恋人疑惑と、ただいまの言葉
蓮珠の放った言葉は、珖雅にとって、まさに致命的な一撃だった。
「噂では、お綺麗な背の高い女性が、珖雅兄さまのお邸に週に一度は出入りしているそうですわよ?」
その瞬間、珖雅の頭の中を、これまで自分が施してきた完璧なはずの変装と、そのための隠密行動が走馬灯のように駆け巡った。
背の高い女性。
髪の長い、美しい人物。
週に一度、珖雅の邸へ出入りしている。
(……背の高い? 髪の長い? 美しい?)
珖雅の顔から、血の気がすうっと引いていく。
まさか。
いや、そんな馬鹿な。
あの変装は、街の者ですら誰も正体を見抜けないほど完璧だったはずだ。
蓮珠と茶屋で何度か言葉を交わした時でさえ、彼女はまったく気づかなかった。
だからこそ、珖雅は油断していたのだ。
確かに、自分は週に一度、あの姿で市井へ出ていた。
そして蓮珠と会ったあと、その変装を解くために邸へ戻っていた。
側近たちから「今日も見事な出来でしたね」だの「完璧すぎて腹が立ちますね」だのと、冗談とも嫌味ともつかない言葉を投げられたこともある。
だが、それが。
それが、まさか。
「背の高い……?」
珖雅の声は、かすれていた。
嫌な予感どころではない。
これは、自分が自分で仕掛けた罠に、最も間抜けな形で足を取られたということだ。
蓮珠は、そんな珖雅の動揺を見逃さなかった。
「はい。髪が長く、背の高い。とても美しい方だと」
とどめを刺すように告げられたその特徴は、間違いなく、あの日の自分の姿そのものだった。
東屋の空気が、先ほどとは別の意味で凍りつく。
珖雅は真っ青になり、震える唇をようやく開いた。
「……私だ」
「え?」
「……それは、私だ……」
蓮珠が、瞬きをした。
「……え?」
「……変装した、私だ……」
その事実を告白した瞬間、珖雅は、自分がどれほど滑稽で、どれほど救いようのない男かを思い知らされた。
街で蓮珠に会うために、あえて誰にも悟られぬよう、完璧すぎる変装をした。
その姿で蓮珠の前に現れ、何食わぬ顔で会話まで交わした。
そして帰り道、何も考えず邸へ出入りしていた。
それを、あろうことか、自分自身の「噂の恋人」として街に流してしまっていたのだ。
なんということだ。
これほど間抜けな話があるだろうか。
いや、ある。
今まさに、自分がそれである。
蓮珠は、珖雅の告白を飲み込むまでに、数秒の空白を置いた。
驚き。
困惑。
呆れ。
そのすべてが、ゆっくりと表情の上を通り過ぎていく。
そして最後に残ったのは、どうしようもないものを見るような、優しい呆れだった。
「……珖雅兄さま」
「……はい」
「ばかですか?」
その言葉は、もはや罵倒ですらなかった。
ただの事実確認だった。
「……私も、そう思う」
珖雅は、東屋の卓に額をぶつけんばかりに突っ伏した。
王弟としての誇りも、駆け引きも、恋の戦術も、積み上げてきた覚悟も。
何もかもが、この一言ですべて粉砕された。
自分への嫉妬心を煽るために放置していた「偽の恋人」の噂。
それが、実は自分自身だった。
愚かにもほどがある。
「蓮珠、聞いてくれ……私は……私はただ、君に会いたくて……っ!」
珖雅は卓に突っ伏したまま、情けない声を漏らした。
蓮珠が自分を蔑むのなら、甘んじて受け入れようと思った。
だが、あまりにも間抜けな自分の正体を告白した今、珖雅にはもう、弁解の余地など欠片も残っていなかった。
「会いに、ですか?」
蓮珠は目を瞬かせた。
珖雅は、もう逃げられないと悟った。
逃げたところで、目の前の蓮珠から逃げ切れるはずがない。
何より、自分は今日、逃げないと決めてここへ来たのだ。
「……ああ」
珖雅は顔を伏せたまま、低く呻くように答えた。
「君が市井で子どもたちに歌を教えている日があるだろう」
「……はい」
「その日、最近、君と茶屋で何度か会っていた者がいたはずだ」
蓮珠は、はっとしたように目を見開いた。
「……まさか」
「その、まさかだ」
珖雅は観念したように、ゆっくりと顔を上げる。
「……あれが、私だ」
「……」
「君に会いたくて、けれど王弟として堂々と顔を出す勇気がなくて、変装して会いに行っていた」
「……」
「そして、その姿のまま邸へ戻っていたせいで、どうやら妙な噂になったらしい」
再び、東屋に静かな沈黙が落ちた。
蓮珠はしばらく、言葉を失ったまま珖雅を見つめていた。
そして、ぽつりと呟く。
「……珖雅兄さまでしたの?」
「ああ」
「あの方が?」
「……ああ」
「私、少しも気づきませんでしたわ」
「気づかれないようにしていたからな」
「そこだけ無駄に優秀ですのね」
「刺さる」
珖雅は胸を押さえた。
蓮珠は、しばらく真顔で彼を見つめていた。
そして。
「ふ……」
小さく、息が漏れる。
「ふふ……ふふふふっ」
