名前を忘れたふりの代償
「ふ、ふふふ」
蓮珠は扇で口元を隠したまま、冷ややかに笑った。
その笑い声は、春の茶会に似つかわしくないほど、ひやりと澄んでいた。
「兄が側近をしておりますのに、ご存じなかったとは。ふ、ふふふ。それは大変失礼いたしました、殿下」
完璧な礼。
完璧な微笑み。
そして、完璧すぎるほど他人行儀な声。
「蓮珠と申します。中立派筆頭を預かっております。では、御前失礼いたします」
そう告げると、蓮珠は優雅に一礼し、すっと踵を返した。
珖雅は、彼女が背を向けて歩き去るまでの数秒間、呼吸を忘れていた。
あの愛らしい面影を湛えた顔に貼りつけられた、完璧で冷ややかな淑女の微笑み。
けれど、扇の奥から漏れたあの笑い方を、珖雅は知っている。
幼い頃。
自分が彼女の機嫌を損ねたとき、蓮珠はよくああして笑った。
怒っています。
拗ねています。
でも、絶対に先には折れません。
そう全身で主張する、あの笑い方だ。
「……やられた」
珖雅は低く呟いた。
完璧な礼法と淑女の微笑みを纏いながら、中身はあの頃と何も変わっていない。
その事実に安堵した直後、今度は別の焦りが込み上げる。
拗ねている。
間違いなく、蓮珠は拗ねている。
しかも、かなり本気で。
蓮珠が立ち去った後、珖雅は耐えきれずに朔夜を睨みつけた。
「朔夜」
「先に喧嘩を売ったのは殿下です」
「確かに。あれはやり過ぎです」
奏多までが、茶をすすりながら冷ややかに追撃してくる。
「うるさい」
珖雅は短く吐き捨てると、次々と群がってくる令嬢たちへ、再び王弟の仮面を被り直した。
微笑み。
相槌。
退屈な世辞。
けれど、その瞳だけは、常に蓮珠の背中を追っている。
やがてわずかな隙を見つけると、珖雅は側近二人にだけ聞こえる声で命じた。
「……逃げる前に捕まえろ」
「はぁ。少しですよ。本当に少しですからね」
朔夜が深々と溜息をつく。
そして、蓮珠を連れ戻すため、人混みの中へと消えていった。
◇ ◇ ◇
朔夜は、席で令嬢たちと話している蓮珠に声をかけた。
「蓮珠。少しいいかい?」
「朔夜兄さま、どうしたの?」
「幼馴染がお呼びだよ」
朔夜は露骨に溜息をついた。
蓮珠は「えぇー」と唇を尖らせる。
「ちゃんと挨拶したのに」
「うん。ちゃんと出来ていたよ。偉かったね」
蓮珠が兄の袖に縋るように抱きつくと、朔夜は観念したようにその頭を優しく撫でた。
兄の手の温かさに、蓮珠は少しだけ安堵した顔を見せる。
けれど、東屋へ足を踏み入れた瞬間、その表情はすっと消えた。
そこには、人混みの喧騒を離れ、不機嫌そうに佇む王弟の姿があった。
「お呼びでしょうか、王弟殿下」
蓮珠は再び硬い仮面を被り、形式的な礼を執る。
珖雅はその姿を見るなり、片眉をぴくりと持ち上げた。
「……二人きりの時まで、そんな呼び方かい?」
「だって、知らないらしいので」
昔、珖雅や身近な者にだけ見せていた、微かな拗ね混じりの声。
その響きに、珖雅の胸の奥で、数年間押し込めていた飢えが疼いた。
蓮珠だ。
間違いなく、蓮珠だ。
あの頃のままではない。
けれど、あの頃と同じ光を残したまま、美しく、強く、大人の女性になっている。
「蓮珠」
珖雅は一歩、距離を詰めた。
蓮珠が逃げなかったのを見て、さらに半歩近づく。
けれど、抱きしめるにはまだ早い。
触れたい。
髪を撫でたい。
昔のように、名を呼んで笑ってほしい。
そんな欲が胸の内で荒れ狂うのを、珖雅は必死で押しとどめた。
「……分かっているだろう?」
彼は蓮珠の指先に、そっと触れた。
力任せに引き寄せるのではなく、逃げる余地を残すように。
けれど、その指を離す気はまるでない手つきだった。
「昔みたいに、兄さまと呼んでくれないのかい?」
その問いかけに、蓮珠はあからさまに頬を膨らませた。
「ちゃんとしたのにー。珖雅兄さまは何なのよぉー」
ぷくっと膨らんだその頬。
その声。
その呼び方。
珖雅の理性が、危うく音を立てて崩れ落ちるところだった。
