王弟殿下、約束を思い出して崩れ落ちる
珖雅は、机の上に置いた小さな銀の鈴をぼんやりと眺めていた。
蓮珠から届いた蜂蜜漬けの瓶。
その首元に結ばれた、銀の鈴。
指先で軽く弾けば、ちりん、と澄んだ音が鳴る。
その音を聞くたび、珖雅の脳裏には、広場で歌を教えていた蓮珠の姿が蘇った。
子どもたちに囲まれ、柔らかく笑う蓮珠。
茶屋の二階に気づき、親しげに手を振ってくれた蓮珠。
そして、遠い日の東屋で、驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに笑った幼い蓮珠。
記憶の奥で、何かが揺れている。
あと少し。
あと少しで、掴めそうだった。
「……鈴」
珖雅は低く呟く。
鳴らすもの。
知らせるもの。
気づかせるもの。
蓮珠は、何に気づけと言っているのか。
銀の鈴。
白のリボン。
蜂蜜漬けの木ノ実。
前回は赤いリボンだった。
半分正解で、半分不正解。
そして――。
珖雅は、不意に何かに気づいたように顔を上げた。
その瞳には、今までとは違う、深刻な動揺が宿っている。
「……朔夜」
「はい」
「一つ確認だが」
「何でしょう」
珖雅はひどく慎重な声で尋ねた。
「蓮珠は……十五だよな?」
あまりに唐突な問いに、奏多が手元の書類から顔を上げる。
朔夜は眉一つ動かさず、冷徹に事実を告げた。
「十六ですが」
ガタンッ、と大きな音がした。
珖雅の椅子が勢いよく後ろへ倒れたのだ。
彼は仰け反るようにして固まり、そのままの勢いで机へ両手をつき、額を打ちつけるほど盛大に頭を抱え込んだ。
「……やってしまった……ッ!」
執務室に響き渡る、文字通りの絶望。
奏多が静かに瞬きをした。
「何を今さら」
「今さら、だと……?」
「はい」
朔夜も淡々と続ける。
「殿下がポンコツなのは、今に始まったことではありません」
「朔夜……!」
珖雅は顔を上げる気力すら失ったのか、机に額を押しつけたまま呻いた。
「主君に向かって、何ということを……」
「事実です」
「事実でも言っていいことと悪いことがあるだろう!」
「では、言い換えます」
朔夜はわずかにも迷わず言った。
「かなりのポンコツです」
「悪化した!」
奏多が呆れを通り越して、どこか楽しげに問いかける。
「で、何を思い出したんですか? 例の約束ですか?」
珖雅は、ゆっくりと顔を上げた。
魂が半分抜けたような顔だった。
だが、その目には深い確信が宿っている。
「……ああ」
朔夜と奏多が、同時に動きを止めた。
「思い出した」
「よかったですね……多分」
奏多が慎重に言う。
「なんですか、その死にそうな顔は」
「で、約束というのは?」
朔夜の問いに、珖雅はしばし沈黙した。
机の上の銀の鈴が、ほんのわずかに揺れる。
ちりん。
澄んだ音が、やけに大きく響いた。
珖雅は観念したように、掠れた声で吐露した。
「……十六になったら、迎えに行くと」
奏多の表情が固まる。
朔夜の目が細くなる。
珖雅は続けた。
「妃として、迎えに行くと……確かに、言った」
一瞬の静寂。
次に口を開いたのは奏多だった。
「……馬鹿ですか?」
「奏多!」
「出しませんよ。絶対に」
朔夜の拒絶は、以前よりも輪をかけて速く、そして冷酷だった。
「待て! 何処から突っ込んでいいか分からん!」
珖雅はふらふらと立ち上がり、机を叩いた。
「とりあえず奏多! 臣下が主君に『馬鹿』などと……慎め! そして朔夜! 妹を大切に思うのは分かるが、拒否が速すぎるだろう!」
「速くありません」
「速かった!」
「必要な判断です」
「必要だとしても、もう少し悩め!」
