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再会した幼馴染に、なぜか名前を尋ねてしまった


 王都の喧騒を遮断した、重厚な執務室。


 だが、分厚い扉の外から漏れ聞こえる高官たちの耳障りな声は、珖雅コウガの頭痛をさらに悪化させていた。


「……今日はもう、誰も通すな」


 手元の膨大な報告書を放り投げ、珖雅は椅子に深く身を沈めた。こめかみを指で押さえ、痛みに顔を歪める。


「無理です」


 即答したのは、側近でありながら、今はただの“溺愛する妹を持つ兄”の顔をした朔夜サクヤだった。


 その隣では、奏多カナタが苦笑しながら茶を淹れ直している。


「本当に胃が痛いのだ。……限界だぞ、これは」


「気のせいです。珖雅殿下が胃を痛めるなど、世がひっくり返ってもあり得ません」


 朔夜は涼しい顔で言い切った。


「それに、私は早く帰りたいのです。わが愛しの妹に久しぶりにゆっくりと会いに帰りたい。それなのに、この山積みの書類のせいで帰れない。つまり、早く仕事を進めてください」


 容赦のない言葉に、珖雅は射抜くような視線を向ける。


 だが、朔夜は眉ひとつ動かさない。


 奏多もまた、ひらひらと手を振った。


「久しぶりというなら、私は会っていましたけどね」


 執務室の空気が、ぴたりと凍った。


 珖雅の動きが止まる。


「……は?」


「なんです? 蓮珠レンジュですよね?

