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蜂蜜漬けの木ノ実と、崩壊する王弟殿下

 

 執務室に持ち込まれたのは、繊細な意匠が施された小さなガラス瓶だった。


 透明な瓶の中には、琥珀色の蜂蜜。

 その甘やかな光の中で、胡桃や木ノ実が静かに沈んでいる。


 執務机の上に置かれたそれを見た瞬間、珖雅の呼吸が止まった。


「……蓮珠レンジュからか」


「はい」


 使者が下がるのを待つ間、珖雅は王弟としての威厳を辛うじて保っていた。


 だが、扉が閉まった瞬間。


 彼は瓶を両手で受け取り、ほとんど祈るような顔で周囲を見回した。


(……手紙は?)


 箱の中を探る。


(手紙はないのか?)


 布の下をめくる。


(いや、どこかに隠してあるのではないか? 蓮珠のことだ、私を試すためにあえて見えにくい場所へ――)


 箱を傾ける。

 底を確認する。

 蓋の裏まで覗き込む。


 だが、どこにも蓮珠の筆跡は見当たらない。


 あるのは、ただ重厚な瓶と、その蓋に括り付けられた小さな真紅のリボンだけだった。


「……ない」


 珖雅コウガの声が震えた。


「手紙が、ない」


 その場にいた朔夜サクヤ奏多カナタが、同時に瓶を見る。


 珖雅は瓶を握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 その表情は、戦場で敵軍に囲まれた時ですら見せたことがないほど深刻だった。


「こ、こ、これは……蜂蜜……木ノ実……ッ!」


 珖雅は瓶を掲げる。


「どういう意味だ!?」


 王弟殿下、混乱である。


 これまで蓮珠とは、菓子や贈り物に意味を込めて言葉を交わしてきた。


 花の落雁。

 飴細工。

 小さな甘味。


 それぞれに、二人だけが知る意味があった。

 少なくとも、珖雅はそう思っていた。


 だが、今回のこれは菓子ではない。


 蜂蜜漬けの木ノ実。


 珖雅の辞書にはない。

 いや、もしかすると蓮珠がこの数年で新しく習得した、あるいは自ら編み出した、未知の暗号なのかもしれない。


「朔夜! 奏多! 見ろ、これだ!」


 珖雅は瓶を二人の前へ差し出した。


「なぜ手紙がない! なぜ菓子ではないのだ! なぜ木ノ実なのだ! これは、私が嫌われたということか? いや、それとも、もう言葉を交わす価値もないという宣告か!? まさか、蜂蜜で丁寧に封じ込めた沈黙という意味ではあるまいな!?」