珖雅は心臓を押さえ、荒い息をついた。
「私だって、自分で言っておきながら、今この事実に一番震えているんだからな……!」
十六歳。
蓮珠は、すでに十六になっていた。
つまり、正式な婚約の話を進めても、何ら不思議ではない年齢に達していたということだ。
珖雅が国境で泥をすすり、政務に追われ、帰還後も勝手に恋煩いで崩壊している間に。
蓮珠は、いつでも「妃候補」として迎えられる年齢になっていた。
「……私は、何をしていた」
珖雅の声が落ちる。
「今まで、あの子の傍にいた男どもは? いや、それ以上に……」
彼は、震える指先で銀の鈴に触れた。
「私は、あの子を大人として見ていたつもりだった。だが、まさか……あの子はずっと、私の言葉を信じて待っていたのか?」
顔が熱い。
羞恥。
焦燥。
そして、約束を果たさなければならないという王弟としての矜持。
さらにその奥に、蓮珠を自分のものにできるかもしれないという、どうしようもない歓喜がある。
それらが混ざり合い、珖雅は再び椅子に座ることもできず、執務室をうろうろと歩き回った。
「……どうする」
彼は額に手を当てる。
「明日、この約束を突きつけたら、あの子は……またあんな風に、意地悪な鈴を鳴らすのだろうか」
「突きつける前提なのが、すでに危険ですね」
奏多が言った。
だが、珖雅は聞いていない。
彼の心は、すでに「返事を待つ」という段階を越えていた。
蓮珠の元へ直行したい。
会って、言いたい。
思い出した、と。
忘れていたわけではない、と。
いや、完全に忘れていたわけではない。
十五だから、まだ言ってはいけないと思っていたのだ。
「そこの馬鹿王弟、落ち着いてください」
朔夜の冷ややかな一言が、執務室の空気を凍らせた。
珖雅は「馬鹿王弟」という衝撃的な言葉に、心臓を直撃されたかのように硬直する。
「おい、朔夜……! お前、主君に対する口の利き方を……!」
「今の殿下には、それくらいがちょうどよろしいかと」
「ちょうどよくない!」
だが、その声には威厳の欠片もない。
奏多はあからさまに呆れた様子で、淹れ直したばかりの茶を珖雅の前に置いた。
「本当に落ち着いてください」
「落ち着いていられるか!妃として迎えに行くという、一生に一度の重要な約束を、十五だから言ってはいけないと……我慢していたのだぞ! それが十六だと!!」
「でも、忘れてましたよね?」
「少し……」
「やはり、一生に一度の重要な約束を、年齢という見えない理由で棚上げしたまま忘れていたわけですね。」
「刺すな!」
「手順というものが必要でしょう」
奏多はにこりともせずに続けた。
「本当に、救いようのないポンコツですね」
「ポンコツを連呼するな!」
「では、救いようのない殿下」
「余計に悪い!」
珖雅は茶を一気に飲み干し、乱れた髪をかき上げた。
顔は赤く、目はどこか潤んでいる。
王弟としての余裕は完全に消え失せていた。
そこにいるのは、自分の失態の大きさに押し潰されそうになっている、一人の男だけだった。
「……手順だと?」
珖雅は低く言う。
「今すぐ蓮珠の元へ行き、すべてを告白する。それが一番の近道だろうが!」
椅子を蹴るようにして立ち上がる。
「妃として迎えるという約束を果たそうと……そう伝えるだけで十分だ。あの子もきっと、それを待っているはずだ。そうだろう?」
縋るように、珖雅は二人を見る。
だが、朔夜は冷徹に。
奏多は同情を禁じ得ないという顔で。
同時に首を横に振った。
「駄目です」
「駄目ですね」
「なぜだ!」
朔夜が即答する。
