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王弟殿下、怖さごと聞きに行く


 珖雅コウガの手元に、蓮珠レンジュからの返事が届いた。


 封を切る前の指先が、わずかに震える。


 先ほどまで自分が送った手紙の重さを思い返し、今度は自分が試される番なのだと、珖雅は深く呼吸を整えた。


 開いた便箋には、蓮珠の整った、けれどどこか揺らぎを感じさせる筆跡で、正直な胸の内が綴られていた。


『兄さまのお気持ちは無いのだと思っていました』


『子どもの頃の約束なのだと……』


 その言葉が、珖雅の胸を鋭く切り裂く。


 自分が「王弟」としての立場や多忙さを理由にしている間に、蓮珠はどれほどの孤独を抱え、どれほどの諦めを自分に言い聞かせてきたのか。


 「怖い」という彼女の言葉は、珖雅の未熟さに対する当然の報いだった。


 しかし、同時に添えられた一文が、彼の心に再び熱を灯す。


『覚えていてくれた事がとてもうれしいです』


 珖雅は手紙を何度も読み返し、最後の一文に目を落とした。


『今回は、うさぎの餡餅と金平糖です』


 箱を開けると、そこには愛らしいうさぎの餡餅と、淡く輝く金平糖が詰められていた。


 うさぎ。


 そして、金平糖。


 珖雅は息を呑む。


 金平糖は、かつて蓮珠が「許します」の印として珖雅に贈っていたものだ。


 けれど、今の蓮珠が込めた意味は、きっとそれだけではない。


 許したい。


 信じたい。


 けれど、まだ怖い。


 彼女は、まだ完全に扉を開け放ったわけではない。


 珖雅が「兄」としてではなく、「一人の男」として、どれほどの誠意を持って彼女の前に立てるのか。


 その覚悟を、静かに問うている。


 珖雅は机に突っ伏したい衝動をこらえ、その箱を愛おしげに引き寄せた。


「……可愛い」


 低く漏れた声に、側にいた奏多が顔を上げる。


「今、その感想ですか」


「……可愛いものは可愛い」


「否定はしませんが、今はもう少し真面目に受け止めてください」


「受け止めている」


 珖雅は金平糖を一つ、指先で摘まみ上げた。


「怖い、か」


 彼の声が静かに落ちる。


「……ああ、そうだ。私は君をこれほど待たせ、不安にさせた。恐れられて当然だ」


「だが、待っているだけではいられないな」


 朔夜サクヤの目が鋭くなる。


「殿下」


「分かっている」


 珖雅は、手の中の金平糖を見つめた。


「迎えに行くのではない。まずは、あの子の怖さを聞きに行く」


 奏多カナタが、わずかに目を細める。


「ようやく手順を覚えましたね」


「遅すぎるがな」


「ええ。遅すぎます」


「そこは否定しろ」


「事実ですので」


 珖雅は苦笑した。


 だが、視線は逸らさない。


「それでも行く。あの子が怖いと言うなら、その怖さごと受け止める。嬉しいと言ってくれたなら、その言葉に甘えず、もう一度信じてもらえるように言葉を尽くす」


 彼は、すでに書き終えていた返事に、最後の一文を書き加えた。


      ◇ ◇ ◇ 


『私の愛しき蓮珠。


 君が抱く怖さも、諦めも、すべて私に聞かせてほしい。


 私は逃げない。


 明日、君に会いに行く。


 今度は、手紙や暗号ではなく、私の声で、君に向き合うために。』


