赤いリボンと約束の鈴
「迎えに行くのではなく、まずは思い出したことを伝えなさい」
朔夜は、きっぱりと言い切った。
「それが先です」
その声音に、兄としての容赦はあっても、王弟への遠慮はほとんどない。
奏多も頷き、机の上に積まれた未処理の書類を横へ避けながら言った。
「そうですよ。いきなり『妃として迎えに行く』ではなく、まずは、こんな大事なことを思い出せずにいてすまない、と手紙を書くんです。その上で、会う約束を取りつけてください」
珖雅は、二人の言葉を反芻した。
荒ぶっていた呼吸が、少しずつ整っていく。
確かに、自分が向き合うべきなのは、「妃として迎えに行く」という未来の約束だけではない。
蓮珠が今日まで、どれほどの不安を抱えて待ち続けていたか。
その過去に対する誠実さこそ、今の自分に必要なものだった。
「……そうだな」
珖雅は低く呟いた。
「まずは、約束を思い出したという事実と、それをすぐに言葉にできなかったことへの謝罪を伝えねばならない」
彼は、机の上に置かれた蜂蜜漬けの瓶を見る。
白いリボン。
銀の鈴。
蜂蜜の中に沈む木ノ実。
そして、最初の瓶に結ばれていた赤いリボン。
蓮珠は、何も言わずに待っていた。
責めず、急かさず、けれど決して簡単には許さないという意思だけを、甘い贈り物に閉じ込めて。
「順番を間違えては、あの子の心には届かないな」
珖雅は背筋を正した。
先ほどまでの焦燥を押し殺し、静かな決意を瞳に宿す。
だが、話題が「二人だけの約束」に及ぶと、彼の頬は途端に赤く染まった。
「……ある」
「何がですか」
奏多が尋ねる。
珖雅は視線を逸らしながら、声を落とした。
「誰にも言わぬ、私と蓮珠だけの約束だ。……それを、今このタイミングで使うべきか」
朔夜の目が、わずかに細くなる。
「妹に関わることなら、内容次第では聞きますが」
「言わん」
「では、勝手に暴走しないでください」
「暴走ではない」
「殿下の『暴走ではない』は、たいてい暴走です」
奏多がさらりと刺す。
珖雅は言い返せず、苦い顔で黙り込んだ。
「それでも、伝えた方がよろしいかと」
奏多は少しだけ表情を和らげる。
「殿下の誠意を示す材料にはなります。もちろん、重くしすぎないことが前提ですが」
「重くしすぎない……」
珖雅は、ひどく難しい命題を突きつけられたような顔をした。
「そこからですか」
「私の蓮珠への想いを軽く書く方が難しい」
「軽く書けとは言っていません。適切に書けと言っています」
「適切……」
珖雅は唸りながら、飴細工師への指示書を手に取った。
先ほどまで書きかけていた「鈴とうさぎの飴細工」という言葉を見つめ、しばし考える。
完成させるのは、愛らしいうさぎと、まだ開かぬ蕾を添えた繊細な飴細工。
うさぎは、蓮珠。
蕾は、まだ言葉にされていない答え。
咲けと急かすのではなく、咲くまで待つ。
けれど、そこに寄り添うことは諦めない。
それが、珖雅なりの誓いだった。
さらに彼は、引き出しの奥から一本のリボンを取り出した。
蓮珠が最初の蜂蜜漬けの瓶に結んでいた、赤いリボンである。
大切そうにそれを広げ、今度は銀の鈴をそっと通した。
ちりん。
小さな音が鳴る。
「……赤いリボンは、幼い頃の約束を思い出させるもの」
珖雅は静かに言った。
「そしてこの鈴は、蓮珠が私に鳴らした問いそのものだ」
朔夜と奏多は、黙ってその手元を見る。
「これを返すのではない。繋いで、改めて贈る」
珖雅は、鈴を指先で包み込んだ。
「君が鳴らしてくれた問いに、私は確かに気づいた。……そう伝えるために」
奏多が一瞬だけ言葉を失った。
だが、すぐに眉を寄せる。
「……言い方は悪くありませんが、殿下」
「何だ」
「せっかく蓮珠さまから送られてきたものを、そのまま送り返したように見えないようにしてくださいね」
「分かっている」
「本当に?」
「……努力する」
「またそれですか」
朔夜は淡々と言った。
