兄さまの返事は甘すぎる
「……やりすぎだろうか」
珖雅は完成した飴細工の箱を前に、ぽつりと呟いた。
だが、その表情は満足げだった。
彼にとって、これはただの文通ではない。
蓮珠という、自分の掌からこぼれ落ちそうで落ちない存在を、言葉という網で少しずつ、確実に手元へ引き寄せるための儀式なのだ。
机の上には、完成したばかりの飴細工が置かれている。
透き通るような白。
丸い小さな体。
愛らしく立った耳。
それは、蓮珠から届いたうさぎ餡餅への返事として作らせた、うさぎの飴細工だった。
完成までには、長い時間がかかった。
◇ ◇ ◇
「違う」
飴細工師が最初に差し出したうさぎを見た瞬間、珖雅は静かに首を振った。
職人は硬直した。
「……ど、どちらがでございましょうか」
「耳だ」
「耳、でございますか」
「蓮珠はもっと柔らかい」
「殿下。蓮珠は人間です」
朔夜が即座に突っ込む。
珖雅は聞いていない。
「この耳は硬すぎる。もっと、こう……拗ねているが、こちらを気にしている気配が必要だ」
「飴細工に気配を求めないでください」
奏多が額を押さえた。
飴細工師は涙目で頷く。
「で、では耳を少し丸く……」
「違う」
「まだ何もしておりませんが!?」
「丸くすればいいというものではない。蓮珠は可愛いが、甘やかすだけの可愛さではない。芯がある。怒っていても、こちらを完全には拒まない。そこを耳で表せ」
「耳で!?」
職人の声が裏返った。
朔夜は深々と溜息をつく。
「殿下。妹をうさぎに投影しないでいただきたい」
「投影ではない。表現だ」
「同じです」
二つ目の飴細工が差し出された。
珖雅はじっと見つめる。
「目が違う」
職人は少し泣いた。
「次は目でございますか」
「この目は従順すぎる。蓮珠はもっと、私を困らせようとする目をしている」
「うさぎにそんな目をさせないでください」
奏多の声は疲れていた。
「だが、可愛い」
「それは知っています」
「意地悪なのに可愛い」
「それも知っています」
「私を困らせるのが上手い」
「それは殿下が勝手に困っているだけです」
朔夜の言葉に、珖雅は一瞬だけ黙った。
だがすぐに職人へ向き直る。
「もう一度だ」
「はい……」
飴細工師は、王弟殿下の恋路に巻き込まれた己の運命を呪いながらも、再び飴を練った。
耳の角度。
瞳の大きさ。
頬の丸み。
しっぽの位置。
珖雅はひとつひとつに注文をつけた。
「この頬は良い」
「ありがとうございます」
「だが、蓮珠が頬を膨らませた時は、もっとこうだ」
「殿下、妹の頬を飴で再現しないでください」
「朔夜、黙っていろ。これは重要な局面だ」
「国家の重要局面みたいに言わないでください」
職人はとうとう遠い目をした。
そして何度目かの試作の末、珖雅はようやく頷いた。
「これだ」
完成したうさぎの飴細工は、確かに愛らしかった。
丸く、柔らかく、けれどどこか気位が高い。
小さな顔を少しだけ横に向けている姿は、拗ねてそっぽを向きながらも、相手の反応を気にしているように見えなくもない。
朔夜は認めたくなさそうに眉を寄せた。
「……悔しいですが、少し似ています」
「だろう」
珖雅は勝ち誇った。
奏多は疲れ切った顔で呟く。
「職人殿、本当にお疲れ様でした」
「いえ……王弟殿下のご寵愛が、よく分かりました……」
「言い方に気をつけろ」
朔夜が低く言う。
珖雅は上機嫌だった。
◇ ◇ ◇
そうして完成した飴細工を、珖雅は自ら丁寧に箱へ収めた。
紙を整え、紐を結び、封をする。
まるで宝物を扱うような手つきだった。
「……これを届けろ」
珖雅は側近たちへ視線を向ける。
「あの子の……蓮珠の、困ったような、それでいて少しだけ嬉しそうな顔が見たいのだ」
朔夜は手紙のあまりの重厚さと甘さに、肩を落とした。
「殿下。妹がこれを見て、何と言うか分かっていますか?」
「ああ、分かっているさ」
珖雅は少しだけ口元を緩める。
「『珖雅兄さまは、本当にどうしようもない人』と、呆れながらも笑ってくれるはずだ」
