王弟殿下、返事待ちで崩壊する
執務室の珖雅は、高官たちの前では、いつだって「余裕ある王弟」である。
冷静で、隙がなく、どのような政務も涼しい顔で片づける。
誰に何を言われても眉一つ動かさず、笑みひとつで相手の思惑を見抜く男。
――の、はずだった。
「……朔夜、奏多。今、何刻だ?」
執務机の向こう側で書類を整理していた奏多が、顔も上げずに答えた。
「殿下。先ほどお教えしたばかりです。まだ十分と経っておりません」
「……そうか」
珖雅は深々と溜息をつき、山積みになった報告書を力なく押しやった。
いや、力なくというには少々乱暴だった。
机の端に積まれていた書類が、かさりと音を立てて崩れかける。
それを朔夜が無言で押さえ、元の位置に戻した。
珖雅は気づいていない。
いや、気づいていたとしても、今の彼にそれを気にする余裕などなかった。
蓮珠へ贈った手紙と飴細工。
それが今、彼女の手に届いているはずだった。
手紙を急かすつもりは一切ない。
ないのだ。
蓮珠が困るようなことはしたくないし、返事を強要するような真似は王弟としても、男としても、幼馴染としてもしたくない。
だが、それはあくまで蓮珠に対する「紳士的な態度」であり、決して「返事などどうでもいい」という意味ではなかった。
むしろ、欲しくてたまらないのである。
(……読んでくれただろうか)
珖雅は指先で机をとん、と叩いた。
(箱は開けたか。飴細工を見て、少しは笑ってくれただろうか。いや、あの子のことだ。まずは呆れる。呆れたあとに、少しだけ口元を緩めて……)
そこまで想像して、珖雅は片手で顔を覆った。
見たい。
見たすぎる。
蓮珠があの飴細工を見た瞬間の顔を、この目で見られなかったことが、今更ながら悔やまれてならなかった。
「……手紙は重かったか」
ぽつりと呟いた声に、奏多が手を止める。
「今さらですか」
「いや、もっと情熱的に書くべきだったかもしれない」
「これ以上ですか」
「だが、控えめすぎても伝わらないだろう」
「控えめ……?」
奏多が、ほんのわずかに眉を寄せた。
朔夜は無言だった。
だが、その沈黙が何よりも雄弁である。
「何だ、その顔は」
「いえ」
「言いたいことがあるなら言え」
「言えば傷つかれるでしょう」
「すでに傷ついたぞ」
珖雅はむっとしながら椅子から立ち上がり、窓辺へ向かった。
そして蓮珠の住まう邸宅の方角を、じっと見つめる。
もちろん、ここから蓮珠の邸が見えるわけではない。
それでも、そちらに視線を向けずにはいられなかった。
昔であれば、自分が贈り物をしてから半刻もすれば、使者が飛んできた。
『珖雅兄さま、これは何ですか? 意味、合ってますか?』
『珖雅兄さま、また変なものを贈りましたね。蓮珠の言いたかったこと、分かってくれてないです』
『珖雅兄さま、違います。でも、少しだけ嬉しいです』
そんな声が、今でも耳の奥に残っている。
だが、今の蓮珠は違う。
大人の令嬢として。
そして、珖雅の心を思うままに揺らす一人の女性として。
彼女は、珖雅の手をするりとすり抜けていく。
「……あの子のことだ。今頃、私の手紙を読んで、ぷくっと頬を膨らませて呆れているのか、あるいは……」
ふと、珖雅の胸に不吉な想像がよぎった。
――まさか。
(噂のあの……『恋人の影』に嫉妬して、返事すら寄越す気がないのではないか?)