「痛々しくなりすぎないようにしてください」
「朔夜」
「数年間もその約束に辿り着けなかった殿下が、赤いリボンと鈴を結んで贈るなど、一歩間違えれば救いようのない重さです」
「一歩間違えなければ?」
「ぎりぎり誠意です」
「ぎりぎりか」
「かなり、ぎりぎりです」
珖雅は深く息を吐いた。
それでも、手は止めなかった。
これは、ただの贈り物ではない。
蓮珠が与えた問いに対する、珖雅なりの返答だった。
約束を思い出した。
それをすぐに言葉にできなかったことを悔いている。
そして、それでも今の蓮珠に、もう一度向き合いたい。
そのすべてを、言葉と贈り物に込めるためのものだ。
「いい」
珖雅は静かに言った。
「重いと言われても構わん。だが、今度は押しつけるための重さではない。あの子が受け取るかどうかを選べるように、手を差し出すだけだ」
奏多が、少しだけ目を細めた。
「では、その通りに手紙を書いてください。間違っても『迎えに行く』などと書かないように」
「分かっている」
「『妃』という言葉も、最初から全面に出しすぎないでください」
「……分かっている」
「今、少し不満そうでしたね」
「気のせいだ」
珖雅は筆を執った。
震える手で、封書へ言葉を認める。
そこには、冷徹な王弟としての言葉はなかった。
あるのは、一人の男としての、不器用な謝罪。
十六になった蓮珠へ向けた、遅すぎた気づき。
そして、今の彼女を見て、それでも変わらず望んでいるという、静かな情熱だった。
◇ ◇ ◇
蓮珠へ。
君が贈ってくれた蜂蜜漬けの瓶、リボン、銀の鈴。
ようやく、その意味に辿り着いた。
十六になったら、迎えに行く。
私は、確かにそう言った。
それを、すぐに言葉にできなかったこと。
そして、君に思い出させてもらうまで、自分からその約束に辿り着けなかったことを、心から詫びたい。
君を待たせすぎた。
あの日の約束を、君がどんな思いで胸にしまっていたのか。
その時間を思うと、私は自分の未熟さを恥じるほかない。
噂の恋人などという戯言を放置し、君の心を曇らせたことも、私の落ち度だ。
許してくれとは言わない。
ただ、これだけは伝えさせてほしい。
私の心には、昔からずっと、君しかいなかった。
共に贈る赤いリボンと銀の鈴は、君が私にくれた問いへの返事だ。
君の問いは、確かに私に届いた。
そして、蕾とうさぎは私からの誓いだ。
急かさない。
けれど、諦めない。
約束を盾にして、君を連れて行くつもりはない。
今の君に、もう一度、私を選んでもらいたい。
もし君が許してくれるなら、会って話したい。
今度こそ、暗号ではなく、言葉で。
珖雅
◇ ◇ ◇
書き終えた珖雅は、しばらくその文面を見つめていた。
長すぎるか。
重すぎるか。
いや、足りないのではないか。
そんな迷いが胸をよぎる。
だが、奏多が横から文面を確認し、静かに頷いた。
「……今回は、よろしいかと」
「本当か」
「はい。かなり抑えられています」
「それは褒めているのか」
「最大限に」
それでも珖雅は、すぐには封をしなかった。
筆を置いた指先が、わずかに震えている。
「……これで、足りるだろうか」
小さく零した声は、王弟としてのものではなかった。
「私がどれほど悔いているか。どれほど、あの子を望んでいるか。これで本当に伝わるのか」
奏多は文面を見つめたまま、静かに言った。
「全部を一通で伝えようとしない方がいいですよ」
「……全部?」
「はい。殿下の想いは重いので、一度に全部渡すと蓮珠さまが埋まります」
「埋まる……」
「比喩です」
それでも珖雅は、すぐには封をしなかった。
筆を置いた指先が、わずかに震えている。
「謝罪も、想いも、これから会って積み重ねればいいでしょう。手紙は入口です。すべてではありません」
朔夜は、淡々と続けた。
「時間がかかった分、より時間をかけて丁寧に想いを伝えるのです」
珖雅は、封書を見下ろした。
入口。
これで終わりではない。
ようやく、始めるための一通。