その確信に満ちた声に、奏多は小さく首を振った。
「……そこまで分かっているなら、なぜ直接会いに行かないんですか」
「それは」
珖雅は言葉に詰まる。
朔夜が冷ややかに見る。
「それは?」
「……蓮珠が、まだ怒っているからだ」
「餡餅の意味を解読しておいて、それですか」
「怒ってはいないが、拗ねている。つまり、無理に近づけばさらに拗ねる」
「よく分かっているのに、なぜ約束だけ忘れたんですか?」
「…………」
珖雅は沈黙した。
奏多は遠い目をする。
「本当に、恋愛だけ不器用ですね」
「うるさい」
そう言いながらも、珖雅は手紙を添えた。
蓮珠がこの手紙を読み、頬を赤くして悶絶する姿を想像する。
すると、またしても仕事どころではなくなった。
◇ ◇ ◇
蓮珠の部屋に静寂が訪れると、彼女は先ほどまでとは別人のように、手紙を握りしめた指先を震わせていた。
「手紙……? 珖雅兄さま、返事が早いわ……」
封を開ける。
珖雅の整った筆致が並んでいた。
『昨日の君は、とても綺麗だった』
『あまりにも綺麗で、私は少し動揺していたらしい』
一言一句が、嬉しすぎる。
蓮珠の「困ってほしい」という気持ちを受け取り、ちゃんと珖雅の方も「蓮珠を見て困った」と返してくれている。
それが分かる手紙だった。
「……何なの! 珖雅兄さま……!」
蓮珠は手紙をぱたりと閉じ、熱を持った頬を両手で必死に扇いだ。
鏡に映る自分の顔が、自分でも驚くほど蕩けそうな表情をしているのが分かる。
困らせるつもりだった。
悩ませるつもりだった。
それなのに、困っているのは自分の方ではないか。
そして珖雅は最後にとどめを忘れていなかった。
『君がまた困った顔をするようなものを』
「……こんなこと書かれたら、困るどころじゃないわ」
蓮珠はクッションを抱きしめた。
「兄さまの……ばか」
毒づきながらも、その声には抗えない甘さが混じっている。
珖雅が自分を見て、考えてくれることが嬉しい。
自分のために悩み、言葉を選び、菓子を選んでくれる。
その事実だけで、胸の奥がいっぱいになる。
蓮珠は意を決して、飴細工の箱へ手を伸ばした。
慎重に蓋を持ち上げる。
「……っ」
息を呑んだ。
中には、透き通るようなうさぎの飴細工が収められていた。
小さな耳。
丸い瞳。
少しだけそっぽを向いた顔。
けれど、完全に背を向けているわけではない。
どこかこちらの反応をうかがっているような、拗ねたうさぎ。
「……食べられないわよ、こんなの」
蓮珠はそっと指先を伸ばす。
「可愛すぎて……むり……」
飴細工に触れる。
滑らかで、ひんやりとしていて、けれど見ているだけで頬が熱くなる。
これを見ながら、珖雅はどんな顔で職人に注文を出したのだろう。
耳が違うだの、目が違うだの、きっと真剣な顔で言ったに違いない。
想像した瞬間、蓮珠は耐えきれずにソファへ倒れ込んだ。
「珖雅兄さまぁぁ……」
クッションに顔を埋め、じたばたと足を動かす。
さっきまで「困らせてやろう」と意地悪を考えていた自分が、今やすっかり彼の手のひらで転がされている。
「もぅ……忙しいのに」
そう言いながらも、蓮珠の口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
公務で多忙なはずの彼が、自分のために割いてくれた時間。
その重みが、甘く胸に沈んでいく。
蓮珠は飴細工をそっと抱きしめ、大きく深呼吸をした。
さて、この返事はどうしよう。
これほど甘い言葉で籠城を解いてきた珖雅に、次はどんな菓子で返せばいいのか。
蓮珠は少しだけ意地悪な、けれど最高に愛おしい笑みを浮かべた。
◇ ◇ ◇
侍女が戻ってきた。
「蓮珠様。お手紙はお書きになりますか?」
その問いかけに、蓮珠は小さく首を横に振った。
「まだ書かないわ」
「よろしいのですか?」
「いいの」
蓮珠は飴細工のうさぎを見つめる。
「約束を思い出していない兄さまが悪いんだから」