ああ、たまらない。
どれほど待ちわびていたことか。
珖雅は苦笑を浮かべ、もう一歩だけ蓮珠に近づいた。
「すまない。……ただ、あまりにも君がよそよそしいから、少し試したくなった」
「試す?」
蓮珠の目が細くなる。
しまった、と珖雅は思った。
だが、もう遅い。
「……君が、本当に私を覚えていてくれたのか、確かめたかった」
「ふぅん」
蓮珠の声が、さらに冷えた。
その瞬間、珖雅の背筋に嫌な汗が伝う。
どうやら答えを間違えたらしい。
「兄さまが約束を忘れているからでしょ」
ぷんぷんと頬を膨らませ、蓮珠は不服そうに視線を逸らした。
その言葉に、珖雅の思考が急停止する。
「約束……?」
「ほら」
蓮珠がじとりと睨む。
「やっぱり忘れてる」
「待ってくれ、蓮珠」
珖雅は必死に記憶をたぐった。
国境へ発つ前夜。
泣くのを我慢していた蓮珠。
小さな手。
自分の袖を掴んだ指。
そして、自分は確かに言ったはずだ。
帰ってきたら、一番に会いに行く。
それから。
それから、何を約束した。
菓子か。
本か。
簪か。
いや、違う。
もっと、蓮珠が大切そうに抱えていた言葉があった。
「……待って。今、思い出す」
「思い出せなさそうですね。色々とお忙しそうで」
「蓮珠、教えてはくれないのかい?」
「教えません」
蓮珠は勝ち誇ったように微笑んだ。
けれど、その目の奥にほんの少し寂しさが滲んでいるのを、珖雅は見逃せなかった。
胸が痛む。
これは、まずい。
本当にまずい。
「いや、その、すまない。忘れていたわけではない。あまりにも忙しくて、記憶の整理が――」
「別にいいですけど」
まったく良くなさそうな声だった。
珖雅は反射的に蓮珠の手を取った。
その指先に、祈るように唇を寄せる。
「どうしたら許してくれる?」
甘く、縋るような声。
これまでなら、少しは蓮珠の頬が赤くなったかもしれない。
けれど、今の蓮珠は違った。
彼女はすっかり大人の女の余裕を身につけた顔で、珖雅を見下ろしている。
「珖雅兄さま、約束を全部覚えていないのでしょう? まぁ、そんなものですよねー」
「待て、蓮珠。ちゃんと思い出すから」
「ふぅーん」
「お菓子かい? 好きな本だったか。それとも、新しい簪……いや、違うな。君はあの時、たしか――」
必死に絞り出す珖雅を見て、蓮珠は悪戯っぽく微笑んだ。
そして、するりと手を引き抜く。
「教えません」
「蓮珠」
「いやですー」
蓮珠は軽やかに身を翻した。
その瞳には、かつて妹分だった頃には見せなかった、珖雅を翻弄する愉悦が宿っている。
「珖雅兄さまも困ればいいんだわ」
珖雅の指先が、虚しく空を掴んだ。
蓮珠は東屋を出る直前、わざわざ振り返る。
そして、小さく舌を出した。
「べぇー」
その無防備で、小悪魔めいた仕草を目の当たりにした瞬間、珖雅は完全に固まった。
蓮珠はそのまま、何事もなかったかのように去っていく。
東屋に一人取り残された珖雅は、しばらく動けなかった。
「……本当に困らせる気か」
呆然と呟く。
やがて、珖雅の口元に苦い笑みが浮かんだ。
困らせたい。
そう言いながら、蓮珠は珖雅の関心をすべて自分に向けさせた。
見事に。
完璧に。
「……してやられたな」
重たい溜息を吐きながらも、珖雅の瞳には隠しきれない熱が宿っていた。
困らせたいのなら、望み通り困り果ててやろう。
忘れた約束も、必ず思い出す。
そして、その可愛い仕草の代償として、次の手紙にはどれほどの情を詰め込めばいいのか。
珖雅は敗北の余韻に浸りながら、すでに次なる一手を考え始めていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
名前を忘れたふりをした結果、見事に自分へ返ってきた珖雅でした。
約束を忘れたことよりも、拗ねた蓮珠の破壊力の方が深刻かもしれません。
次回は珖雅による全力の謝罪(予定)です。
よろしければブックマークや評価いただけると励みになります。