「今の殿下は完全に浮足立っています。そんな状態で蓮珠の前に現れたら、またあしらわれて終わりです」
「また、とは何だ」
「自覚がないところが問題です」
奏多も静かに続ける。
「殿下。蓮珠さまはもう、かつてのように殿下の言葉を待つだけの少女ではありません」
その声音は、先ほどまでの茶化しを含んだものではなかった。
「十六になった筆頭令嬢としての誇りもあります。中立派を背負う立場もあります。……そして何より、殿下が思い出せなかったその数年間、蓮珠さまがどんな気持ちでいたかを無視して、『迎えに来た』では済まされませんよ」
奏多の言葉が、珖雅の胸に鋭く突き刺さった。
そうだ。
蓮珠は待っていたのかもしれない。
けれど、ただ従順に待っていたわけではない。
約束を覚えたまま、大人になり。
自分の立場を持ち。
自分の矜持を持ち。
それでも、教えなかった。
蜂蜜漬けの木ノ実。
白のリボン。
銀の鈴。
すべては、珖雅に思い出させるための問いかけだった。
答えを急かすのではなく。
責めるのでもなく。
けれど、簡単には許さないという、蓮珠らしい意地でもあった。
「……そうか」
珖雅は力なく椅子へ座り込んだ。
「私は、あの子の数年を……あの子の孤独を、私の多忙さで置き去りにしていたのだな」
執務室に、静かな沈黙が落ちる。
いつものように側近たちは茶化さなかった。
朔夜も、奏多も、ただ珖雅を見ている。
しばらくして、珖雅は机上の蜂蜜漬けの瓶に触れた。
「あの子は、この瓶の中で私を試している」
銀の鈴が、ちりん、と鳴る。
「私が約束を思い出すこと。それは、蓮珠が私に求めた初めの一歩に過ぎなかったのか」
「おそらくは」
奏多が短く答える。
朔夜も静かに言った。
「蓮珠は、殿下にただ思い出してほしかっただけではないと思います」
「……では、何を求めている」
「思い出した上で、どう向き合うか」
その言葉に、珖雅は顔を上げた。
「どう向き合うか……」
「はい」
朔夜は表情を変えない。
だが、その声には兄としての重みがあった。
「蓮珠は、殿下に約束を盾にして迫られたいわけではないはずです。約束を守ってほしい気持ちはあるでしょう。ですが、それ以上に、今の蓮珠を見てほしいのではありませんか」
珖雅は息を呑んだ。
今の蓮珠。
子どもたちに歌を教えていた蓮珠。
中立派の筆頭として凛と立つ蓮珠。
蜂蜜漬けの瓶に、答えを隠した蓮珠。
手紙を読み、きっと少し照れながら、それでも「教えません」と笑う蓮珠。
幼い頃の約束だけではない。
今の彼女を、見なければならない。
「……教えてくれ」
珖雅の声が、低く落ち着いていく。
先ほどまでの慌ただしい恋煩いではない。
王弟として、戦略家として、そして一人の男として。
本気で考える者の声だった。
「朔夜、奏多」
二人が顔を上げる。
「私は、どう動くべきだ」
珖雅の表情が、次第に凄まじい執念へと変わっていく。
「蓮珠の矜持を傷つけず、かつ、私のこの想いと約束を、最も彼女に響く形で伝えるには、一体どうすればいい?」
それはもう、ただ恋に溺れて泣き言をこぼす男の顔ではなかった。
長年、国境で駆け引きを重ね、宮廷の謀略を読み切ってきた王弟の顔。
戦うための武器を探す男の顔だった。
奏多が、わずかに口角を上げる。
「ようやく、まともな相談になりましたね」
「今までの相談は何だった」
「恋煩いの発作です」
「否定しきれないのが腹立たしいな」
朔夜は淡々と言った。
「まず、贈り物で誤魔化すのをやめてください」
「……いきなり核心を刺すな」
「必要です」
「贈り物は駄目か」
