第六章 業務日誌は、ここでもつけている
王都に滞在して三日目の朝、俺はまた同じことをしていた。宿の机に向かい、薄いノートを広げて書く。
ノートは、市場の文具屋で買ったものだった。羊皮紙の一冊が、銀貨二枚。日本円に換算して、たぶん千五百円くらいだった。八年間、俺は店から支給される業務日誌を使っていた。会社の経費で買われた、表紙にロゴの入ったノート。今、自分の銀貨で買ったノートを使っているのは、八年で初めてだった。それは奇妙に、誇らしかった。
・王宮の警備、夜半の交代に十二分の空白。
・南の城下、職人街の井戸が一つ枯れかけ。
・市場の麦価、先週比で一割五分の上昇。
・軍師ヘネラル、住居は王宮南棟。出入りする側近は四名。
書きながら、自分でも呆れた。戦場でも王都でも、同じノートをつけている。
窓の外で、市場の朝が始まっていた。果物を積んだ荷車の車輪、乾いた笑い声、誰かがパンを焼く煙の匂い。八年前、店に入ったばかりの頃の、開店前の街の匂いを、ふと思い出した。あの頃の俺は、自分が何になりたいのか、自分でも分かっていなかった。今もたぶん、分かっていない。
市場の真ん中で、子供がひとり、母親の手を引いて走っていた。子供の年頃は、湊と同じくらいだった。母親が荷車の前で立ち止まり、子供がその腕を引っ張る。子供は何かを指差していた。指差す指の先に、赤い実がいくつか積まれていた。
その光景を、俺は窓辺から、しばらく見ていた。見ながら、湊が今、どこで何をしているかを、考えた。日本との時差は、たぶんない。今、湊は朝食を食べているはずだった。涼香が出した目玉焼きの黄身を、湊は半分残す。それを涼香が食べる。それが、彼女たちの朝の儀式だった。
部屋の扉が叩かれた。アルメリアだった。
彼女は鎧を着ていない。亜麻の長衣に、灰青色のショールを巻いていた。襟元から、首の細い線が見えた。鎧の下の彼女は、思っていたより小柄だった。
彼女の歩き方は、鎧の時とは違っていた。鎧の時は、踵から地面に着いて、爪先で押す。長衣の時は、爪先から先に地面を探って、それから踵が遅れて落ちる。鎧の重さに支えられない時の彼女の身体は、思っていたよりずっと、注意深かった。
彼女は俺の手元を覗き込んだ。
「これは、貴方の」
「業務日誌です」
彼女は長く読んだ。俺の素人字を、ゆっくりと、何度も。視線が一行ごとにわずかに止まる。読むというより、確かめている動きだった。
「軍師ヘネラルの動向まで、貴方は記録しているのか」
「癖です」
「癖で、敵対者の動向を毎日記録するのか」
「敵対者だったんですね、彼は」
言ってから、しまった、と思った。
俺はまだ、彼の立場をはっきり見たわけではない。だが彼の振る舞いが「敵対」の側にいることは、肌が知っていた。ホールの仕事は、客の表情を読むだけではない。同じ職場の同僚の動きの綻びも、毎日読み続ける仕事だ。鴻巣の歩幅、視線の置き場、笑い終わるまでの息の長さ。それらを俺は、八年かけてもう知り過ぎていた。
知り過ぎていた、ということは、俺は彼を観察することに、八年分の時間を使った、ということでもあった。観察に使った八年は、俺の人生の何だったのだろう。それは仕事の一部だったのか、それとも人生の漏れだったのか。俺はまだ、その答えを持っていなかった。
アルメリアは、ノートを返した。
返す時の手の所作が丁寧だった。両手で持って、表紙を上にして、机の角にきちんと揃えて置いた。
「貴方の癖は、軍師の卵をひとつ二つ、軽く超えている」
「褒めすぎです」
「褒めではない。事実だ」
彼女の言葉には、修辞がなかった。修辞がないということは、彼女自身、修辞を持つ余裕のない人生を生きてきた、ということでもあった。
その日の午後、王立魔導院長が王宮に到着した。
ロロト師、と呼ばれた老人だった。白髭は、クラドック卿のものより細く、長かった。歩く時、髭の先が胸甲のあたりで揺れた。目は井戸の底のように深かった。井戸の底が深いのは、長い時間が積もっているからだ。
「火と時の調停者がここにいると聞いた」
老人は俺を見るなり、そう言った。
「ファイア、と号令を出した方は、貴方ですな」
「火は、出していません」
俺は答えた。
「ただ、号令を出しただけです」
ロロト師はしばらく俺を見つめた。
それから、皺だらけの頬を、ふっと緩めた。
「それを、火と時の調停と呼ぶのです」
彼は机の上に、薄い羊皮紙を広げた。古い文字が並んでいた。文字の傾きは、どれも左に倒れていた。古い時代の急ぎ書きの傾き方だ。
「我が国の古語で、ファイアとは、火の名であると同時に、号令そのものを指す言葉です。八百年前、最後の聖王が滅び去る日まで、軍を束ねた者だけが口にできた言葉でした」
「偶然です、それは」
「偶然というのは、人が因果を見落とした時に使う言葉です」
老人は静かに言った。
「貴方の世界の『ファイア』も、我らの『ファイア』も、おそらく同じ場所から来ている。世界はふたつあるようでひとつかもしれない」
俺はメモのページを伏せた。
伏せた手の甲に、自分の脈が触れていた。早かった。
その夜、俺は王都の高い壁の上にいた。
風が麦畑を渡って、こちらまで吹いていた。冬の麦は、根しか持たない。だがその根の匂いが、風に乗って上まで来る。土と寒さの混ざった、生きているものの匂いだった。
星は日本のものと、同じように見える。
メモの最後のページを開いた。
今夜書く一行を、俺はためらった。いつもの一文を書こうかと思った。
ファイアは早すぎても遅すぎても料理を殺す。
でも書かなかった。
代わりに、新しい一行を書いた。
・俺は、自分のホールに、まだ誇りを持っていない。
書いてノートを閉じた。
風の中で、誰かがこちらを見ているような気がした。振り向いたら、暗い廊下の向こうに、鴻巣が立っていた。彼はすぐに笑顔を作って、踵を返した。その背中だけが笑っていなかった。




