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ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


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第九章 ホールの仕事は、誰のためにある

国境会戦の招集が出たのは、その夜のうちだった。

 大軍同士のぶつかり合い。地形は平野。逃げ場はない。

 地図の上で見ると、それは長方形のひとつの卓に似ていた。長辺の北側に魔王軍が並び、南側に連合軍が並ぶ。卓の長さは三里半。客の数は、両側合わせて五万を超える。八年間で俺が捌いた一番大きな貸し切り宴会の、二百倍の規模だった。


 俺はひと晩眠れなかった。

 戦が怖いからではなかった。もし俺の采配が外れたら、そのぶん、誰かの父親が帰らない。誰かの娘が、寝顔の写真を見ながら待っているのに。

 俺はベッドに座って、両手で頭を抱えた。両手の間に閉じ込められた呼吸の音が、自分の頭の中で大きく響いた。それは八年前の俺の息と、今の俺の息と、それから何故か、四歳の湊の小さな寝息と、似た周期で重なっていた。

 窓の外で、夜警の足音が一定の間隔で過ぎていく。靴の音、息の音、鎧の擦れる音。それぞれが誰かの誰かであることを、俺は今夜、初めて意識した。あの音の中の歩兵にも、たぶん、家がある。家には、寝ているうちに父親の帰りを待っている誰かがいる。今夜の歩兵が明日帰らなかったら、その誰かは、明日の朝、まず空っぽの玄関を見る。その「空っぽの玄関」を、俺は俺の采配ひとつで、増やしてしまうかもしれない。

 八年間ホールで会ってきた客の一人一人が、誰かの誰かであったように。彼らの誰一人として、俺は最後まで深く知ることはなかった。だが彼らはみんな、誰かの誰かだった。それを、俺は今夜、ようやく、自分の重みとして抱えた。


 夜明け前、馬場の片隅で、アルメリアが馬の手入れをしていた。

 馬場の地面は、夜のうちに霜が降りていた。一歩踏み込むと、霜の結晶が小さくぱりぱりと音を立てて潰れた。空気の中に、馬の汗の匂いと、藁の匂いと、それから革の油の匂いが、層になって混じっていた。

 彼女は左手にブラシを持ち、右手で馬の前脚の付け根のあたりを撫でていた。馬の毛並みを整える動きは、俺がカウンター席を拭く時の動きに、奇妙なほど似ていた。あれも一往復で布巾を裏返し、二往復目でカウンターの木目に沿わせる。彼女の動きも、一往復ごとに、馬の毛の流れに沿わせていた。

 愛馬の首を撫でながら、彼女は俺を見た。馬の鼻息が、白い湯気になって彼女の頬の横を流れていく。

「眠れぬか、軍師殿」

「軍師ではないですけど、眠れません」


 彼女は馬具を脇に置いた。馬具の革が、地面の霜の上で、ことりと小さな音を立てた。

 そしてしばらく星を見上げた。冬の夜明けの星は、息を吐くたびに視界の中で曇った。曇った視界の中で、彼女の睫毛の影が、一度だけ、頬の上で揺れた。


「私の家族は、五年前の侵攻でほとんどが死んだ」

 その声に、感情の波はなかった。波がないのは、感情が無いからではなく、波を立てる体力をもう使い切ったからだ。それが、声の底からわかった。

「母も、二人の弟も。妹はまだ二歳だった。私が連れて逃げた。父は領地で生き残ったが、あの夜から別人のようになった」


 俺は何も言えなかった。馬の鼻息の音だけが、二人の沈黙の間に挟まっていた。

 彼女は馬の鬣にもう一度ブラシを当てた。今度のブラシの動きは、馬のためというより、彼女自身の手の置き場のためだった。

「貴方の言う『卓』を、私は最初、笑いそうになった。戦場の話に、料理屋の言葉を持ち込むなと」

 彼女は馬の鬣に頬を寄せた。馬の体温が、彼女の白い頬に薄く色を移した。馬の毛と頬の境目で、彼女の睫毛が、もう一度だけ揺れた。

「だが、貴方の卓は、誰も殺さない卓だ。私の家族が死んだ夜、誰かが貴方のような卓を捌いていれば、もしかしたら」


 彼女の声は、最後まで平らだった。平らだから、よけいに胸を抉った。

 その「もしかしたら」の続きを、彼女は言わなかった。言わないことで、続きの全部の重さが、夜明け前の馬場の空気の中に置かれた。

 俺は彼女の言わなかった「もしかしたら」を、自分の中で、ひと文字ずつ、ゆっくりと拾った。もしかしたら、二人の弟は生きていた。もしかしたら、母は今朝、彼女の隣で湯を沸かしていた。もしかしたら、彼女は鎧を着る人生に、ならなかった。


 俺はメモのページを開いた。書きかけの一行を、彼女に向けた。

「俺の妻は看護師です。娘は四歳。湊と言います」

 彼女は頷いた。

「いい名だ」

「俺は、家に帰りたいんです」

「ええ。帰ってください」


 夜が、明け始めていた。地平線の端に、青より白に近い色が薄く広がっていた。

 その色は、俺が八年前、店に初めて入った日の早朝の色に、よく似ていた。あの日の俺は、配属された店の裏口の前で、五分早く着きすぎて、立ち止まっていた。空がちょうどこの色だった。

 平野の向こうで、敵の旗が、薄く見え始めていた。旗の数を数える前に、俺の口の中が乾いた。


「貴方の妻と娘の名前は、聞かせてもらった」

 彼女は馬の手綱を握った。革の手袋が、手綱の皮を握り直す音がした。きゅっ、と短く、しかし確かな音だった。

「だから、貴方を、必ず帰す」


 彼女の声は、馬の鼻息の白い湯気と一緒に、夜明け前の空気の中に薄く伸びていった。俺はその伸び方を、長く目で追った。

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