「……そうか」
珖雅は深く息を吐いた。
「私はまた、すべてを一度に渡そうとしていたのだな」
「自覚があるなら、まだ救いがあります」
「朔夜、お前は本当に容赦がない」
「妹のことなので」
その一言に、珖雅は苦笑した。
そしてようやく、封をした。
朔夜も封書を見下ろし、短く言った。
「これなら、蓮珠に届けてもいいでしょう」
「出してくれるのか」
「出します。ただし、返事を急かしたら即座に止めます」
「分かっている」
「本当に?」
「努力する」
「……そこは最後まで断言しないのですね」
珖雅は返答せず、封じた手紙と、赤いリボンに銀の鈴を結んだ小さな包み、そして蕾とうさぎの飴細工を差し出した。
「朔夜、奏多。……これを届けてくれ」
その声は、先ほどまでよりずっと静かだった。
「この鈴の音が、蓮珠に届くように」
朔夜はそれを受け取り、しばし黙っていた。
そして、妹を思う兄の顔で、静かに告げる。
「……蓮珠がどう受け取るかは、蓮珠が決めることです」
「ああ」
「殿下が望む答えではない可能性もあります」
「分かっている」
珖雅は一度だけ目を伏せた。
その横顔には、恐れがあった。
だが、それ以上に、覚悟があった。
「それでも、今度は逃げない」
銀の鈴が、もう一度小さく鳴った。
ちりん。
その音は、執務室の静けさの中に、細く、けれど確かに響いた。
まるで二人の間に伸びていた見えない糸が、ようやく音を立てて結び直される予兆のように。
珖雅の執務室から放たれたその贈り物は、今まさに、蓮珠の元へと向かおうとしていた。
そして珖雅は、閉じた扉を見つめたまま、しばらく動けなかった。
届くことを願うしかない。
今度こそ、言葉で。
今度こそ、順番を間違えずに。
そう思っても、胸の奥では何度も不安が湧き上がる。
蓮珠は、あの手紙を読んでくれるだろうか。
赤いリボンと銀の鈴を見て、あの日の約束を思い出してくれるだろうか。
蕾とうさぎの飴細工に込めた意味を、受け取ってくれるだろうか。
それとも、遅すぎると笑うだろうか。
いいえ、と静かに首を振るだろうか。
想像するたび、胸が締めつけられる。
だが、それでも珖雅は使者を追いかけなかった。
返事を急かすこともしない。
ここで待てるかどうかが、自分の最初の試練なのだと分かっていた。
「……待つというのは、これほど苦しいものだったのだな」
ぽつりと落とした声に、奏多が書類から顔を上げた。
「蓮珠さまは、数年待っておられましたよ」
「……分かっている」
「なら、まずは半刻くらい黙って待ってください」
「半刻……」
珖雅は絶望したような顔をした。
「長いな」
「短いです」
朔夜が即座に切り捨てる。
「妹が待った時間を思えば、瞬きにも等しいでしょう」
「……その通りだ」
珖雅は反論しなかった。
できなかった。
彼は、机の上に残された蜂蜜漬けの瓶へ目を向けた。
蜂蜜の中で、木ノ実が静かに沈んでいる。
その硬さも、甘さも、今なら少しだけ分かる気がした。
「……蓮珠」
低く、愛しい名を呼ぶ。
「どうか、私にもう一度、君の前に立つ機会をくれ」
王弟珖雅の恋は、ここからようやく、真正面から動き始める。
じれじれという甘い遠回りを越えて。
二人は、互いを逃さないための恋の駆け引きへと、踏み出そうとしていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
今回は、珖雅がようやく贈り物だけではなく、自分の言葉で蓮珠に向き合おうとする回でした。
赤いリボンと銀の鈴。
蕾とうさぎの飴細工。
これまで二人の間を行き来していた“意味のある贈り物”が、少しずつ言葉へ近づいていきます。
手紙は入口。
これで終わりではなく、ようやく始めるための一通です。
蓮珠がどう受け取るのかは、次回へ続きます。
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