第五章 副店長は、ここにもいた
王都への道は、思ったより明るかった。
石畳の街道、麦畑、教会の鐘。これがファンタジーの王道、と頭のどこかが他人事のように呟いた。
馬車は四頭立てだった。四頭の馬の足音が、揃いきらないまま石畳を叩く。揃わないリズムが、逆に旅の現実感を高めた。車輪の軋みに混じって、誰かの咳と、馬丁の口笛が聞こえる。
馬車の中で、アルメリアが地図を広げていた。
俺は隣で揺られている。窓の外を、収穫が終わって茶色くなった麦畑が、ゆっくりと過ぎていく。畑の端に、藁を束ねた山が点々と置かれていた。働く者の手の形が、その束の縛り方に残っていた。
「貴方の世界には、馬車はないのか」
「あります。でも、もう乗る人はあまりいません」
「ふむ。代わりに何が走る」
「鉄の箱です」
「鉄の箱」
「自分で動く鉄の箱です」
彼女は真顔で頷いた。
信じてもらえているのか、流されているのか、わからない。だが彼女の頷き方には、自分の知らないことを蔑まない種類の重みがあった。
「貴方の家族は、その鉄の箱に乗るのか」
不意に、彼女が尋ねた。窓の外に視線を向けたままだった。
「妻と、娘がいます」
俺は短く答えた。
「四歳の娘、です」
アルメリアは長い沈黙のあと、地図を畳んだ。羊皮紙が折れる時の、乾いた音がした。
「貴方は、帰る場所がある人だ」
「ええ」
「いい人生だな」
その横顔が、何かを抱えているのが、俺にもわかった。
彼女の睫毛の影が、頬の上で揺れていた。睫毛は思っていたより長い。それが下を向いていた。
でも俺は何も尋ねなかった。尋ねる立場ではないと思った。彼女の沈黙の重さを、俺は俺の側から踏み越えてはいけない気がした。それは八年間、客の沈黙を踏み越えてはいけないという、ホールの基本の延長だった。
王都の門前で、迎えの兵が待っていた。
兵の槍の穂先が、午後の光を細く跳ね返していた。
俺は、馬車から降りる前に、メモをポケットに押し込んだ。書きかけの一行があった。
・もう一人の世界の住人、軍師ヘネラル。
謁見の間は、想像していたより素朴だった。
石の柱、暗い赤の絨毯、玉座の上の老いた王。
絨毯は擦り切れた箇所がいくつかあった。柱の根元には、長い年月の煤が薄く積もっていた。豪華さよりも、年齢が支配している空間だった。
その玉座のすぐ脇に、見知った顔があった。
鴻巣慎吾。
昨日まで店の副店長だった男が、金の縁取りの上着を着て、両手を腰の後ろで組み、こちらを見下ろしていた。上着の縁取りは新品の金糸で、それが古びた絨毯と妙にちぐはぐだった。彼の靴は——磨かれていなかった。爪先のあたりに、こちらの世界に来てから新しくついたらしい泥の跡があった。
「やあ。久しぶり、荻原くん」
彼は教科書通りの愛想笑いをした。
「先に来てたよ。うちの店長より先に、世界をいただいたって感じかな」
俺は、何も言わなかった。言葉を呑んだ。
俺の頭の中では、店内のホールの動線が、勝手に動いていた。彼の立ち位置は、店であれば、客の視線を遮る位置だった。彼は、そういう立ち方の癖を、こちらでも変えていなかった。
「俺さ、あっちで本社推薦取れたって言ったろ。あれ、嘘だったんだよね、本当はさ」
彼は片手をひらひらさせた。指先まで力が入っていない。それが彼の本物の余裕の無さだった。
「お前みたいなのが現場で評価されるのが嫌でさ。それでこっちに来たら、あっちの十倍評価される。やっぱり俺、ここで生きるべき人間だったんだよ」
玉座の老王が咳払いをした。咳払いは三度。一度目は喉のため、二度目は場のため、三度目は鴻巣のためだった。
「軍師ヘネラル殿。話を進めよ」
鴻巣はわざとらしく頭を下げた。下げる速度が、ほんのわずか速すぎた。
「失礼。陛下、こちらの男は私と同じ世界の出身で、現地の戦線で僭称している指揮官です。陛下のご威光を借りて、虚名を売っているにすぎません。私の方が、貴国を救うのに相応しい」
俺は唇を引き結んだ。反論はしない。反論しても面倒事が増えるだけだ。それは、店でも、ここでも、同じだ。
しかし玉座の隣で、一人だけ動いた者がいた。アルメリアではなかった。白い髭の老騎士、クラドック卿だった。
「陛下。発言を許されたい」
彼の声は、ひどく低かった。低さの底に、白髭の年輪が沈んでいた。
「軍師ヘネラル殿の論には、戦線の死傷者を見たうえでの実感が、欠けておる。実感のない指揮官に、麾下を預ける将はおらん」
鴻巣の頬が、わずかに引きつった。
「実感、ですか。具体的に」
「貴公は、駒を動かす。彼は、卓を見る」
「卓?」
「説明しても、貴公にはわからぬ違いだ」
謁見の間が、しん、と静まった。絨毯の繊維が、誰かの靴の下で擦れる音まで聞こえた。
俺は、自分の靴の先を見ていた。心臓が、店のディナータイムよりも早く動いていた。
謁見が終わったあと、廊下で鴻巣が俺の肩を叩いた。叩き方が強すぎた。それは親しみではなく、誇示の触れ方だった。
「いいか、荻原。お前が運がいいだけだ」
彼の声は、低く、近かった。
「お前みたいなただのホールが、いつまでも持ち上げられると思うなよ」
俺は答えなかった。
ただ、彼の手が肩から離れた瞬間、ポケットの中のメモを、強く握った。紙の縁が、指に小さな食い込みを残した。