その考えが浮かんだ瞬間、珖雅の心臓が、不快なほど激しく脈打った。
噂を放置したのは自分だ。
あわよくば、蓮珠に嫉妬させ、自分の方を向かせたかった。
ほんの少しでいい。
蓮珠の心に、自分という男の存在を強く刻みたかった。
だが、あまりに返事が遅いと、その浅はかな思惑が、今度は自分自身を締め付けてくる。
「朔夜、奏多。……蓮珠は、何か言っていたか?」
振り返った珖雅の声は、わずかに硬かった。
「いや、何か……様子に変わりは?」
奏多が、今度こそ顔を上げた。
「何もありません」
「本当にか?」
「ええ。少なくとも、こちらに報告が上がるような異変はありません」
「そうか……」
「ですので、仕事をしてください、珖雅殿下」
奏多の声音は淡々としていた。
だが、その淡々さがかえって容赦ない。
「殿下がこうして窓際で落ち着きなくしている間に、他の高官たちがまた次の縁談を携えて列をなしておりますよ」
珖雅は大きく肩を落とした。
「……聞きたくない」
「聞きたくなくとも、現実です」
「今の私に、縁談の話を持ってくる者たちは勇気があるな」
「正しくは、欲が深いのです」
朔夜が無表情のまま補足する。
「殿下がどれほど我が妹に懸想していようと、外から見れば『婚約者のいない王弟』ですから」
「懸想などという生ぬるい言葉で片づけるな」
「では、執着ですか」
「朔夜」
「事実を申し上げました。何か?」
珖雅は眉間を押さえた。
公務が身に入らない。
王弟という身分も、外交の成果も、宮廷での評価も、今の珖雅にとっては蓮珠からの「たった一言」より価値がない。
彼は机に戻り、筆を指で弄びながら、低く独りごちた。
「……いいさ。君が私を焦らせるのなら、いくらでも待とう。だが、蓮珠。君が手紙を読み終えたあと、少しでも私のことを考えてくれたのなら……それで十分だ」
そう自分に言い聞かせる。
だが、視線は執務室の入り口から外れない。
強がってみせても、内心では「今すぐ使いを走らせて、あの子の反応を確認したい」という衝動と、「嫌われたくない」という恐怖の間で、珖雅は文字通り悶絶していた。
彼は手元の紙切れに、誰にも見せない言葉を書きなぐる。
『君の返事一つで、私は天にも昇り、地にも落ちる。……ああ、蓮珠。君という女は、なんて残酷で、なんて愛おしいんだ』
書いた直後、珖雅ははっと我に返った。
そして、その紙を素早く裏返す。
「……今のは見ていないな?」
「見ておりません」
「見ていません」
朔夜と奏多の返事は早かった。
早すぎた。
「見ただろう」
「見ておりません」
「内容までは」
「奏多」
珖雅の低い声に、奏多はわざとらしく咳払いをした。
しばしの沈黙。
王弟の執務室という名の檻の中で、珖雅は今日も、愛しき幼馴染の掌の上で翻弄され続けている。
それを眺めていた奏多は、とうとう諦めたように窓の外へ目を向けた。
そして、一言。
「会いに行けばよろしいのでは?」
珖雅は、弾かれたように奏多の方を振り向いた。
その目には、王弟としての威厳など微塵もない。
ただただ恋に溺れて路頭に迷う、一人の青年の苦悶が宿っていた。
「奏多、お前……今、何と言った?」
「会いに行けばよろしいのでは、と申し上げました」
「会いに行けだと?」
「はい」
「この私が?」
「はい」
「今この瞬間に?」
「できれば、仕事を片づけてからにしていただきたいですが」
「執務を放り出して?」
「放り出さないでください。そこは大人として最低限、踏みとどまってください」
奏多は肩をすくめ、やれやれと首を振った。
「ですが、この膠着状態を見ているのが、もう限界なんです」
「膠着状態?」
「じれじれです」
「じれじれ……」
「ええ。とってもうざいんです」
あまりにも率直な言葉に、珖雅は一瞬、固まった。
次いで、信じられないものを見る目で奏多を見つめる。
「奏多。お前は今、主に向かって何と言った?」
「うざい、と」
「言い直すな」
「では、見ていて大変じれったく、執務効率に深刻な悪影響を及ぼしている、と申し上げます」
「余計に悪い」
珖雅は立ち上がり、執務室の絨毯を苛立たしげに踏みつけた。
「会えば……会えば、私は我慢できなくなる!」
その声には、冗談では済まされない切実さがあった。
「幼い頃のように髪を撫で、抱きしめ、あの子が私を拒絶するまで甘やかしたくなるのだ。いや、拒絶されてもやめられる自信がない。そんな姿を見せて、もしあの子が私を『珖雅』としてではなく、『ただの不愉快な男』として蔑んだら……私は死んでも死にきれない!」
