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ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


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第十章 中間点 勝ちすぎた俺たち

国境会戦は、史上稀に見る大勝に終わった。


 俺はディシャップ卓のような場所に座っていた。

 戦場の中央、小高い丘の上、伝令が次々と駆け込んでくる場所。馬の蹄の音、伝令の呼吸、地図に駒を置く木と木のぶつかる音。それらすべてが、店のピーク時間の音に似ていた。違うのは、湯気の代わりに土埃が立つことだった。

 土埃の匂いは、夏の校庭のそれに似ていた。乾いた土と、踏まれた草の名残。八年前ではない、もっと昔、二十年以上前の、子供の頃の記憶の匂いだった。戦場は、その匂いを通して、奇妙に懐かしい場所になっていた。それが俺の中で、何かを麻痺させていたのかもしれない、と俺は後から思うことになる。


 地図には、味方の白い駒が、敵の黒い駒を包み込むように並んでいた。


「東翼、敵歩兵を圧倒、追撃に移行!」

「西翼、騎兵突入、敵指揮官を捕縛!」

「中央、魔導部隊、火球の三段ファイア成功!」


 俺はひとつひとつの報告に、短く頷いた。ファイアの号令を、自分でも数え切れないほど出した。喉の奥が乾いてきた。水を口に含む暇もなかった。

 頷くたびに、身体の重心がほんの少し前に出ていた。前のめりの姿勢は、ホールでも危険信号だった。前のめりになると、視野が狭くなる。視野が狭くなると、隣の卓の異変に気づけなくなる。それを俺は、八年間、何度も叱られながら覚えた。けれども今日の俺は、自分の前のめりに気づけていなかった。あまりに皿が完璧に出続けていて、隣の卓を見る必要を感じていなかった。

 敵はわずか半日で、半数以上の戦力を失って退いた。


 夕刻、丘の上で、クラドック卿が片膝をついた。

 夕陽が彼の白髭を金色に染めていた。煤と血と、それに金。三色が彼の顔の上で混ざっていた。

 彼の手の甲には、新しい切り傷が一本走っていた。深くはなかった。けれども血は乾きかけていて、傷の縁が黒く凝っていた。今日一日で、彼自身も剣を抜く瞬間があったのだ、と俺はその傷で知った。

「今日の戦は、貴公一人の戦だ。記録しておく」

「俺一人ではないです」

「謙遜ではなく、貴公が捌いた卓だった、と私は記録する」

 彼の声は、いつもの低さから、半音ほど高くなっていた。それは興奮でも喜びでもなく、長い戦歴の中で、ようやく見つけた何かに対する敬意の音だった。


 その夜、王都から伝令が走り込んできた。

「軍師殿!陛下より、勲爵の打診です!」

 将校たちがどよめいた。異世界人が貴族にされる、というのは、八百年ぶりの慣例破りだった。

 どよめきの音の中に、複数の質感があった。賛同の音、嫉妬の音、計算の音。組織のどよめきには、いつもこの三つが混ざる。それを聞き分ける耳を、俺は店で養っていた。


 俺は断った。

「俺は、ホールスタッフです」

「しかし、これは栄誉で」

「俺の世界に、家族がいます。ここに留まる気はありません」


 その答えに、何人かが息を呑んだ。称賛と落胆が、同じ空気の中に混じった。

 アルメリアは何も言わなかった。

 ただ、長く、こちらを見ていた。月が昇り始めていて、彼女の睫毛の影が頬の上で揺れた。

 その視線の中に、彼女自身は留まることのできる土地を持たない、という現実が、薄く透けていた。彼女の家族は五年前に死んだ。彼女が帰る家は、今は彼女の妹がいる場所だけだった。それと、俺が帰ろうとしている家とでは、家の重さが違う。違う重さを、彼女はその沈黙の中で、丁寧に量り直していた。


