束を思い出すこと。
君の気持ちを急かさないこと。
そして、それでも君に近づくことを諦めないこと。
そのすべてを、私は君への想いの証として手紙につづろう。
もし君が許すなら、その時にもう一度、君の言葉で答えを聞かせてほしい。
もちろん、君がまだ「教えない」と言うのなら、それも受け止めよう。
ただし私は、諦めない。
珖雅
◇ ◇ ◇
書き終えた珖雅は、しばらくその文面を見つめた。
蓮珠の仕掛けに対する、珖雅なりの返礼だった。
「……朔夜」
「はい」
「これを届けてくれ」
珖雅は、封じた手紙と落雁の箱を差し出した。
朔夜は手紙を受け取り、わずかに目を細めた。
「……答えを急ぎすぎないでください」
「分かっている」
「本当に?」
「……努力する」
「そこは断言していただきたいところでした」
奏多が横から小さく笑う。
「殿下にしては、だいぶ抑えた手紙ですね」
「お前は私を何だと思っている」
「蓮珠さまが絡むと、情緒が蜂蜜より煮詰まる方です」
「奏多」
「失礼しました」
珖雅は窓を開け、風に当たった。
もう、胃は痛くない。
ただ、愛しき蓮珠に会いたくて、心臓が落ち着かないだけだ。
「……待っていろ、蓮珠」
彼は、風の向こうにいる幼馴染へ語りかけるように呟いた。
「君が自分から近づいてくれるまで、私は何度でも、その心へ届ける」
◇ ◇ ◇
蓮珠は、珖雅から届いた手紙を読み終え、照れつつ、くすりと喉を鳴らして笑っていた。
「ふふ……珖雅兄さま、半分正解」
そう言いながら、蓮珠は手紙の端を嬉しそうに指先で撫でた。
「でも、半分は不正解です」
珖雅が考えた「甘くなるまでに時間がかかる」という意味。
それはそれで、間違いではない。
けれど、蓮珠が込めた意味はそれだけではなかった。
「いつ気づくかなぁ」
蓮珠は悪戯っぽく目を細める。
「……教えませんけれど、ね」
侍女に命じ、蓮珠は新しい材料を運ばせた。
今度は、深く濃厚なコクを持つピスタチオ。
香ばしく、力強い風味のヘーゼルナッツ。
そして、やっぱり外せない榛の実も。
昨日よりもさらに食べ応えのある木ノ実たちを、瓶の中へ丁寧に沈めていく。
ただ甘いだけではない。
それはまるで、蓮珠自身のようだった。
「答えに辿り着くかしら。ふ、ふふふ」
蓮珠は小さな銀の鈴を手に取った。
それを瓶の首元へ、白のリボンと一緒に結ぶ。
揺れるたびに、ちりん、と澄んだ音が鳴った。
「今度は、ちゃんと聞こえるかしら」
翌日。
珖雅の執務室へ届けられたのは、昨日とは比べものにならないほど芳醇な香りを漂わせる瓶だった。
中を見れば、昨日よりも明らかに種類が多い。
ピスタチオに、ヘーゼルナッツ。
選び抜かれた木ノ実が、たっぷりと蜂蜜に沈んでいる。
そして瓶の首元には、小さな銀の鈴が結ばれていた。
揺れるたびに、ちりん、ちりん、と澄んだ音が鳴る。
珖雅はそれを受け取ったまま、しばらく固まった。
「……増えた」
奏多が横で吹き出しかける。
「増えましたね」
「しかも、昨日より明らかに手が込んでいる」
「ええ。香りも強いですね」
朔夜が瓶を覗き込み、わずかに眉を上げた。
「これはまた、随分と食べ応えがありそうですね」
「食べ応え……」
「妹は、殿下に『もっと深く考えて』と言っているのでしょうか」
奏多も苦笑する。
「あるいは、『甘さだけで分かった気にならないでくださいね』という、大人の女の余裕かもしれません」
珖雅は鈴を指先で弾いた。
ちりん、と澄んだ音が響く。
「……半分正解で、半分不正解」
「おそらくは」
「しかも、答えは教えない」
「でしょうね」
珖雅の瞳が、ゆっくりと細められた。
「この鈴……鳴らせば君のもとへ届くという合図か。それとも、私に気づけという警告か」
「警告」
奏多が小さく復唱した。
「それが一番近い気もしますね」
「どういう意味だ」
「鳴っているのに気づかないなら、殿下はまだまだですよ、という」
珖雅は黙り込んだ。
瓶の中の木ノ実。
蜂蜜。
白のリボン。
そして、銀の鈴。
すべてが、蓮珠からの言葉なき問いかけだった。
「……朔夜」
「はい」
「次は、鈴とうさぎを組み合わせた飴細工を作らせる」
「なぜそうなるのですか」