その声は強気だった。
けれど頬はまだ赤い。
侍女は微笑みをこらえていた。
「では、お返しはいかがなさいますか?」
「胡桃や木の実を蜂蜜に漬けたものを用意してくれる?」
「蜂蜜漬けでございますね」
「瓶は……手に乗るくらいで、飾りがあるものにして」
侍女は一瞬だけ目を細めた。
その意味を察したのだ。
甘く、重く、絡みつくような蜂蜜。
けれど中に沈む木の実は硬い。
簡単には許さない。
けれど、時間をかければ少しずつ甘くなる。
今の蓮珠の心そのものだった。
「かしこまりました」
「それから」
「はい」
「胡桃だけではなく、榛の実も少し入れて。あと、苦味が少し残るものも」
「……甘いだけではない、ということですね」
蓮珠は少しだけ目を逸らした。
「そういうことではないわ」
「そうでございますか」
「ただ、甘すぎると兄さまが調子に乗るでしょう?」
「すでに十分、調子に乗っておられるのでは?」
「だからよ」
蓮珠は真顔で答えた。
「これ以上、簡単に勝たせてはいけないの」
侍女はとうとう小さく笑った。
「蓮珠様は、本当に王弟殿下をお困らせしたいのですね」
「そうよ」
蓮珠は胸を張る。
「困らせるの」
少し間を置いて、小さく呟いた。
「……私のことだけ、考えていてほしいから」
侍女は何も言わなかった。
ただ、優しく頭を下げる。
「すぐにご用意いたします」
侍女が退出すると、部屋には静けさが戻った。
◇ ◇ ◇
蓮珠は鏡の前に立ち、少しだけ乱れた髪を直した。
「蜂蜜に漬けた木の実……」
甘く、重く、そして後からほんの少し苦味が来るようなもの。
今の自分にぴったりだ。
蜂蜜は、時間をかけて、ゆっくりと心を溶かす。
けれど木の実の皮の硬さは、簡単には許さないという蓮珠のささやかな抵抗でもある。
珖雅はきっと意味を考えるだろう。
餡餅の意味を覚えていたのだから、この意味にも気づくはずだ。
困り果てて、瓶を握りしめる珖雅の姿を想像する。
すると少しだけ意地悪な気分になれた。
だが、その笑みは長く続かなかった。
ふと、胸の奥に小さな引っ掛かりが生まれる。
王都では時折、珖雅に想い人がいるのではないかという噂を耳にする。
もちろん噂だ。
王弟なのだから、その程度の話はいくらでも流れる。
婚姻を望む家も、後ろ盾を求める者も、彼の名を利用したがる者もいる。
分かっている。
分かっているのに。
「……本当に、ただの噂よね」
小さく呟いてから、蓮珠は首を振った。
今はそんなことを考えるよりも、どうやって珖雅を困らせるかの方が大事だ。
そう思うことにした。
けれど、窓の外を見上げると、どうしても胸の奥が少しだけ疼く。
「兄さま」
思わず、幼い頃の呼び方が零れた。
「噂の恋人との時間よりも、私のこの返事の方が気になって仕方なくなるはずよ」
強がるように言う。
けれど最後は、どうしても小声になってしまった。
「……きっと……そうだといいな」
蓮珠は飴細工のうさぎをそっと見つめた。
それから、意識して表情を整える。
負けてはいけない。
まだ手紙は書かない。
まだ言葉では返さない。
菓子だけで、珖雅を翻弄してやる。
蓮珠は気持ちを切り替え、その瞳には、かつてないほど大人の女性としての光が宿っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
困らせるつもりだった蓮珠と、全力で困りながら全力で返事をする珖雅でした。
飴細工師さんは、たぶん今回一番の被害者です。
「耳が違う」「目が違う」「頬が違う」と言われ続けても付き合ってくれた職人さんに幸あれ。
今回も、じれじれな二人を楽しんでいただけたなら幸いです。
引き続き、進んでいるのか、停滞しているのか、はたまた後退しているのか不明な二人ですが、温かく見守っていただけると嬉しいです。
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