 その時、別の伝令が、転がるように駆け込んできた。

 顔が白かった。靴の片方が、走っている途中で脱げかけていた。脱げかけた靴の中で、足の指が血で滲んでいた。彼はその痛みを、ここに着くまで意識しない速さで走っていた。

「報告!南部魔王軍が!夜のうちに、北部に兵を展開しております!」

「北部? 北部はもう」

「アルメリア中隊長の領地、辺境伯領の手前です」


 俺の心臓が、一段落ちた。

 頭の中で、地図の駒がばらばらと動き直した。

 俺たちは勝った。でも勝ちすぎた。敵は勝つために来たのではなく、こちらの主力を引きずり出すために来た。

 その瞬間、俺の身体の中で、ホールの教訓のひとつが、ようやく言葉になった。「皿の出が完璧に進む夜は、警戒しろ」。あれは八年前、俺の最初のホール長が、新人だった俺に言った言葉だった。あの夜、俺は意味が分からなかった。今夜、ようやく分かった。完璧な進行の裏には、必ず誰かの計算が動いている。今夜の戦の完璧さは、敵の計算の側にあった。


 空が裂けた。

 いや、空ではなかった。星空の真上に、黒い裂け目が走り、そこから巨大な影が降りてきた。翼ではない。形はない。ただ世界の重さが、ひと噛みされた。

 風が、急に冷たくなった。それまで吹いていた風とは違う種類の冷たさだった。鉄を凍らせるような、皮膚の表面ではなく内側を冷やすような冷たさ。

 冷たさが顔の中心で止まった。鼻の奥の粘膜が、一瞬、固まる感覚があった。その感覚を俺は、後で何度も思い出すことになる。それは敵の魔法の余波ではなく、自分自身の身体が、敗北を予感した瞬間の感覚だった。


 地が震えた。

 第二陣の野営地が、ひとつ消えた。火の手が一瞬で立ち上がり、それから黒い影に呑まれて、何も残らなかった。俺がこの世界で書き溜めたノートを入れた革鞄ごと、火に呑まれた。

 革鞄が燃えるのを、俺はこの目で見た。ほんの数秒だった。薄い革の表紙が、橙色の火に縁取られて、それから内側に向かって急激に縮んでいった。こちらに来てからの記録のすべてが、その縮みの中に呑まれた。俺は声を上げなかった。代わりに、その光景を目に焼き付けた。何かを失う瞬間、人は声を上げない。声を上げるのは、失った後の、長い時間の終わりに、ようやくだった。


 悲鳴が走った。

 誰かが丘の上を駆け上がってきた。アルメリアの愛馬が棒立ちになり、彼女を背から振り落とした。

 彼女は地面に倒れた。

 倒れる瞬間、彼女の身体は、空中で一度、奇妙な角度に折れた。鎧の重さが、彼女の身体を地面まで連れていく速度を、半秒ほど遅らせた。その半秒の間、彼女の顔は、月を見ていた。月の光が、彼女の頬の上で、夕方の名残の汗をきらりと反射した。それは美しかった。残酷なまでに、美しかった。

 胸甲の三つ星が、月の光を奇妙な角度で跳ね返した。


 俺は駆け寄った。

 彼女の唇から、細い、本当に細い、血の筋が落ちた。

 血の筋は彼女の口の端から首筋へ、首筋から鎖骨の上の影へと、ゆっくりと流れていった。流れる速度は、生きている人間の血の速度だった。それだけが、俺の身体を、その場に立たせている唯一の理由だった。


 夜明け前、最初の伝令の声が響いた。

「軍師殿が指揮した戦線が……最も多くの兵を、死なせました」


 俺は両膝を地面についた。

 ノートは燃えた。味方は崩れた。彼女は息をしていなかった、いや、している、まだしている、している。

 俺の口の中の鉄の味が、こちらの世界に来てから、初めて自分の血の味だと気づいた。

 俺は唇を噛みすぎていた。下唇の内側が裂けていた。痛みは感じなかった。けれども血の味は、麻痺した感覚の隙間から、はっきりと俺の意識まで届いていた。

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