次の瞬間、蓮珠は堪えきれないというように笑い出した。
鈴が転がるような、明るい笑い声だった。
「珖雅兄さまでしたの? あの方が? 私、本当に少しも気づきませんでしたわ」
「……笑ってくれ。いっそ笑ってくれた方が救われる」
「ええ、笑います。だって……だって、私の想像より、ずっと不器用な方だったのですもの」
蓮珠は目元に浮かんだ涙を指先で拭った。
先ほどまでの張り詰めた空気が、少しずつほどけていく。
珖雅は、その笑顔を見つめながら、胸の奥が痛むほど満たされていくのを感じた。
傷つけた。
待たせた。
怖がらせた。
それでも、蓮珠は今、笑ってくれている。
「それにしても、兄さま」
「……何だ」
「そんなに私に会いたかったのですか?」
蓮珠の問いに、珖雅は言葉に詰まった。
だが、もう誤魔化さない。
今日ここへ来たのは、逃げないためだ。
「ああ」
珖雅は、静かに頷いた。
「会いたかった」
その声は、低く、真っ直ぐだった。
「王弟として行けば、君に気を遣わせる。幼馴染として行けば、何を言えばいいのか分からない。だが、君が笑っているところを見たかった。君の声を聞きたかった。君が元気でいることを、この目で確かめたかった」
蓮珠は、黙って聞いていた。
「それで、あんな馬鹿げたことをした」
「本当に馬鹿げていますわ」
「ああ。返す言葉もない」
「でも」
蓮珠の声が、少しだけ柔らかくなる。
「少しだけ、嬉しいです」
珖雅の呼吸が止まった。
「……嬉しい?」
「はい。兄さまが、そこまでして私に会いに来てくれていたのだと思うと」
蓮珠は、少しだけ視線を伏せた。
「もちろん、もう少しまともな方法はあったと思いますけれど」
「それはそうだ」
「本当に、たくさんあったと思いますけれど」
「二度言うな。刺さる」
蓮珠はくすりと笑った。
その笑みを見て、珖雅もようやく、ほんの少しだけ笑うことができた。
恋人疑惑は、最悪の形で生まれた。
だが、今こうして蓮珠の前で真実を話せた。
情けなくても。
みっともなくても。
これが、今の珖雅にできる精一杯の誠実さだった。
「……蓮珠」
「はい」
「こんなどうしようもない私だが」
珖雅は、ゆっくりと背筋を伸ばした。
情けなさも、恥も、もう隠せない。
それでも、目だけは逸らさなかった。
「君の傍にいても、いいだろうか」
蓮珠は、すぐには答えなかった。
ただ、珖雅をまっすぐ見つめている。
その瞳には、まだ少しだけ迷いがあった。
怖さも、残っているのだろう。
それでも、その奥にあった冷たい不安は、先ほどよりも確かに薄れていた。
「兄さま」
「……ああ」
「私は、まだ全部をすぐに信じられるほど、強くはありません」
珖雅は頷いた。
「分かっている」
「怖かったことも、傷ついたことも、きっと一度話しただけでは全部消えません」
「ああ」
「だから、これからも聞いてくださいますか?」
「もちろんだ」
珖雅は、迷わず答えた。
「何度でも聞く。君が話してくれるなら、何度でも」
蓮珠は、少しだけ目を細めた。
それから、昔のように、満面の笑みを浮かべる。
柔らかくて、あたたかくて、珖雅がずっと帰りたかった場所のような笑顔だった。
「珖雅兄さま」
蓮珠は、そっと言った。
「おかえりなさい」
その一言に、珖雅は息を呑んだ。
胸の奥で、長い間凍りついていた何かが、音もなく溶けていく。
ようやく帰ってきたのだと。
ようやく、彼女の前に戻ってこられたのだと。
珖雅は、その時はじめて、心からそう思った。
「……ただいま、蓮珠」
声が、わずかに震えた。
けれど、もう隠さなかった。
蓮珠が笑ってくれている。
自分の帰る場所が、まだここにあった。
それだけで、珖雅は何度でも、彼女の前に立てる気がした。
数年分の遠回りを越えて、二人の恋はようやく、同じ場所から始まり直した。
最後までお読みいただきありがとうございました!
今回は、蓮珠がずっと気にしていた噂の恋人疑惑の回収回でした。
結論としては、まさかの本人でした。
珖雅は蓮珠に会いたい一心で変装し、その結果、自分で自分の恋人疑惑を生み出しておりました。
本当に、どこまでも不器用な王弟殿下です。
それでも最後は、蓮珠の「おかえりなさい」と、珖雅の「ただいま」に辿り着きました。
数年分の遠回りを越えて、二人の恋はようやく、同じ場所から始まり直したのだと思います。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
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本編はここで一区切りとなります。
もし機会があれば、正式な婚約後の二人や、朔夜・奏多に振り回される珖雅の後日談も書けたらと思います。