「駄目ではありません。ただ、それだけで伝えようとするから、話が複雑になります」
奏多が頷く。
「蜂蜜漬け、鈴、うさぎ、落雁、飴細工。殿下と蓮珠さまの暗号合戦は見ていて面白いですが、そろそろ言葉にすべきところは言葉にした方がよろしいかと」
「言葉……」
「はい。ですが、いきなり『迎えに来た』では駄目です」
「では、何と言えばいい」
珖雅は真剣に問う。
朔夜が静かに答えた。
「まずは、忘れていたことを謝るべきです」
珖雅の目が揺れる。
「……ああ」
「次に、思い出したから迎えに行くのではなく、今の蓮珠を見て、それでも望んでいると伝えるべきです」
奏多も続ける。
「そして、蓮珠さまに選ばせることです」
「選ばせる……」
「はい。約束だからではなく、蓮珠さま自身がどうしたいのかを聞くべきです」
珖雅は黙った。
その沈黙は長かった。
やがて、彼は銀の鈴をそっと指で押さえた。
もう鳴らさない。
ただ、そこにある意味を確かめるように。
「……そうだな」
低い声だった。
「約束を盾にするのではない。約束を思い出した私が、今の蓮珠にもう一度選ばれに行く」
朔夜の目がわずかに細まる。
「その覚悟があるなら」
「ある」
珖雅は即答した。
「何度でも選ばれに行く。あの子が私を試すなら、すべて受けて立つ。けれど今度は、私の都合だけで押し切らない」
奏多が、少しだけ安堵したように息を吐いた。
「やっと王弟殿下らしくなりましたね」
「最初からそうだ」
「いいえ」
「否定が速い」
「事実ですので」
珖雅は苦笑した。
その笑みには、まだ焦りが残っている。
けれど、先ほどまでのような危うさはない。
彼は筆を取らなかった。
すぐに手紙を書こうともしなかった。
代わりに、蜂蜜漬けの瓶を見つめ、静かに言った。
「明日、蓮珠に会う」
朔夜が目を細める。
「手順を踏んでください」
「分かっている。会って、まず謝る。そして、今の蓮珠を見ていると伝える」
「その後は?」
「選ばせる」
珖雅は銀の鈴を見つめた。
「だが、諦めるとは言っていない」
「そこは殿下らしいですね」
「当たり前だ」
珖雅の口元に、ようやく王弟らしい笑みが戻る。
「私は、蓮珠を妃として迎えたい。だが、それ以上に、蓮珠自身に私を選ばせたい」
執務室の空気が、少しだけ変わった。
恋に溺れた男が、ようやく立ち上がった。
今度は、ただ焦って走るためではない。
蓮珠の前に、正面から立つために。
――なお。
その決意に至るまでに費やされた時間のぶん、書類はまた見事に積み上がっていた。
奏多は無言で一枚を取り、朔夜もまた、諦めたように筆を取る。
珖雅だけが、銀の鈴を前にして静かに決意を固めていた。
ちりん。
小さな音が鳴る。
蓮珠が仕掛けた問いの答えに、珖雅はようやく辿り着いた。
だが、その答えをどう伝えるか。
本当の勝負は、ここからである。
最後までお読みいただきありがとうございました!
今回は、珖雅がようやく蓮珠との約束を思い出す回でした。
十六になったら、妃として迎えに行く。
思い出した瞬間の珖雅は、嬉しさより先に「やってしまった」が来ていました。
約束を思い出したからといって、そのまま押し切るのではなく、今の蓮珠を見て、もう一度選ばれに行く。
ここでようやく、珖雅が恋に溺れるだけではなく、本気で蓮珠と向き合おうとする形になりました。
とはいえ、ポンコツなところは変わりません。
朔夜と奏多のツッコミも、ますます遠慮がなくなっています。
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