王弟殿下、歌声ひとつで仕事を失う
そして半刻後。
珖雅は、馴染みの茶屋の二階へと飛び込んだ。
通されたのは、いつもの特等席である。
広場を見下ろせる窓際の席。
人の出入りは多いが、こちらからは下の様子がよく見え、向こうからはそれほど目立たない。
市井に出る時、珖雅がよく使う場所だった。
「……間に合ったか」
息を整える間も惜しむように、珖雅は窓辺へ身を寄せる。
身なりは整えてある。
王弟だと分かるものは何一つ身につけていない。
だが、その目だけは隠しようがなかった。
蓮珠を探す男の目である。
「殿下、身を乗り出しすぎです」
背後から奏多が小声で注意する。
「落ちたらどうするのですか」
「落ちない」
「昨日まで蜂蜜漬け相手に負けかけていた方の言葉とは思えませんね」
「負けていない。考えていただけだ」
「そういうことにしておきます」
奏多の淡々とした声を聞き流しながら、珖雅は階下の広場へ目を向けた。
そして、見つけた。
広場の片隅。
子どもたちに囲まれて、蓮珠が立っていた。
服の裾が少し地面に触れている。
貴族の娘なら眉をひそめる者もいるだろう。
だが蓮珠は、そんなことを気にする様子もなく、子どもたちの目線に合わせて少し身を屈めていた。
小さな手を取って、言葉の拍子を教える。
歌の一節をゆっくり口ずさみ、子どもたちが真似をすると、嬉しそうに笑う。
中立派の筆頭として凛と振る舞う時の蓮珠とは、まるで違っていた。
柔らかく、陽だまりのように温かい。
誰かを従わせるためではなく、誰かの心をほぐすためにそこにいる。
そんな姿だった。
(……ああ)
珖雅の喉の奥が、熱くなる。
(可愛い。可愛すぎる)
それ以外の言葉が出てこない。
声が聞きたい。
あの子の隣にいる子どもたちが羨ましい。
あんなふうに、何の警戒もなく蓮珠のそばにいられることが、今の珖雅にはひどく贅沢なことに思えた。
蓮珠が歌う。
聞き慣れたはずの声なのに、市井のざわめきの中で響くそれは、どこか遠く、けれど確かに胸の奥へ届いた。
珖雅は思わず、窓枠に指をかける。
強く握りすぎて、わずかに軋む音がした。
「殿下」
朔夜の声が飛ぶ。
「壊さないでください」
「壊していない」
「壊しかけています」
珖雅はそっと手の力を緩めた。
それでも、視線は蓮珠から離れない。
これまでにも、彼はこの姿で何度となく彼女に近づいてきた。
何食わぬ顔で言葉を交わしたこともある。
同じ席で茶を飲んだこともある。
街の噂話を聞きながら、蓮珠がくすりと笑うのを、すぐそばで見たこともある。
それなのに、彼女は一度も正体を見抜かなかった。
そのことに、驚きを通り越して感謝すら覚える。
いや、違う。
感謝だけではない。
少しだけ、複雑でもあった。
蓮珠の中で、「王弟・珖雅」と「街で出会う親しい誰か」は、完全に別物として存在しているのだ。
それは身を隠すには都合がいい。
都合がいいのだが、少しだけ胸に刺さる。
(……だが、今はいい)
今は、それでいい。
王弟としてではなく。
幼馴染の珖雅としてでもなく。
ただ、蓮珠の近くにいられる誰かとして、彼女の柔らかな顔を見られるのなら。
今は、それだけでよかった。
ふと、蓮珠が顔を上げた。
何かに気づいたように、視線が茶屋の二階へ向く。
珖雅の心臓が跳ねた。
目が合った。
蓮珠は一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから、ぱっと表情をほころばせた。
まるで「あ、いつもの人だ」と言わんばかりに。
屈託のない笑顔で、ふわりと手を振ってくる。
珖雅の呼吸が止まった。
次の瞬間、彼もまた、変装の仮面の下で目尻を下げ、ゆっくりと手を振り返す。
大きく振りすぎてはいけない。
不自然になってはいけない。
あくまで、親しい街の知り合いとして。
それでも、指先にこもる熱だけはどうにもならなかった。
(……私に向けて微笑んでくれた)
たったそれだけで、胸が満たされていく。
(たったそれだけで、国境で凍りついていた私の心も、何もかもが溶けていくようだ)
蓮珠はすぐに子どもたちの方へ向き直る。
だが、その横顔にはまだ少し笑みが残っていた。
珖雅はその笑みを逃すまいと、瞬きすら惜しむ。
「……知っているか、奏多」
「何をですか」
「あの笑顔は、私のものだ」
