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ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


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第二章 ファイア——その一声で、戦場が動いた

砦の中庭は、煙と血のにおいで満ちていた。

 煙は薪の煙ではなかった。もっと脂っこい、もっと重たい、肉の脂が燃える時の臭気だった。それが石壁に染み込み、俺の喉の奥にまで入ってきた。

 俺は石畳の上に立ち尽くしていた。

 手にはペン一本も握っていない。靴の底に、何か硬いものが当たっていた。視線を落とすと、それは矢の折れた残骸だった。鏃の表面に、まだ赤いものが付着していた。


 弓兵の隊長らしい男が、肩で息をしながら俺の前に駆け寄ってきた。

 兜の下の目が赤い。瞳孔が広がりすぎていて、それが恐怖の名残なのか、戦の高揚の名残なのか、俺には判別できなかった。

「あんたが、号令を出した方か」

 声が掠れていた。何度も叫んだあとの、声帯が荒れた音だった。


「なぜ、あの瞬間がわかった。我らの矢揃えのリズムまで」


 わからない。

 俺はただ、出すべきタイミングが見えただけだ。厨房の音が揃う瞬間、料理が同時に上がる呼吸。あれと同じだった。だが、その説明をこの男にしても通じないだろう。料理の話は、戦士の言葉ではない。


 答えを探していると、馬蹄の音が近づいた。

 地面の石が震えて、震えがそのまま俺の脛に伝わった。馬の鼻息と、革の鎧が擦れる音。それが先に来て、その後ろから本体が現れた。


 白い馬の上に、銀の鎧をまとった若い女が立っていた。

 黒に近い赤茶の髪を後ろで束ねている。胸甲には、三つの星の徽章があった。星の銀の縁は、煤を浴びて少しくすんでいた。

 目は、海の底のように静かだった。波がない。底の砂が見えるほどの透明さでもない。ただ、深いだけの目だった。


「貴方は何者だ」


 声は低くも甲高くもなく、ちょうど指揮を通すための声だった。命令に慣れた者の、最短距離で相手の鼓膜を打つ声。

 俺は答えに詰まった。

「……ホールスタッフ、です」


「ホール?」


「卓を、捌く仕事です」


 言ってから、自分の言葉のばかばかしさに、自分で頬が熱くなった。今この瞬間、戦場の中庭で、俺はホールスタッフを名乗っていた。


 彼女は二度瞬きをして、それから馬から降りた。

 甲冑の音が、想像していたより重くない。彼女の体重と、鎧の作りと、馬の高さがちょうど整っていた。

「アルメリア=ヴァール=エスティーニュ。北方辺境伯第三騎兵中隊長だ」

「荻原、廉、です」

「オギワラ=レン。覚えた」


 彼女はそう言うと、俺の足元の地面を見た。

 俺が無意識に、靴の先で煤の上に線を引いていた。三本。一本は弓兵の射点。一本は敵歩兵の進入角。一本は退避路。

 彼女の目が、わずかに細くなった。


「貴方は、ただのホールではない」


 いや、ただのホールです。

 そう言いかけて、俺は喉の奥で言葉を呑んだ。言ったところで、信じてもらえるとも思えなかった。それより前に、自分でその言葉に意味を持たせる地面を、俺はやはり持っていなかった。


 砦の中庭の隅で、誰かが水を運んでいた。

 怪我人の手当てが始まっている。革の手袋を外した手で、別の誰かの腕の血を拭っていた。痛みに耐えるための呻き声が、低く、長く続いている。それを聞きながら、俺はまだ自分が現実にいるのかどうか、確かめる手段を持たなかった。


 その夜、俺は砦の客室にあるベッドに座っていた。

 粗い毛布。獣脂の臭うろうそく。窓の外で時折、誰かの咳。湿った石壁の冷気が、足の裏から這い上がってくる。

 ここは、明らかに俺の知っている世界ではない。

 夢で説明がつかない、皮膚で感じる温度差がある。


 胸ポケットに手を入れた。

 業務日誌の代わりに、買い物のレシートと古いメモ用紙。コンビニで何を買ったかの記録、その横に古い病院の予約票。

 俺はメモ用紙の裏に、いつもの癖で書き始めた。

 ペンは、ロッカーから持ってきていた予備のボールペン。インクの出が悪い。


 ・砦の弓兵、二十四名。練度ばらつきあり。

 ・敵歩兵、装備は粗末だが規律は悪くない。

 ・指揮系統、上から下への伝達が二段抜け。

 ・厨房ではなく、ここは戦場だ。


 最後の一行を書いて、自分で笑った。

 誰が読むんだろう、これを。書きながら心のどこかで、誰かに見せたい気がした。あの白い馬の女、アルメリアと名乗った人に、見せたい気がした。それが何故なのかは、自分でもわからない。だが見せたいと思った瞬間、俺は自分が八年間で初めて、書いた文字に「見せる」という意志を込めたことに気づいた。


 扉が叩かれた。

 ノックは三回。間隔が、どこか律儀だった。

「明日の戦、貴方に預けたい」

 扉越しの声は、アルメリアだった。

 俺は返事ができないまま、メモを伏せた。彼女の足音が、廊下の石を踏みながら遠ざかっていく。一歩一歩の重みが、ここが現実であることを、もう一度俺に確認させた。

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