      ◇ ◇ ◇


 珖雅は決然とした表情で、側近二人を振り返った。


「朔夜、奏多。手配しろ」


「どうされるのです?」


「蓮珠の元へ行く」


 朔夜は小さく息を吐いた。


「迎えに行く、ではありませんよ」


「分かっている」


 珖雅は静かに瓶を見つめた。


「まずは、会って話す。あの子の怖さを聞く。私の未熟さを詫びる。そして、それでも望んでいると伝える」


 奏多が満足げに頷く。


「では、そのポンコツな愛情を、今度こそ順番を間違えずに伝えてきてください」


「最後まで余計だ」


「必要な確認です」


 珖雅は笑った。


 もう、逃げも隠れもしない。


 ただ、蓮珠の前に立った時、自分がどこまで言葉を尽くせるのか。


 それだけが、今の珖雅にとって唯一の、そして最大の試練だった。


     ◇ ◇ ◇


 翌朝。


 執務室の珖雅は、先ほどから姿見の前で、己の身なりを何度確認したか分からなくなっていた。


 王弟としての正装。


 完璧な身のこなし。


 高官たちの前に出れば、誰もが息を呑むほど隙のない姿である。


 だが、鏡に映る自分の顔がひどく強張っているのを見て、珖雅は再び深く溜息をついた。


「……襟はこれでいいか?」


「はい」


「蓮珠に会うのに、ふさわしい格好か?」


「はい」


「ああ、いや、やはりもう少し落ち着いた色合いの方が……」


「殿下」


 朔夜の声が、すぱりと割って入った。


「本日だけで、その確認は何度目ですか。鏡と向かい合いすぎて、そろそろ鏡の方が根を上げる頃ですよ」


「鏡は根を上げん」


「では、私が根を上げます。おかしくありません」


 朔夜が呆れたように冷ややかな視線を送る。


 珖雅は「うるさい」と呟きながらも、どうしても鏡から目が離せなかった。


 かつて戦場に赴く時でさえ、ここまで心臓が跳ねたことはない。


 敵に囲まれようと、政敵に笑顔で毒を含まれようと、珖雅は平然と応じてきた。


 だが、今から会うのは蓮珠である。


 たった一人の幼馴染。


 そして、誰よりも大切で、誰よりも怖い相手。


「そんなに緊張しなくても、蓮珠さまは殿下を待っているはずですよ」


 奏多が肩をすくめ、珖雅の背中をぽんぽんと軽く叩いた。


「はいはい。大丈夫ですよ。殿下があのうさぎ餡餅と金平糖の意味を理解して、ここまで準備してきたんです。蓮珠さまだって、殿下が本気だと分かれば、きっと扉を開けてくださいます」


「本当にそうか?」


 珖雅は、ふらりと椅子に座り込んだ。


「昨日、あの子は『怖い』と書いたんだ。私が約束をすぐに思い出せなかった間の、あの子の孤独を考えれば……私の存在そのものが、あの子を傷つけるのではないかと」


「殿下」


 朔夜の声が低くなる。


「そこで逃げるなら、最初から行かない方がいい」


 珖雅は顔を上げた。


「ですが、行くのでしょう?」


「……ああ」


「ならば、蓮珠の言葉を聞いてください。勝手に傷つけたと決めつけて、勝手に身を引くのも、また殿下の都合です」


 その言葉に、珖雅は息を呑む。


 奏多も静かに頷いた。


「蓮珠さまの『怖い』は、拒絶ではありません。確かめたい、ということです。殿下の愛が、ただの兄の慈愛なのか。それとも、一人の女性として向き合う覚悟なのか。それを見極めようとしているのでしょう」