 たまに国境近くまで来ていましたし。律儀に顔を見せに来てくれるんです。お土産の菓子を持って」


 悪びれもしない奏多の言葉に、珖雅は椅子から立ち上がらんばかりに身を乗り出した。


「なぜだ! 私は聞いていない!」


「言うわけがないでしょう」


 朔夜が即座に返す。


「蓮珠を一度でも見つけたら離さないからに決まっています」


「私はここ数年、国境の荒れ地で泥をすすっていたのだぞ! なぜ私だけが蓮珠に会う機会を奪われている!」


「奪われているのではありません。守られていたのです。蓮珠が」


「誰からだ」


「殿下からです」


 朔夜と奏多は顔を見合わせた。


「「だから教えていないんですよ」」


「本当に、あなたは自覚がない」


 珖雅は言葉を失い、再び椅子に崩れ落ちた。


 数年間の忍耐。


 国境での務め。


 泥にまみれ、血の匂いに慣れ、王弟として冷徹な判断を下し続けた日々。


 それらはすべて、いつか帰還したとき、幼い頃から胸の奥に抱えてきた少女に堂々と会うためのものだった。


 それなのに。


 蓮珠は、近くまで来ていた。


 朔夜にも、奏多にも会っていた。


 菓子まで持って。


 自分だけが知らされていなかった。


「……近々、私の帰還を祝う茶会が開かれるな」


「ええ。そのせいで、こちらはさらに仕事が増えて辟易しています」


 朔夜は冷徹に言い放つ。


 珖雅はふんと鼻を鳴らし、窓の外を見た。


 その先に蓮珠がいるわけではない。


 それでも、自然と視線は彼女のいる方角を探してしまう。


「構わん。その茶会で、すべてをひっくり返してやる」


 珖雅は低く告げた。


「私から蓮珠を奪える者など、この世に一人もいない」


 強気な言葉とは裏腹に、胸の奥では幼い頃の蓮珠の笑顔が鮮やかによみがえっていた。


 数日後。


 王宮の薔薇園では、王弟珖雅の帰還を祝う茶会が開かれていた。


 珖雅は内心で毒づきながらも、その表情には一片の綻びも見せない。


 次々と群がってくる令嬢たち。


 鼻を突くような香粉の匂い。


 耳障りなほど甘い声。


 どれもこれも、国境の砂塵よりよほど堪える。


 それでも珖雅は、退屈極まりない人形のように王弟らしい微笑みを浮かべていた。


 朔夜や奏多に助けを求めようにも、二人にも各派閥の令嬢が群がるから質が悪い。


 幼馴染達とて、久しぶりの都、この機会を逃すまいと縁談話がわんさかと沸いてくる。


 そのとき。


 会場の空気が、一変した。


 群れていた令嬢たちが、まるで潮が引くように左右へ分かれていく。


 その中心に、彼女がいた。


 ――蓮珠レンジュ


 数年の歳月は、少女だった彼女を息を呑むほど洗練された大人の女性へと変貌させていた。


 艶やかな髪。


 落ち着いた所作。


 凛と伸びた背筋。


 けれど珖雅は、その瞳の奥に幼い頃に見た変わらぬ光を見つけた。


 心臓が、うるさいほどに跳ねる。


 ようやく。


 ようやく、会えた。


 そう叫び出したい衝動を押し殺し、珖雅は視線を隠すように優雅に扇を広げた。


 蓮珠が中立派を代表して放った挨拶は完璧だった。


 礼法。


 声の響き。


 その凛とした佇まい。


 何一つ、非の打ち所がない。


 だが珖雅にとって、その完璧すぎる敬意は何よりの冷や水だった。


 違う。


 そんな顔を見たいのではない。


 そんな声を聞きたいのではない。


 王弟殿下として扱われたいのではない。


 珖雅は王弟として作られた冷徹な微笑みを浮かべたまま、蓮珠を射抜くように見つめ返した。


「……顔を上げよ」


 その声は驚くほど冷静だった。


 冷淡にすら響いた。


 だが胸の内では、どうしようもなく焦っている。


 なぜ、そんなに他人行儀なのだ。


 なぜ、昔のように名を呼ばない。


 なぜ、私だけを見て笑わない。


 そう問い詰めたい衝動を、珖雅は必死で押し殺した。


「長きにわたる国境での務めも、この光景を見れば報われるというものだ。中立派の皆には、私の不在を守り抜いてくれたことに感謝する」


 言いながら、珖雅は蓮珠から視線を外さなかった。


 そして、あえて続ける。


「特に……代表として挨拶をくれたそこの令嬢」


 わずかな間。


 蓮珠の瞳が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


 それを見た瞬間、珖雅の胸にひどく幼稚な満足が灯る。


 揺れた。


 覚えている。


 そう思った。


 思ってしまった。


「名前は、何と言ったかな?」


 あえて、知らないふりをした。


 かつては蓮珠と呼び、髪を撫で、事あるごとに抱き着いてきた可愛い蓮珠。


 いつも自分を見上げる可愛い笑顔を、その瞳を、独占していた相手に。


 あえて、他人のような距離を突きつけた。


 仕返しだった。


 他人行儀な挨拶をされたことへの、あまりにも狭量な仕返し。


 けれど同時に、確かめたかった。


 蓮珠がまだ、自分を覚えているのか。


 幼い頃の二人の秘密も、交わした言葉も、あの笑顔も。


 本当に、忘れていないのか。


「……名乗ってくれるか? 中立派の、その凛々しき令嬢よ」


 わざとらしく、蓮珠の耳元に届く程度の距離まで身を乗り出す。


 香粉の匂いではない。


 彼女だけが持つ柔らかな香りが鼻腔をかすめた。


 その瞬間、珖雅の理性は危うく崩れかける。


 だが、そんな本音を見せるわけにはいかない。


 王弟として。


 そして、数年ぶりに再会した幼馴染に忘れられているかもしれない、情けない男として。


 珖雅は冷たい微笑みを保ったまま、蓮珠の返答を待った。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


王弟としては有能な珖雅ですが、恋愛方面では早速やらかしました。


蓮珠の怒りゲージがどのくらい上がったのかは、次回のお楽しみです。


どうやら王弟殿下、思っていた以上に前途多難なようです。


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