第七章 卓は埋まる、戦線も埋まる
魔王軍南方軍が国境を越えた。
知らせは、夜明けの早馬で届いた。蹄の音は四つ、間隔の刻みが揃っていない。それは長い距離を駆け抜けてきた馬の、限界に近い足どりだった。
俺はその音を、王宮の広間の奥で聞いた。広間の床は石の市松模様で、白と黒の交互に磨かれている。早馬が王宮の門に着いた時、白の石の上に最初の蹄の音が落ち、黒の石の上に二度目が落ちた。それは戦の始まりにふさわしい、奇妙に整った音だった。
地図を広げた作戦机に、白い駒と黒い駒が、もう一度並べられた。今度は駒の数が、前より多かった。戦線は三つ。
卓を囲む将校たちの顔が、前回より一段、硬かった。誰の唇も、わずかに乾いていた。早朝から起こされた者の唇の乾きと、戦況に対する緊張の乾きの、両方が混ざっていた。
「東部、南部、西部。同時に押されている」
クラドック卿が、低い声で言った。
「我らの主力は、どれかひとつしか守れぬ」
俺は地図を見た。
いや、地図ではなく、頭の中で別のものを見ていた。ピーク時の店内。三卓と五卓と七卓が、ほぼ同時に上がる時間。あの時間の感覚を、俺の身体は今も覚えていた。胃のあたりがほんの少し縮む。指先がほんのわずかに冷える。耳が、客の声より厨房の音の方を、優先的に拾い始める。
全部を一度に出すのは、不可能だ。でも出すべき順番がある。順番を間違えなければ、すべての皿は、ぎりぎりのタイミングで客の前に届く。
順番を読むには、卓の客の食べる速度と、厨房の仕上がる速度と、ホールの足の数を、同時に計算する。それを、俺は八年間、毎日無意識にやってきた。
「東部はアミューズです」
俺は静かに言った。声は小さかった。けれども机の周りの誰一人として、聞き返さなかった。
「軽く出せば、敵は本気の一手と勘違いします。半個中隊で十分」
「西部は」
「前菜です。少し時間を遅らせます。敵が東部の動きを確認する間に、こちらが姿勢を整える」
「南部は」
「主菜です。本気は、ここに集めます。三卓と五卓のドリンクを切って、七卓の本日のおすすめに人手を回す」
将校の一人が、不意に呟いた。年若い、まだ顎の線が柔らかい男だった。
「『卓』ですか、それは」
「すみません、つい」
俺は頭を下げた。客の前で口にしてしまった、店内の業界用語のような気まずさだった。
「いえ。続けてください」
別の将校が言った。年配の、額に古い傷のある男だった。傷は左の眉の上から、こめかみまで、白く残っていた。
「『卓』の方が、よくわかる」
彼の声には、揶揄の色がなかった。むしろ、長く戦線で動いてきた者が、分かりやすい言葉を求めている時の、切実な静けさがあった。
その日から、戦況の伝令の文言が、少しずつ変わった。
東部は『アミューズ進行中』。西部は『前菜上がりました』。南部は『主菜、ファイア』。
従騎士たちは最初、戸惑っていた。
最初に「アミューズ」と書かれた伝令票を渡された若い従騎士は、それを声に出して読み上げる時、二回読み直した。一度目は「あ、み、ゅ、ー、ず?」と分解し、二度目は「アミューズ」と一気に発音した。彼の発音は微妙にこちらの世界の音節に変形していたが、意味は通じた。
でも三日目には、自然に使うようになった。砦の中庭で、若い従騎士同士の会話が聞こえた。
「軍師殿の言い方、最初は変だと思ったけど」
「うん」
「あれの方が、頭に残るんだ。普通の伝令だと、覚える前に次が来る」
「料理屋に倣ってるって、本当か?」
「いや、本人はホールって職らしい。あっちの世界の」
「ホール」
「料理を運ぶだけの仕事じゃないって言ってた。卓を捌くんだそうだ」
俺は、誰にも聞かれていないところで、目頭を押さえた。指の腹に、熱いものが触れた。それを拭ってから、俺は天幕の柱に額を一度だけ預けた。柱の木目の冷たさが、額に伝わった。
誰も聞いていないと思っていた。彼らは、俺の仕事を、ちゃんと聞いていた。八年間、俺自身が聞こうとしなかった言葉を、彼らは三日で聞き取っていた。
八年間。三日。その対比は、俺の中で、奇妙な角度に置かれた。俺はずっと、自分の仕事の意味を、自分の中だけで決めようとしていた。だが意味というのは、誰かに聞き取られた瞬間に、初めて成立するものなのかもしれなかった。
戦況は、優位に動いた。
東部はアミューズで終わり、敵は本気を出さなかった。西部は前菜の遅らせで、敵が引いた。南部の主菜では、味方が押し勝った。
戦死者の報告も来た。十六名。各方面合わせての数だった。前回の戦の半分以下。それでも十六人だ。十六人の家に、明日の朝、空の玄関ができる。俺は伝令の声を聞きながら、その十六回の朝の景色を、頭の中で順番に並べた。並べ終わると、自分の喉の奥が、また渇いた。
報告を聞きながら、俺はふと顔を上げた。
天幕の入り口に、ロロト師が立っていた。彼は目を細めて笑っていた。皺の中に、夕方の光がいくつも入っていた。
「ファイアの賢者よ」
「俺は、賢者では」
「そう、貴方は賢者ではない。貴方は卓を見る者だ。だが私は、それを賢者と呼ぶことを、もうやめない」
彼は白い羊皮紙を、俺の卓上に置いた。
そこには複雑な紋様と、ひとつの単語が書かれていた。紋様は六角形と五角形の組み合わせで、それぞれの線の交差点に、小さな点が打たれていた。
「ファイア」
「これは」
「貴方の名で、貴方の世界に開かれた門の鍵だ」
「門?」
「貴方を呼び寄せた門です。そして貴方を帰すための門でもある」
俺はその言葉に、息を止めた。
帰す。その動詞を誰かが俺のために言ってくれるのを、ずっと待っていた気がした。
ロロト師はしかし続けた。彼の声は、優しい時こそ、低くなった。
「ただし、門は世界を救った者にしか、開かない」