 珖雅は、机に置かれた金平糖の入れ物を見つめる。


「……行こう」


 彼は立ち上がった。


「これ以上、あの子を待たせるわけにはいかない」


 決意を込めて、椅子から立ち上がる。


 朔夜と奏多も、珖雅の背中を見守るように、一歩後ろに続いた。


「……殿下」


「何だ」


「蓮珠さまの屋敷へ向かう道中、高官たちからのお呼び出しがあっても、一切無視してくださいね」


「分かっている」


 珖雅は執務室の重い扉に手をかけた。


「今日は誰が何を言おうと、私の時間も、心も、すべて蓮珠のものだ」


「重いですね」


「知っている」


 珖雅は扉を開けた。


 扉の向こうには、彼が数年間も閉ざし続けてきた、約束の続きが待っている。


「……待っていろ、蓮珠」


 珖雅の瞳には、かつてないほど真っ直ぐな光が宿っていた。


「君が怖いと言うその心ごと、私は聞きに行く」


     ◇ ◇ ◇


 蓮珠の屋敷へ向かう馬車の中、珖雅はほとんど言葉を発しなかった。


 膝の上で組んだ手に、力が入っている。


 外から見れば、いつも通りの王弟殿下だった。


 背筋は伸び、目線は揺らがず、どこにも隙はない。


 だが、側近二人には分かっている。


 今の珖雅は、かつてないほど緊張していた。


「殿下、呼吸をしてください」


「している」


「浅いです」


「……そうか」


「深呼吸です」


 奏多に促され、珖雅は渋々息を吸い、ゆっくり吐いた。


「私は本当に、ここまで情けない男だったか」


「蓮珠さまに関しては、はい。かなり。救えないほどに」


「即答するな」


「事実ですので」


 珖雅は額に手を当てた。


 だが、その口元にはわずかに笑みがある。


 不思議なものだ。


 側近たちに刺されるたび、少しだけ息がしやすくなる。


 朔夜は窓の外を見ながら、静かに言った。


「殿下」


「何だ」


「蓮珠が何を言っても、最後まで聞いてください」


「分かっている」


「途中で言い訳をしないでください」


「……分かっている」


「泣きそうな顔で見つめるのも、やめてください」


「そこまで制限するのか」


「妹が困ります」


「……努力する」


 奏多が小さく笑った。


「では、今日は何を一番に伝えるつもりですか?」


 珖雅は少しだけ黙った。


 そして、低く答える。


「謝罪だ」


 その声には迷いがなかった。


「待たせたこと。怖がらせたこと。噂を放置したこと。すべて、私の未熟さだったと伝える」


「その次は?」


「今の蓮珠を見ていると伝える。幼い頃の約束だけでなく、今のあの子を望んでいると」


「その次は?」


 珖雅は、窓の外へ視線を向けた。


「選ばせる」


 それは小さな声だった。


 けれど、確かな覚悟が込められていた。


「私は、蓮珠に選ばれに行く」


 奏多は満足げに頷いた。


「よろしいかと」


 朔夜も、それ以上は何も言わなかった。


 馬車は静かに進む。


 やがて、蓮珠の屋敷が見えてきた。


     ◇ ◇ ◇


 庭園に足を踏み入れた珖雅の胸は、かつて経験したことのないほど激しく脈打っていた。


 幾多の政敵に囲まれ、冷徹な仮面の下で刃を向けられようとも、彼は常に平然と微笑んで応戦してきた。


 だが今、目の前の東屋で静かに自分を待つ、たった一人の女性。


 蓮珠の姿を捉えた瞬間、呼吸が止まりそうなほどの焦燥と昂揚が、彼を支配した。


(落ち着け、珖雅)


 彼は、自身の鼓動を無理やり抑え込む。


(これは敵対交渉ではない。私の生涯を懸けた、最初の対話だ)