珖雅は胸元を押さえた。
「嫌われたらどうする?」
その瞳は、本気で怯えていた。
王弟として幾度も政争を潜り抜け、敵意も嘲笑も策略も受け流してきた男が、たった一人の令嬢に嫌われることだけを、心底恐れている。
それを聞いた朔夜が、無表情のまま冷徹な一太刀を浴びせた。
「そのまま嫌われてください」
「朔夜!」
珖雅は顔を真っ赤にして朔夜を指さした。
「お前っ、妹を溺愛するあまり、私に何を言っている! なんて不吉な……!」
「蓮珠が嫌がることをなさるなら、嫌われて当然です」
「正論で刺すな!」
「殿下が自覚しておられるだけ、まだ救いはあります」
「救いがある者に向ける声ではなかったぞ、今のは!」
朔夜は眉一つ動かさない。
その横で奏多が、溜息をつきながら珖雅の背中をぽん、と叩いた。
「殿下、重いですよ。本当に」
「重い……」
「世間では『女の影に忙しい色男』だの『冷徹な王弟』だのと噂されていますが、実態はこれですからね。知ってはいましたけど……ぽん……っ、いえ、なんでもありません」
「奏多……! お前、今『ポンコツ』と言いかけただろ! 聞こえているぞ!」
珖雅は奏多に詰め寄る。
だが、奏多は涼しい顔でかわした。
「いいえ? 私はただ『ぽん』と手を打っただけです」
「背中を叩いた音だろうが」
「そうとも言います」
「言い逃れが雑だ!」
奏多は悪びれもせず、さらりと言った。
「ですが、傍から見ていれば、初恋を知ったばかりの青年が、想い人から返事が来なくて悶々としているようにしか見えません」
「……」
「いい加減、その初々しすぎる純情をどうにかしてくれませんか?」
珖雅は言い返そうとして、何も言えなかった。
すると、朔夜が追い打ちをかける。
「事実です。殿下、鏡を見てください。今のその顔、恋に悩む少年と変わりませんよ」
「朔夜まで……」
「蓮珠に関わる時だけ、殿下は判断力が著しく低下します」
「低下などしていない」
「では、今すぐ未処理の書類に目を通してください」
「……」
「ほら」
「黙れ」
珖雅は、ついに机に突っ伏した。
二人の側近は容赦がない。
王弟に対する敬意はある。
忠誠もある。
能力も高く、信頼もできる。
ただし、珖雅の恋路に関してだけは、遠慮というものをどこかへ置き忘れている。
「……黙れ、二人とも」
突っ伏したまま、珖雅は低く呟いた。
しばしの沈黙。
やがて彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、先ほどまでの狼狽とは違う、どこか危うい決意が宿っている。
「……だが」
朔夜と奏多が、同時に珖雅を見る。
「もし今日、蓮珠から何の音沙汰もなかったら」
珖雅は、机の上に伏せていた紙片を指先で押さえた。
「その時は、私の手で強引にでも会いに行く」
「殿下」
朔夜の声がわずかに低くなる。
だが、珖雅は止まらなかった。
「噂の恋人などという戯言が、蓮珠の心を少しでも曇らせているのなら、私が直接、その誤解を解く」
「力ずくで、とはおっしゃらない方がよろしいかと」
奏多が即座に釘を刺す。
珖雅は一瞬だけ黙り、それから視線を逸らした。
「……言葉を尽くして、だ」
「今、明らかに言い直しましたね」
「黙れ」
強気な言葉を吐き出しながらも、その声の端には、かすかな震えが混じっていた。
蓮珠に会いたい。
会って、あの噂は違うのだと伝えたい。
けれど、いざ彼女を前にした時、自分は本当に王弟らしく振る舞えるのか。
それとも、蓮珠の一言に揺らぎ、情けないほど必死な男の顔をさらしてしまうのか。
珖雅には、分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
王弟殿下の執務室は、今日も今日とて、恋する男の悲哀と執着で満ち溢れている。
なお、書類は一枚も進んでいない。
最後までお読みいただきありがとうございました!
今回は、蓮珠からの返事を待つだけで情緒が迷子になる珖雅回でした。
高官たちの前では余裕ある王弟なのに、蓮珠が絡むと一気にポンコツになる殿下です。
朔夜と奏多も、幼馴染とは言え、だいぶ遠慮がなくなってきました。
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