第三章 指揮官などではない、ただのホールだ
翌朝、俺は灰色の作戦机の前に立たされた。
部屋は天井が高く、石と木の梁の匂いがした。窓は格子状で、外の冬の光が斜めに差し込み、机の上の地図に細い縞模様を作っていた。
部屋の隅には鉄の燭台が立っていた。蝋が垂れて、台座の根元に灰色の塊を作っていた。何百回もろうそくが交換されてきた跡。この部屋で、何百回もの作戦会議が繰り返されてきた跡だった。
地図は本物の羊皮紙だった。手で触ると、思っていたよりずっと軟らかかった。獣の皮の油の名残が、指先にうっすらと残った。
その上に駒が並んでいた。黒い駒が敵、白い駒が味方。木製で、表面に細かな溝が彫り込まれていた。溝の中には、長年の手の脂が黒く染み込んでいた。何十年も、何百もの将校の指が、この駒を動かしてきた。
俺は机の周りに立つ将校たちを、ひと巡り見た。
六人。年齢の幅は広い。一番若いのは三十前後、一番年配のクラドック卿は六十代。彼らは皆、俺を見ていなかった。机の上の駒だけを見ていた。新参者を直接見るのは礼儀ではない、というのが、この場の暗黙の作法らしかった。
俺はその作法に、ホールの新人歓迎会の最初の三十分の空気を、見た。誰も新人を直接見ない。新人は誰にも見られないまま、席に座っている。その時間を耐えられた者だけが、後で客の前に立てる。
俺は耐えることに、慣れていた。
「敵は谷を抜けて、北の門に向かうだろう」
クラドックと名乗る老騎士が言った。
白い髭が顎を覆い、その髭の先端が一本だけ、煤で黒くなっていた。声には三十年分の戦場の砂が混ざっていた。
「我らは正面で押し返す。門を落とされれば終わりだ」
俺は地図を見つめた。
駒の配置を見ながら、頭の中で別の絵を描いていた。
厨房に置き換えれば、これは満席のディナータイムだ。二十六卓が同時に料理を待っている状態。ここで全部の皿を一度に出そうとすれば、必ずどこかが冷める。冷めた皿が一枚出るたびに、客の顔から笑みが一段ずつ落ちていく。それは料理人の罪というより、進行を読めなかったホールの罪だった。
「敵の本隊は、谷を抜けません」
俺は言った。声は小さかったが、机の周りの全員が、こちらを向いた。一瞬、空気が止まったのが、自分の肌でわかった。
「谷の入り口、見ました。あれは餌です。本隊は東の森から回り込む」
「根拠は」
クラドック卿の声には、品定めの色があった。年寄りが、若い者の言葉の重さを量る時の声だった。
「見てきた、というだけです。すみません」
俺は咄嗟に頭を下げた。八年間、客の前で一度もしなかったほど、深い角度の頭の下げ方だった。
頭を下げた瞬間、机の縁の木目が、目の前で見えた。木目の真ん中に、誰かの爪で削った跡が、ひとつあった。たぶん、誰かが昔、この机の前で重大な決断をした時、無意識に爪で削ったあとだった。俺はその傷を、自分の心の中の傷と、ひと続きのものとして見た。
その時、後ろからアルメリアの声がした。
「指揮所の前で、彼は煤の上に線を引いていた。三本。一本は谷、一本は森、一本は退避路。あの三本のうち、谷の線だけが、斜めに引かれていた。意味があるはずだ」
彼女の声は静かだった。けれどもその静かさが、室内の空気を一段下げた。誰も反論しなかった。誰も笑わなかった。彼女の言葉には、彼女自身の身分と、彼女自身の戦歴と、それから何か別の重みが乗っていた。
俺は彼女の言葉を聞きながら、不思議な感覚に襲われていた。彼女は、俺が無意識にやったことを、意識的に観察していた。観察される、ということを、俺は八年間、ほとんど経験しないで来ていた。観察されない便利さに、俺はずっと身を浸していた。観察されるという、皮膚の表面が一段薄くなるような感覚は、こちらの世界に来てから、初めてのものだった。
クラドック卿は、白い眉を上げた。
「煤の上の線を、覚えていたのか、辺境伯令嬢」
「覚えるのが、私の仕事ですので」
老騎士は、しばらく俺を見つめた。
その視線は、品定めから、別の何かに変わっていた。値踏みをやめて、対象を再定義しようとしている目だった。
それから、白い駒を一つ手に取った。指の節が太く、中指の先に古い切り傷の跡があった。
「東の森に、一個中隊を回す。それでよいか」
「俺に決めさせないでください」
「しかし、貴公は」
「俺は、卓を見ていただけです」
その言葉に、何人かの将校が、ふっと笑った。
馬鹿にした笑いではなかった。戦場で初めて聞く類の音だった。緊張が一段抜ける時の笑い。だが彼らの笑いの底には、まだ別の警戒が残っているのを、俺は感じた。彼らは、俺が誰なのかを、まだ決めていない。
午後、俺は砦の壁の上に立っていた。
風が乾いた血のにおいを運んでいた。血のにおいは、思ったより甘かった。鉄のにおいではない。もっと有機的で、もっと若い、生きていたものの名残のにおい。
壁の石の隙間に、苔が生えていた。冬でも生きている苔。指で触ると、表面がわずかに湿っていた。砦は、生きている。砦は、戦が起きていない時間も、ずっとこうして生きている、と俺はそこで初めて思った。
遠く、東の森の梢が、不自然に揺れていた。風の向きとは違う方向に、葉の裏が見えていた。何かが、森の中にいる。
「ご覧の通りです」
アルメリアが俺の隣に立った。
彼女の鎧は朝より少し汚れていた。胸甲の三つ星のうち、一つの縁に、新しい煤の跡がついていた。
「貴方の見立て通り、東から本隊が来る」
俺は答えなかった。
答える資格があるとは、まだ思えなかった。
「明日、貴方に戦線を任せたい」
彼女は前を向いたまま言った。
「指揮を、です」
「俺は指揮官などでは、」
「貴方は卓を捌く者だ。それでいい。我らは卓のように整理される戦線を、まだ持ったことがない」
風が止んだ。森の梢がぴたりと動きを止めた。
彼女は短く息を吸った。
「明日の戦、貴方に預ける」
俺の口の中に、鉄のような味が残った。
答えが、出なかった。
答えの代わりに、俺は壁の縁の石を、片手で握っていた。石は冷たかった。冷たさが、手のひらから腕の骨を伝って、肩のあたりまで上がってきた。それは、これから自分が背負うことになるものの、最初の重さだった。




