第一章 閉店後のホールに、世界は何も求めない
深夜零時を回ると、店内の音は二種類になる。
業務用エアコンの低い唸りと、自分の呼吸。
俺はそれをいつも、ピーク時間の喧噪の残響だと思いながら聞いている。客が引いたあとの空気には、まだ誰かの笑い声と皿のぶつかる音と、香ばしい油の匂いが薄く残っている。それが時間をかけて少しずつ消えていく過程を、俺は八年間、毎晩見送ってきた。
四人掛けの卓に向かって座る。
革の表紙の業務日誌を広げる。表紙の角は擦り切れて、内側の糸が一本だけ飛び出している。万年筆のキャップを外す。インクの色は紺。ペン先が紙に触れる音は、店内のどんな音よりも静かだ。
今日のミスを書き出す。
・五卓のドリンクを出すタイミングが遅れた。
・新人の椎葉に教えた下げ皿の動線が逆だった。
・八卓の常連客にお冷やを継ぎ忘れた。
書き終えると、頭の中で今日の流れを最初から回す。
厨房側からの「ファイア」の声。それを受けてホールが動く呼吸。誰が空のグラスを抱え、誰が新しい皿を運び、誰が伝票を回したか。俺の目の中では、卓と人が今でもまだ動いている。動き続けている。それを止めて文字に押し込む作業が、俺にとっての一日の終わりだった。
最後にいつもの一文を書いた。
「ファイアは早すぎても遅すぎても料理を殺す」
もう何年同じ言葉を書いているか、自分でも数えていない。
書く意味があるとも思わない。ただ、書かないと一日が終わらない。それだけだ。
背後で乾いた笑い声がした。
「まだそれ書いてんのか、荻原。八年目でしょ?」
副店長の鴻巣だった。両手をスラックスのポケットに突っ込んで、首を斜めに傾けている。彼のスラックスは折り目がきっちり立っていた。だが俺の目は、その折り目より下に行った。靴。彼はもう長いこと、自分の靴を磨くという基本を捨てていた。爪先のあたりに、何かを擦った白い跡がついている。
俺は曖昧に笑い返した。それが俺のやり方だった。
「現場ノートなんて誰が読むんだよ。配膳ロボが入ったら、お前のメモなんて全部紙くずだぞ」
鴻巣は俺の机の脇に立ったまま、ノートの一行を覗き込んだ。
「ファイアは何とかかんとかが料理を殺す? 詩でも書いてんの?」
彼は喉の奥で笑った。笑いというより、息が短く詰まる音だった。
「俺はね、もう本社推薦取れたから。お前みたいに現場で擦り切れる人生、ご苦労さんって感じだわ」
俺はペン先を紙から離して、キャップを閉めた。
反論しても、面倒事が増えるだけだ。それは八年かけて学んだ唯一の処世術だった。腹の底で何かが鈍く動いているのは知っている。それを言葉に変える練習を、俺はもう長い間していなかった。
鴻巣は自分の机に戻った。
彼の机の上には、本社研修のパンフレットが何冊か立てかけてある。表紙のキャッチコピーが、廊下からの白い蛍光灯の下で、安っぽく光っていた。
厨房から椎葉が顔を出した。
二十二歳、入って三ヶ月の後輩だ。エプロンの結び目が、いつも少し左にずれている。彼女は人と話すとき、頬が一瞬だけ赤くなる癖があった。何を言われても、何を言うのでも、まずそこに血が昇る。
「お疲れ様です、先輩」
声は控えめだったが、ちゃんと俺の名前のあたりに届いた。
「あの、今日のドリンク出しのタイミング、すごく勉強になりました。五卓のお客さん、お酒のあと一回ぬるい紅茶って言ってたのに、先輩、ぜんぜん違う温度のお茶を持っていったでしょう。あれ、あの方が、本当に欲しがっていたものでしたよね」
俺はペンを置いた。
「気がついた?」
「はい。なんとなく。あ、いえ、はっきりと」
彼女は自分で自分の言葉を訂正して、頬の赤みを濃くした。
彼女は鴻巣に聞こえないよう、声をひとつ落とした。
「副店長、いつも先輩のこと言うけど。私、先輩のホールが一番好きです」
好き、という言葉が空気の中に放り出された。
その言葉を受け止めるための地面を、俺は心の中に持っていなかった。八年かけて、そういう地面を、俺は自分で削ってしまっていた。
だから俺は、いつもの曖昧な笑顔で頷いた。
「ありがとう、椎葉さん」
言葉だけは出した。だが目は業務日誌の表紙に戻ってしまった。
彼女は何か言いかけて、それから「お先に失礼します」と頭を下げて、奥へ消えた。
彼女が去った後、空気の中に、彼女の言葉だけが残っていた。
帰り際、ロッカーで制服を脱ぐ。
Yシャツの胸のあたりに、いつのまにか小さなソースの染みがついていた。涼香が明日の洗濯前に気づくだろうか。気づいたら、何と言うだろうか。
スマホを開くと、妻からのメッセージが入っていた。
《今日も帰り遅いね。湊、またお父さんの帰り待たずに寝ちゃった》
四歳の娘の寝顔の写真。
頬に小さな赤みがあって、唇が少しだけ開いている。両手は布団の外に出ていて、片方の手は枕の縁を握っていた。寝ている間も、何かを掴んでいたい、そういう手の形だった。
俺はその写真を長く眺めた。それから画面を消した。画面の中の娘の顔が黒くなる瞬間に、いつも胸の真ん中が小さく鳴る。
店の裏口を出ると、いつもの細い路地がある。
二月の空気が、肺に入る前に鼻の奥を刺した。湿った冷気の中に、すぐ隣のラーメン屋の油の匂いと、もう一段奥の喫煙所のフィルターの匂いが混じっている。地面のアスファルトが、街灯の光を受けて、わずかに濡れて見えた。
路地の終わりで、街灯のひとつが、ジ、と音を立てて切れた。
光が一つ消えると、闇の境目が、別の場所に引き直された。
その瞬間だった。
地面が抜けた。
いや、地面はあった。俺の足の下から、世界の下が抜けた、という言い方が一番近い。
光が頭上から降ってきた。降る、ではなく、押し寄せた。耳の奥で誰かが小さく鐘を鳴らしている。それが鐘ではなく自分の血の音だと気づくまでに、少し時間がかかった。
遠くで誰かが何かを叫んでいる。
日本語ではない。けれども意味だけが滑り込んできた。
「援軍だ! 砦の中央から、援軍が!」
目を開けた。
石壁が燃えていた。
兵士らしい人影が、崩れた壁の向こうから走ってくる。甲冑が、明らかに現代日本のものではない。鉄の擦れる音、何かが弾ける音、そして人の喉から押し出される短い悲鳴。
俺は反射的に状況を読んだ。
弓兵が左の櫓に集まっている。タイミングが合っていない。何かが抜けている。何が抜けているのか、考える前に、口が勝手に動いた。
「ファイア!」
声は、自分でも驚くほど通った。
左の櫓で、弓兵たちの背が一斉に緊張した。
次の瞬間。
矢の雨が、敵の隊列のど真ん中に落ちた。




