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ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


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第八章 ファイアの賢者と呼ばれて

帰すための門。

 その言葉は、頭の奥で何度も反響した。俺はロロト師の前で、しばらく動けなかった。彼の白髭の先が、室内の僅かな空気の流れで、ほんの数ミリ揺れていた。それは時計の振り子のように、俺の沈黙の長さを計っていた。

 部屋の窓は半分開いていて、王宮の中庭からの風が、葉巻のような薄い香りを運んでいた。誰かが昼食の後、葉を燃やしていた。その匂いの中に、僅かに薬草の苦みが混じっていた。たぶんこの部屋の主、ロロト師が普段燻らせている香だった。


「世界を、救うんですか。俺が」

「貴方が、すでにその役目に入っている」

「俺はホールスタッフです」

「だから、適任なのです」


 老人は目を細めた。皺が頬の上で、放射状に動いた。

「八百年前、最後の聖王は、ひとりの料理人と並んで戦場に立っていたと記録されている。聖王は剣を握り、料理人は号令を出した。料理人の名は伝わっていない。誰も書き残さなかったからです」

 ロロト師は息を整えるように、間を置いた。

「私は若い頃、その料理人の墓を探した時期があった。古い文献を辿って、田舎の教会を一つずつ訪ね歩いた。三年探したが、見つからなかった。墓そのものが残っていない。けれども、ある村の老婆が、こう教えてくれた。『あの方は、戦が終わった日に、村の小さな食堂で湯を沸かして、皆に温かい汁を出した。それが彼の墓だ』と」

 俺はその言葉を、しばらく身体の中で温めた。

 温かい汁を出すのが、墓だ、という言い方を、俺は今までに、聞いたことがなかった。


 彼はしわだらけの指で、羊皮紙の紋様をなぞった。指の関節が太く、爪は薄い。長い年月の中で、紙を撫で続けた指の形だった。

「書き残すに足らぬ仕事だと、当時の歴史家は思っていた。だが、聖王の戦線が崩れなかったのは、あの料理人の号令の正確さによる、と私は信じている」


「俺と関係ありますか、それは」

「貴方は、その料理人の代わりに呼ばれた」


 俺は首を振った。

「俺は、誰の代わりでもない」

「そうです。貴方は、貴方として呼ばれている」

 ロロト師は、自分の言葉に、自分で頷いた。それは老人がよくやる、自己確認の動作だった。彼は俺を励ますためではなく、自分の信仰を保つために、その動作をしていた。


 その夜、俺は宿の机に向かっていた。

 ろうそくの炎が、紙の縁に橙色の光を落としていた。光の縁に小さな黒い影が動く。蛾だった。窓の隙間から入ってきたらしい。蛾の翅が時折ろうそくの炎に触れて、ぱち、と乾いた音を立てた。

 俺は蛾を追い払わなかった。蛾は炎に近づきすぎず、遠ざかりすぎず、絶妙な距離を保って飛んでいた。それは、まるで何かの作法を心得た客の動きに似ていた。

 メモのページが、また一枚埋まった。


 ・帰る門は、世界を救わないと開かない。

 ・俺は、世界を救うために呼ばれた。

 ・俺は、ホールスタッフだ。


 三行を書いて、俺は最後の一行を消した。万年筆のインクが、紙の繊維にまだ残っていた。消した跡は、薄い灰色の汚れになった。

 代わりに別の言葉を書いた。


 ・俺は、ホールスタッフだ。それで、なにか問題があるか。


 書いてから、自分で笑った。

 強がりだ、と思った。八年間、自分の仕事に「それで何か問題があるか」と問い返したことなど、一度もなかった。問い返す気力がなかったというより、問い返すための言葉を持っていなかった。

 でも強がりが、ほんの少しだけ、心の地面に根を下ろした気がした。根は浅いが、根は根だ。


 翌朝、王宮の廊下で鴻巣に出くわした。

 彼は俺を見ると、片頬を吊り上げて笑った。

「賢者って呼ばれてるんだって?」

「呼ばれているだけです」

「ふうん」

 彼は扇形の動作で、自分の上着の襟を撫でた。彼の癖だった。店でも、新人を呼ぶ前に、必ずそうしていた。誇示と、緊張のごまかし。そのふたつが混ざった動作。


「俺はね、こっちで色々な仕掛けを動かしてるんだ。お前の戦線、来週には崩れる。今のうちに、せいぜい賢者気取ってな」


 俺は何も言わなかった。

 ただ、彼の靴を見た。磨かれていない。ホールの人間としては、致命的な点だった。彼はこちらの世界に来てから、自分の身なりを自分で整えるという基本を、捨てたのだろう。あるいは、最初からそんな基本など、彼の中になかったのかもしれない。

 彼の靴の踵には、磨り減った形が残っていた。歩く時、彼は左の踵を強く擦る癖があった。八年間、店の床のフローリングで、彼が歩いた跡は、いつも左寄りに偏っていた。歩き方の偏りは、心の偏りの形をしていた。彼はずっと、自分の半身だけで世界を歩いていた。残りの半身は、誰かに支えられているつもりで、実は支えられていなかった。


 俺はその観察を、メモに加えた。

 誰にも見せないノートに、ひと文字。

 ・鴻巣の靴、磨かれていない。誰も彼に注意できる関係を作っていない。


 その夜、ロロト師の部屋に呼ばれた。卓の上に、地図と、もう一枚別の地図があった。

「魔王軍内部からの密書だ」

 老人は低い声で言った。

「軍師ヘネラルなる者が、魔王本陣と通じているという情報がある」

「決定的な証拠ですか」

「そのうちのひとつだ」


 俺は地図を眺めた。

 鴻巣の住居の動線、彼が会っていた側近の名、密使の往復ルート。頭の中で、それらが店内の動線図に重なった。同じだった。動きの悪い従業員が、誰かと密に話している時の、不自然な動きの軌跡。閉店間際の更衣室、開店前の物置の裏、誰も来ない時間の喫煙所。隠れ場所には法則がある。


「彼は、ここで魔王軍と接触しています」

 俺は地図の一点を指した。

「日付は、たぶん新月の前夜。彼は暗いところを選びます」


 ロロト師は、目を細めた。

「貴方は、占いまでするのか」

「いえ。同僚を観察するのと、同じです」

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