「落ち着いてください」


 朔夜が淡々と言った。


「落ち着けると思うか!」


「思いません」


「ならばなぜ言った!」


「一応です」


 珖雅は瓶を抱えたまま、執務室をうろうろと歩き回った。


 形相は凄まじい。

 冷や汗を流し、かつてないほど取り乱している。


 その様子を見て、奏多が小さく息を吐いた。


「本当に、蓮珠さまが絡むと見事に壊れますね」


「壊れてなどいない!」


「では、まず瓶を抱きしめるのをおやめください」


「これは蓮珠からの贈り物だ」


「だからといって、子猫のように抱える必要はありません」


 珖雅ははっとした顔で瓶を見下ろし、慌てて机に置いた。


 だが、指は離れない。


 片手だけ、瓶の蓋に添えたままである。


 奏多はそれを見て、静かに目を逸らした。


 朔夜は瓶を覗き込み、わずかに口角を上げた。


「ほぉ……」


 その意味深な響きに、珖雅は縋るような目で朔夜を見た。


「朔夜、分かるのか!?」


「いえ」


「分からないのか!」


「ただ、我が妹らしいとは思いました」


「その言い方はやめろ! 余計に不安になる!」


 奏多もまた、瓶を眺めながら小さく笑った。


「あらら……。これは、殿下が一番苦手な分野かもしれませんね」


 その言葉に、珖雅の頭が真っ白になる。


「苦手な分野?」


「ええ」


「どういうことだ。意味を言え。私は……私は蓮珠の全てを知っていると思っていたのに……ッ!」


「そこで全てを知っていると思っているあたりが、まず問題なのでは?」


「奏多!」


 珖雅は王弟の威厳をかなぐり捨て、床に膝をつきそうになりながら、瓶を神の啓示か何かのように見つめた。


「蜂蜜の甘さと、木ノ実の硬さ……一体、彼女は何を考えているんだ?」


「普通に考えれば、蜂蜜漬けの木ノ実を贈ってくださっただけでは」


「普通に考えるな!」


「普通に考えさせてください」


「蓮珠が私に、ただの蜂蜜漬けを贈るはずがない!」


 その自信だけは揺るがないらしい。


 朔夜はしばし黙って瓶を眺めていたが、やがて静かに言った。


「殿下」


「何だ」


「そもそも、返しがあった時点で拒絶ではありません」


 珖雅は固まった。


 奏多も頷く。


「本当ですよ。嫌いなら、手の込んだ蜂蜜漬けなど送りません」


「……」


「瓶も綺麗ですし、リボンまで結ばれています。少なくとも、雑に突き返したものではありません」


「……そう、か」


 珖雅は瓶を両手で包み込むように持ち直した。


「嫌いなら、こんな手間のかかるものを贈るはずがない……」


「はい」


「蓮珠は、私を拒絶していない」


「そこは間違いないかと」


 珖雅の顔に、ようやく血の気が戻った。


 先ほどまでの絶望はどこへやら、今度は瓶の中身を食い入るように見つめ始める。


 琥珀色の蜂蜜の中で、胡桃や木ノ実が宝石のように眠っている。


「蜂蜜……甘さ、慈しみ、時間をかけること。木ノ実……実り、硬い皮、守られた中身……」


 珖雅の頭脳が、ようやく本来の速度で回り始めた。


「蜂蜜に漬ける、という行為。それは『ゆっくりと時間をかけて馴染ませる』という意味か? それとも、『私の硬い心を、あなたの熱で溶かしてみなさい』という挑戦状か……」