 珖雅は足音を整え、彼女の元へ歩み寄った。


 かつての幼馴染。


 そして今は、誰にも渡したくない、一人の美しい女性。


「……蓮珠」


 努めて穏やかに、けれど緊張の混じる声で、珖雅は呼びかけた。


「待たせたかな。時間を作ってくれて、ありがとう」


 蓮珠はふわりと視線を上げ、珖雅を認める。


 彼女は立ち上がり、完璧な令嬢の所作で、しかし少しだけ瞳を揺らして微笑んだ。


「珖雅兄さま、いらっしゃいませ。私も、今来たばかりですわ。……どうぞ」


 蓮珠は淑女らしく、自分の隣の席を優雅に勧めた。


 その所作の美しさの中に、珖雅は、この数年間で彼女がどれほどの研鑽を積み、どれほどの思いを胸に秘めて大人になったのかを垣間見た気がした。


 珖雅は、勧められた席にゆっくりと腰を下ろす。


 隣から漂う蓮珠の微かな花の香りに、再び胸が締めつけられるようだった。


「……君と二人きりで、こうして穏やかに話すのは、いつぶりだろうな」


 彼は、膝の上で硬く握りしめた拳を隠すように、庭の緑を見つめた。


 今、この瞬間、蓮珠の隣に座っている。


 それだけで、珖雅の喉は乾き、思考は白く染まりそうになる。


「……蓮珠。手紙を読んでくれただろうか」


「はい」


「昨日、君に『怖い』と言わせてしまったこと、私は昨晩ほとんど眠れずに、君のことばかり考えていた」


 珖雅は、恐る恐る蓮珠の横顔へ視線を移した。


 蓮珠は一瞬だけ珖雅を見つめ、それから視線を逸らして、静かに答えた。


「珖雅兄さまのことを少し考えてから、ぐっすりと眠りましたわ」


 蓮珠の言葉に、珖雅は心臓が止まるかと思うほどの衝撃を受けた。


「……ぐっすりと、眠った?」


 思わず問い返してしまう。


 てっきり、不安に苛まれ、眠れぬ夜を過ごさせたのだとばかり思っていたからだ。


 蓮珠はそんな珖雅を見て、鈴が鳴るように、ふふ、と笑った。


「兄さま。私はどれだけ待っていたとお思いですか? 眠らなければ、とっくに病人になっております」


「……」


「それに、拒絶するつもりなら、お茶会の日、兄さまに呼ばれた東屋へ行ったりしませんわ」


 そう言って、蓮珠はころころと笑った。


 一瞬、珖雅は真面目に受け止めかけた。


 だが、すぐに彼女が自分をからかっているのだと気づき、力なく肩を落とす。


「一本取られたな」


「一本だけですか?」


「……何本でも取られている」


 珖雅は苦笑した。


「そうか。君は私を待つ間も、こうして私を試す言葉を用意していたのか」


「兄さまが大袈裟に受け止めるからですわ」


「君が病人にでもなっていたら、私は一生自分を許せなかっただろう」


「ですから、ちゃんと眠りました」


 蓮珠は澄ました顔でそう言った。


 その涼しげな表情に、珖雅はまた胸を撃ち抜かれる。


 ああ、この人だ。


 自分をこれほどまでに苦しめ、翻弄し、そして何よりも愛おしくさせるのは、間違いなくこの蓮珠という女性なのだ。


 珖雅は、小さく息を吐いた。


 張り詰めていたものが、少しだけほどけていく。


 けれど、ここで終わってはいけない。


 蓮珠は笑ってくれた。


 だが、彼女の中にある「怖い」が消えたわけではない。


 珖雅は姿勢を正し、今度こそ真正面から蓮珠を見つめた。


「蓮珠」


「はい」


「まず、謝らせてほしい」


 蓮珠の笑みが、ほんの少しだけ静まる。


 東屋に、柔らかな風が吹いた。


 珖雅は逃げずに、その瞳を見つめる。


「君を、長く待たせた。怖がらせた。私の未熟さで、君に何度も不安を抱かせた。……本当に、すまなかった」


 蓮珠は何も言わなかった。


 ただ、珖雅の言葉を静かに聞いている。


 その沈黙が、珖雅には何よりも重かった。


 けれど、今度は逃げない。


 言葉で。


 順番を間違えずに。


 珖雅はもう一度、深く息を吸った。


「今日は、君に許しを乞いに来たわけではない」


 蓮珠の瞳が、わずかに揺れる。


「君の怖さを聞きに来た」


 珖雅は、静かに続けた。


「そして、その上で……今の君を、私がどれほど望んでいるかを、ちゃんと伝えに来た」


 蓮珠は、すぐには答えなかった。


 けれど、逃げることもしなかった。


 ただ、そっと膝の上で指先を重ねる。


 その指先が、わずかに震えていることに、珖雅は気づいた。


 胸が痛む。


 それでも、今は伸ばさない。


 触れるより先に、聞かなければならない。


 蓮珠が、ゆっくりと顔を上げた。


「では、兄さま」


 その声は静かだった。


 けれど、確かに芯があった。


「私の怖かったことを、全部聞いてくださいますか?」


 珖雅は、迷わず頷いた。


「ああ。すべて聞く」


 蓮珠の瞳が、わずかに潤む。


 そして彼女は、小さく息を吸った。


「噂の恋人さんは、よろしいのですか?」


 その声は、驚くほど穏やかだった。


 穏やかだからこそ、珖雅の胸に深く刺さる。


 東屋の空気が、ぴたりと止まった。


 珖雅の呼吸も、止まった。


 今度こそ、暗号ではなく、言葉で。


 珖雅と蓮珠の本当の対話は、思いがけない問いから始まろうとしていた。

最後までお読みいただきありがとうございました!


今回は、蓮珠からの返事を受け取った珖雅が、ようやく直接会いに行く回でした。


うさぎ餡餅と金平糖に込められていたのは、

「許したい」

「信じたい」

「でも、まだ怖い」

という蓮珠の複雑な気持ちでした。


珖雅も今回は、迎えに行くのではなく、まず蓮珠の怖さを聞きに行く形になっています。

少しずつですが、王弟殿下も成長しております。


そして最後、ついに蓮珠からあの話題が出ました。


次回は、噂の恋人について。

珖雅は無事に説明できるのでしょうか。


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