「違います」
即答だった。
あまりにも早かった。
珖雅は不満そうに眉を寄せる。
「まだ最後まで言っていない」
「最後まで聞いても違います」
「……今はまだ、彼女自身がそれに気づいていないだけだが」
「なおさら違います」
奏多は真顔だった。
朔夜も静かに頷く。
「妹の笑顔は妹のものです」
「正論で刺すな」
「必要なことです」
珖雅は小さく舌打ちした。
だが、目は蓮珠から離れない。
広場では、子どもたちが声を揃えて歌い始めていた。
少し音程の外れた、けれど楽しげな歌声。
その真ん中で、蓮珠が手拍子をしながら微笑んでいる。
貴族の令嬢としては、あまりにも無防備な姿。
だが、そこにいる誰もが、彼女のことを自然に受け入れていた。
中立派の筆頭でも。
高位貴族の令嬢でも。
王弟が焦がれる幼馴染でもない。
ただ、子どもたちに歌と言葉を教えてくれる優しい人。
その事実が、珖雅の胸をさらに締めつけた。
「……噂の恋人などという戯言が、この光景を壊すことは決して許さない」
低く呟いた声に、奏多がちらりと視線を向ける。
「その噂を利用しようとしたのは殿下ですけどね」
「分かっている」
「分かっていて、今その顔ですか」
「うるさい」
珖雅は窓の外を見つめたまま、静かに息を吐いた。
「約束の品……必ず思い出してみせる」
蓮珠が、ふたたび笑った。
子どもに何かを言われたのだろう。
少し困ったように眉を下げ、それから楽しそうに頬を緩める。
珖雅の胸がまた鳴った。
「この笑顔を、今度は私だけのために、あの東屋で向けてもらうために」
「重いです」
「黙れ」
「本当に重いです」
「二度言うな」
奏多は肩をすくめた。
だが、口元にはわずかに笑みがある。
朔夜もまた、妹の姿を黙って見下ろしていた。
その目は、珖雅に向ける時よりずっと柔らかい。
妹が市井の子どもたちに囲まれ、楽しそうに笑っている。
それは兄としても、悪い光景ではないのだろう。
やがて、歌の時間が終わった。
子どもたちは名残惜しそうに蓮珠の周りへ集まり、次はいつ来るのかと口々に尋ねている。
蓮珠は一人ひとりに丁寧に言葉を返し、手を振り、最後には少し屈んで、小さな子の頭をそっと撫でた。
その仕草に、珖雅が胸を押さえる。
「……あれは反則だ」
「何がですか」
「今の手つきだ。優しすぎる」
「子どもの頭を撫でただけです」
「私も撫でられたい」
「殿下」
朔夜の声が一段低くなった。
「今のは聞かなかったことにします」
「……私も言わなかったことにする」
珖雅は視線を逸らした。
蓮珠は子どもたちと別れ、人混みの中へ歩き出す。
その途中でも、振り返って何度か手を振っていた。
最後にもう一度だけ、茶屋の二階へ視線が向く。
そして、小さく笑って、軽く会釈した。
珖雅は息を呑む。
彼女はすぐに人波の向こうへ消えた。
その背中を見送る珖雅の瞳は、先ほどまでの熱っぽさが嘘のように、どこか切なげに潤んでいた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
広場のざわめきだけが、窓の向こうから届く。
「……会えた」
やがて珖雅が、絞り出すように呟いた。
変装したその顔には、隠しきれない少年のような安堵と、激しい渇望が入り混じっている。
奏多が冷静に言った。
「見た、という程度です。声も交わしていないでしょう?」
「……うるさい」
「事実です」
「事実でも言っていいことと悪いことがある」
「では、申し上げ方を変えます。殿下は、妹君の背中を見送っただけです」
「悪化している」
朔夜が追い打ちをかける。
「会ったとは言えませんね。ただ、妹を盗み見しただけです」
「朔夜」
「事実です」
「お前まで奏多のようなことを言うな」
「私は兄として申し上げています」
「余計に刺さる」
珖雅は椅子の背にもたれ、深く息を吐いた。
「いいんだ……。今は、あれだけでいい。あの笑顔をこの目に焼き付けられただけで、私は生き返った……」
「生き返ったのなら、戻って仕事をしてください」
「奏多」
「はい」
「お前は時々、現実を持ち込むのが早すぎる」
「現実しかありませんので」
珖雅は返す言葉をなくした。
それでも、先ほどまでより表情は穏やかだった。
蓮珠を見た。
蓮珠が笑った。
自分に向けて手を振ってくれた。