「返礼だ」
「答え合わせではなく?」
「両方だ」
奏多が、呆れたように笑った。
「殿下。そうやってすぐ返礼を増やすから、余計に暗号が複雑になるのでは?」
「黙れ。これは戦だ」
「恋です」
「同じようなものだ」
「違います」
朔夜が即座に否定した。
珖雅は聞こえないふりをして、鈴の音をもう一度鳴らした。
ちりん。
小さく、澄んだ音。
その音が耳に残る。
まるで、蓮珠がどこかで笑っているようだった。
「……蓮珠」
珖雅は瓶を見つめ、低く呟く。
「君が『教えない』と言うのなら、私は何度でも考えよう。君が隠した意味も、君が鳴らした音も、すべて拾い上げてみせる」
その声は静かだった。
けれど、そこに宿る執着は、瓶の底まで満ちた蜂蜜よりも深く、重い。
朔夜と奏多は、顔を見合わせた。
答えに近づいている。
けれど、まだ肝心なところには届いていない。
蓮珠が鳴らした小さな鈴の意味を、珖雅が正しく聞き取るのは、もう少し先になりそうだった。
そして当然のように、その日の書類も一枚も進まなかった。
なお、奏多がその後こっそり処理した書類の枚数は、珖雅には最後まで知らされなかった。
「それで、約束は思い出したんですか?」
奏多の問いに、執務机へ突っ伏したまま、珖雅は絞り出すように呻いた。
「それがな……情景は思い出すのに、肝心の『約束』の言葉だけが出てこないんだ」
珖雅は机に額を押しつける。
「あの日、蓮珠は驚いて、あんなにも嬉しそうに笑ったというのに。くそっ、私の記憶はどうなっているんだ……!」
その様子に、朔夜が無表情のまま切り捨てた。
「ポンコツ」
奏多も、ためらいなく続ける。
「かなりのポンコツですね」
「……分かっている! 分かっていると言っているだろう!」
珖雅は己の不甲斐なさに吠えた。
だが次の瞬間、彼の視線が机の端に置かれた予定表で止まった。
そこには、本日の予定が小さく記されている。
――蓮珠、市井にて子どもたちへ歌の手ほどき。
珖雅は、弾かれたように立ち上がった。
「待て」
「はい?」
「今日だったか!」
朔夜と奏多が、同時に目を細める。
「蓮珠が街で子どもたちに歌を教える日というのは!」
「はい。そうですが」
「なぜ早く言わない!」
「殿下が蜂蜜漬けと戦っておられましたので」
「奏多!」
珖雅は瓶に結ばれた銀の鈴をつかみ、慌てて懐に入れようとして、すぐに思い直した。
「いや、これは持って行くべきか? 蓮珠に見せれば何か反応が……いや、持ち歩いて割れたら死ぬ。私が死ぬ」
「瓶は置いていってください」
「分かっている!」
珖雅は慌ただしく立ち上がった。
「支度だ。例の支度を整えろ!」
その一言に、朔夜と奏多の表情が、ほんのわずかに固まった。
「……例の、ですか」
「ああ」
「本当に、あれで?」
「今さら他に何がある!」
「いえ。殿下がそれでよろしいなら」
「よろしくはない! だが、これが一番確実なんだ!」
奏多が何かを言いかけ、諦めたように口を閉じた。
「……分かりました。では、至急整えます」
「急げ!」
「殿下、まず落ち着いてください」
「落ち着いていられるか!」
王弟の威厳も何もない。
珖雅は側近たちを急かし、まるで初めて想い人に会いに行くように、慌ただしく“いつもの支度”を整え始めた。
蜂蜜漬けの木ノ実に続き、今度は約束そのものが珖雅を襲う。
王弟殿下の一日は、まだ終わらない。
最後までお読みいただきありがとうございました!
今回は、蜂蜜漬けの木ノ実から始まった暗号合戦が、さらにややこしくなる回でした。
珖雅は半分正解まで辿り着きましたが、蓮珠はまだ答えを教えてくれません。
しかも、次に届いた瓶は木ノ実が増え、銀の鈴までついていました。
本人たちは真剣なのに、傍から見るとどんどん勝手に難しくなっていく恋路です。
朔夜と奏多の苦労も、そろそろ増えてきました。
そして最後に、珖雅は大事な予定を思い出しました。
次回は、王弟殿下が“例の支度”で市井へ向かいます。
少しでもクスッと笑っていただけたら嬉しいです。
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