「すでにだいぶ都合よく解釈し始めましたね」


 奏多がぼそりと呟く。


 珖雅は聞こえないふりをした。


「蓮珠……君は私に、もっと待てと言うのか? それとも、この硬い木ノ実を噛み砕くほどの情熱を見せろと言うのか?」


「噛み砕かないでください。食べ物です」


「比喩だ!」


 珖雅は深く息を吐き、ようやく側近二人を見た。


 その目は少しだけ落ち着きを取り戻している。


 ただし、その奥には先ほどよりも深い執着が灯っていた。


「……確かに、嫌われてはいない」


「はい」


「だが、これは間違いなく私を試しているな」


「その可能性はありますね」


 奏多がにこりと笑った。


 朔夜は無言だった。

 だが、その無言が、どこか「ようやくそこまでは来ましたか」と言っているように見える。


 珖雅は瓶を執務机の特等席に置いた。

 そして、愛おしげに指先でその縁をなぞる。


「面白い。あの子は着々と、独自の駆け引きのルールを作り上げているわけだな」


「独自というより、殿下が勝手に戦場を広げているだけでは?」


「黙れ、奏多」


「はいはい」


 珖雅の口元に、王弟としての冷徹さではない、恋する男特有の歪んだ笑みが浮かんだ。


「これは私には少々、高度な戦場だな。だが、受けて立つ。木ノ実を蜂蜜に漬けるほどの余裕があるのなら、私がその余裕を、甘い言葉で――」


「その前に」


 朔夜の声が、すぱりと割って入った。


 珖雅は言葉を止める。


「何だ」


「約束を思い出す方が先なのでは?」


「……約束?」


 珖雅の眉がわずかに動いた。


 朔夜は瓶を見下ろしながら続ける。


「いつもの二人の菓子の暗号ではないのでしょう?」


「ああ。これは、初めてもらう」


「では、蓮珠は殿下に考えてほしい言葉なり、気持ちなりがあるのでは?」


「……言葉。気持ち」


 珖雅は瓶を見つめ直した。


 奏多が、横から楽しそうに口を挟む。


「ですよねえ。手紙がないということは、答えを教える気はないということですし」


「教える気がない……」


「これ、多分『教えない』でしょう。手紙の返事も、約束も、気持ちも、全部」


 朔夜の言葉に、珖雅は息を呑んだ。


「教えない」


 その響きに、珖雅の脳裏へ蓮珠の顔が浮かぶ。


 東屋で見せた、あの勝ち誇ったような、けれどどこか寂しげな微笑み。


 自分だけが答えを知っている、という顔。


 少し拗ねて、少し意地悪で、それでもこちらを突き放しきれない蓮珠の顔。


「……そうか」


 珖雅の思考が、急速に噛み合っていく。


「蜂蜜は甘さ。私の言葉か、私からの贈り物か、あるいは……私そのもの」


「そこまで自分を甘いもの扱いできるの、ある意味すごいですね」


「黙れ」


「はい」


「木ノ実は硬い。中身を守っている。簡単には割れない。つまり……蓮珠の本心」


 珖雅は瓶をそっと持ち上げた。


 蜂蜜の中に沈む木ノ実たちが、光を受けてゆっくりと揺れる。


「私の甘さに包まれてはいる。だが、核心はまだ明かさない。そういうことか」


「殿下の甘さに溺れそうだけど、簡単には許してあげない。……という感じでは?」


 奏多が面白がるように言った。


 珖雅の心臓が、先ほどまでの不安とは真逆の、高揚で強く跳ねた。


 拒絶ではない。


 これは、二人でしか遊べない、極上の焦らし合いだ。


「なるほど……」


 珖雅は目元を緩めた。


「私が約束を思い出せるか。それとも、蓮珠が先に折れて教えるか」


「折れるとは限りませんよ」


「分かっている。あの子は昔から、妙なところで頑固だ」


「殿下も大概です」


「だから釣り合うのだ」


 奏多は笑いを堪えきれない顔で肩を揺らした。


 朔夜は表情こそ変えなかったが、妹のことを言われたせいか、ほんのわずかに目元が和らいでいる。


「約束……私が帰ってきたら一番に会いに行くという約束。それから、その後に贈ると言った何か……」


 珖雅は記憶を辿る。


 だが、まだ掴みきれない。


 指先に触れたと思った瞬間、するりと逃げていく。


「くっ……あと少しで思い出せそうなのに」


「そこで思い出せないから、この瓶が来たのでは?」


「朔夜、刺すな」


「事実です」


 珖雅は瓶を机に置き、深く息を吐いた。


「……よし」


「何が、よし、なのですか」


「返礼を書く」


 奏多が目を細める。


「まさかとは思いますが、また長文の重い手紙を書くおつもりでは?」


「失礼な。私は学んだ」


「本当ですか?」


「今度は、短く、核心を突く」


「それはそれで怖いですね」


 珖雅は筆を手に取った。


 先ほどまでの不安に駆られた長文ではない。

 もっと短く、もっと濃く、蓮珠の心に真っ直ぐ届く文を。


「この蜂蜜漬けの挑戦状に対する返礼だ。木ノ実が柔らかくなるほどの、甘く、熱い手紙を書いてやる」


「柔らかくする方向から一度離れてください」


「比喩だと言っているだろう」


「比喩がいちいち重いんです」


 珖雅は聞こえないふりをして、瓶を眺めながら満足げに笑みを深めた。


「私が約束を思い出せば、その時は……蓮珠。君が自分から、この瓶の蓋を開けることになるんだ」


「開けるのは殿下では?」


「そういう意味ではない」


「でしょうね」


 奏多は小さく笑い、朔夜は黙って瓶を見つめた。


 実のところ、二人はもう半分の答えに気づいていた。


 蜂蜜の甘さ。

 木ノ実の硬さ。

 教えないという意思。


 そして、真紅のリボン。


 それが意味するものに、珖雅はまだ辿り着いていない。


 だが、あえて教えなかった。


 ここで答えを与えてしまえば、蓮珠がこの瓶に込めた小さな意地悪も、寂しさも、甘えも、すべて台無しになってしまう。


 朔夜は妹を溺愛している。


 だからこそ、簡単に珖雅へ答えを渡すつもりはなかった。


 奏多もまた、面白がっている顔を隠しきれていない。


 いつ珖雅がこの答えに辿り着くのか。


 それとも、蓮珠が根負けして教えてやるのか。


 あるいは、二人とも肝心なところで意地を張り合い、勝手に遠回りしていくのか。


 王弟殿下の恋路は、誰に邪魔されているわけでもない。


 ただ、本人たちが勝手に難しくしているだけである。


 なお、珖雅が返礼の一文目を書き終えるまでに、さらに半刻が過ぎた。


 そして書類は、今日も一枚も進んでいない。


最後までお読みいただきありがとうございました!


今回は、蓮珠から届いた蜂蜜漬けの木ノ実に、珖雅が全力で振り回される回でした。


手紙がないだけで絶望し、贈り物の意味を深読みしすぎ、最終的に「挑戦状」と受け取る王弟殿下。

本人は真剣ですが、側近二人から見ると、だいぶ面倒な恋する男です。


そして蓮珠は、本人不在のまま珖雅をここまで混乱させています。

やはり一番強いのは蓮珠かもしれません。


三人の掛け合いを書くと、どうしても長くなってしまいます。

少しでもクスッと笑っていただけたら嬉しいです。


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