たとえその笑顔が、王弟・珖雅に向けられたものではなくとも。
今の珖雅には、それだけで十分すぎるほどだった。
「帰るぞ」
珖雅は、ゆっくりと椅子から腰を上げた。
その所作のひとつひとつに、先ほどまで蓮珠に向けていた「親しげな街の知り合い」の気配が、まだわずかに残っている。
「……殿下」
奏多が小さく呼び止める。
「そのまま戻られるのですか?」
「何か問題があるか」
「問題しかありません」
朔夜も頷いた。
「言動を慎んでください。周囲に怪しまれます」
「分かっている」
「本当に?」
「……努力する」
「本日二度目ですね、その返答」
奏多が呆れたように言った。
珖雅は階段へ向かいながら、まだ名残惜しそうに広場を振り返る。
「……ああ、もう一度あの子の歌声が聞きたい」
「殿下、前を向いて歩いてください」
「分かっている」
「階段です」
「分かっていると言っているだろう」
その直後、珖雅は段差を踏み外しかけた。
朔夜が無言で腕を掴む。
「……助かった」
「本当に分かっていたのですか」
「分かっていた。少し蓮珠の残像が見えただけだ」
「重症ですね」
「知っている」
三人は茶屋を出た。
市井の空気は穏やかで、先ほどまで蓮珠の歌声が響いていた広場には、まだ子どもたちの笑い声が残っている。
珖雅はその余韻を胸に抱えたまま、王宮への道を戻った。
道のりは長く、酷く味気ない。
さっきまで広場にあった陽だまりのような温もりが、遠ざかっていくようだった。
王弟執務室の重い扉が開き、三人が戻る。
珖雅は部屋に入るなり、椅子に深々と身を沈めた。
目の前には、蓮珠から届いた蜂蜜漬けの瓶が鎮座している。
銀の鈴が、わずかに揺れた。
ちりん。
澄んだ音が、静かな執務室に響く。
珖雅はその音を聞きながら、先ほど見た蓮珠の笑顔を思い返した。
そして、ゆっくりと額を押さえる。
「……駄目だ」
「何がですか」
「仕事が、手につかない」
「いつものことです」
「今日のは少し違う。歌声が耳から離れない」
奏多は深々と溜息を吐いた。
朔夜は瓶の鈴を見つめ、無表情のまま言う。
「それで、約束は思い出せそうですか」
珖雅は黙った。
広場で笑う蓮珠。
子どもたちに歌を教える声。
茶屋の二階へ向けられた、親しげな笑顔。
そして、遠い日の東屋。
蓮珠が驚いて、嬉しそうに笑った、あの日。
記憶の端が、確かに揺れた。
「……少しだけ」
珖雅は低く呟く。
「少しだけ、近づいた気がする」
朔夜と奏多が顔を見合わせる。
その声には、いつもの暴走とは違う、静かな確信があった。
だが次の瞬間、珖雅は蜂蜜漬けの瓶を見つめて、真剣な顔で言った。
「やはり次の返礼は、鈴とうさぎの飴細工だな」
「台無しです」
奏多が即座に切り捨てた。
珖雅は聞こえないふりをして、机の上の未処理の書類からそっと目を逸らした。
蓮珠に会えた。
ただそれだけで、王弟殿下の心は満たされた。
そして当然のように、その後も書類は一枚も進まなかった。
いや、正しくは進んでいた。
朔夜と奏多が、無言で片づけていたのである。
なお、当の珖雅はというと、蜂蜜漬けの瓶に結ばれた銀の鈴を時折鳴らしては、広場で聞いた蓮珠の歌声を思い出し、ひとり静かに撃沈していた。
「……重症ですね」
「分かっている」
「分かっていて、鈴を鳴らすのはおやめください」
「……無理だ」
ちりん。
澄んだ音が、執務室に響く。
奏多は深々と溜息を吐き、朔夜は何も言わず、処理済みの書類をさらに一枚増やした。
王弟殿下の恋は進んでいるのか、いないのか。
少なくとも、書類だけは側近たちの手によって進んでいた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
今回は、珖雅が市井で蓮珠の姿を見守る回でした。
子どもたちに歌と言葉を教える蓮珠。
中立派の筆頭として凛と立つ時とは違う、柔らかな姿を書けたらいいなと思いながら書きました。
そして珖雅は、たった一度手を振ってもらっただけで見事に撃沈しています。
本人としては「会えた」つもりですが、朔夜と奏多から見ると、ただ見守っていただけです。
少し静かな甘さのある回になりましたが、クスッと笑っていただけたら嬉しいです。
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