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ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


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第二十三章 卓を畳む夜

最後の夜は、辺境伯領の長卓だった。


 城の半分はまだ焦げていた。煤の臭いが、夜風に混じって、時折ふっと鼻をかすめた。

 でも長卓だけは、誰かが綺麗に拭いて灯りも整えていた。卓の上に並べられたろうそくは、全部で十二本。蜜蝋のろうそくだった。煙が立たず、燃え尽きるまで時間がかかる。それを使ったのは、誰かの礼儀だった。


 卓を囲んだのは、クラドック卿、ロロト師、辺境伯領を預かる若い代行、各地のギルドの代表、そしてアルメリア。

 アルメリアは亜麻の長衣を着ていた。鎧ではなかった。彼女の首の細い線が、襟元から覗いていた。鎧を着ていない時の彼女は、思っていたよりずっと若く見えた。二十一歳だ、と俺は改めて思い出した。


 料理は地元の素人がありあわせで作ったものだった。

 火の通り過ぎた肉。塩の効きすぎたスープ。パンは硬く、チーズは乾いていた。

 でも誰も味の文句を言わなかった。誰も言葉で褒めなかった。けれども誰もが、卓を取り囲んでいるだけで、十分に満ちている顔をしていた。それは料理の味の問題ではなかった。卓があり、椅子があり、向かいに人がいる。それだけで満ちる種類の夜だった。


 俺は自然に立ち上がっていた。

 誰のグラスが空になりかけているか、誰の前の皿が下げ時か、勝手に身体が動いていた。木の柄の水差しを持って、グラスを順番に満たしていく。クラドック卿のグラスは半分。ロロト師のは三分の一。冒険者ギルドの代表のは、ほとんど空。それぞれの飲む速度が、すでに俺の頭に入っていた。

 誰も止めなかった。これが俺の祝祭の形だと、皆が知っていた。

 俺の動きを見ながら、辺境伯領の若い代行が、隣の冒険者ギルドの代表に小さな声で言った。

「『卓を捌く』というのは、ああいうことか」

「ああ。あれが本物だ」

 冒険者の髭の中で、笑いが転がった。


 最後のグラスを満たし終えて、俺は自分の席に戻った。

 卓の正面にアルメリアがいた。彼女の頬にはまだ、戦の傷の痕があった。額の生え際から頬骨にかけて、細い、白い線が一本。傷の縁の血色が引いて、もう跡だけになっていた。

 でも目は、海の底のように静かだった。


 夜の更けた頃、俺と彼女は城の中庭に出た。

 星が近かった。冬の夜気は、肌の表面を一段、引き締めた。息を吐くと、白い息が、自分の顔の輪郭を一瞬だけ縁取って、消えた。

 夜は長くなかった。明け方まで、たぶん、四時間。


「明日の夜明けに、岩戸が開きます」

「ええ」

「貴方は、帰るのですね」

「帰ります」


 彼女はしばらく星を見ていた。星のひとつに、彼女の視線が止まった。それは特定の星に向けたというより、星の数の中に視線を埋めている、そういう止まり方だった。

 それから声の高さを、ほんの少しだけ下げた。

「貴方の世界に行きたいとは、言わない」

「はい」

「貴方が帰る世界が、貴方を待っている世界であってほしい」


 俺は内ポケットから、煤けたメモの紙を取り出した。

 メモはもう、最後の一行を書ける紙が残っていなかった。けれども裏面は、まだ少し白い。

 最後に余った白い裏面に、俺は震える手で書いた。震えはもう、八年前のあの夜の震えに似ていた。嬉しさと怖さが混じった震え。


 アルメリアへ。ありがとうございました。


 それを彼女に両手で渡した。

 ホールが最後のお会計のレシートを渡す時の、丁寧な角度で。両手で持って、相手の手の高さに合わせて、それから少しだけ前に押し出す。受け取りやすい位置に、止める。


「これは」

「俺の世界では、お客さまをお見送りする時の、一番深い言葉です」

「『ありがとうございました』」

「ええ」


 彼女はメモを胸の前で長く握っていた。握りしめてから深く息を吸って、ゆっくり吐いた。彼女の白い息が、夜気の中で、ろうそくの煙のように細く伸びた。

「私の家族は、五年前の侵攻で死んだ」

「はい」

「貴方は、誰の家族ももう殺さなかった」

「殺さなくて済む卓に、出会えただけです」

「貴方が卓を見ていたから、出会えた」


 彼女はメモを胸甲の内側に仕舞った。今夜は鎧を着ていない、けれども、彼女の心の中の鎧の内側に。

 仕舞う場所は、三つ星の紋章のちょうど、心臓の上の位置だった。


 俺はもうひとつ、内ポケットに手を入れた。

 布で包んだ、銀の小さな円盤を取り出した。三つ星の紋章。彼女の父が、宿に来たあの夜に、俺に預けたもの。

「これは、お父様から預かりました」

 彼女はそれを見て、長く息を吸った。それから、ゆっくり吐いた。

「父の」

「ええ。お母様の徽章だと、伺いました」

「私は、これを最後に見たのは、十五の時だった」


 彼女は両手で、その銀の円盤を受け取った。受け取る手に、ほんのわずかな震えがあった。震えに気づいた瞬間、彼女は左の手で右の手の甲を覆って、震えを止めた。それは、誰の前でも泣かなかった人間が、泣かないために身につけた仕草だった。


「父は、なぜこれを、貴方に」

「卓を見てもらえないか、と」

「卓を」

「この徽章は、ご家族の卓の代わりだったのだと思います。お母様の卓、二人の弟さんの卓、貴方の卓、そして妹さんの卓。お父様は、その全部の卓を、最後にひとりで見ていらした」


 彼女はしばらく、円盤を胸の前で握りしめていた。握りしめた指の関節が白くなった。それから、ゆっくりと、円盤を開いた手のひらの上に乗せた。

「これは、私が持つべきものではない。妹のものだ」

「妹さんに、お渡しください」

「ありがとう」


 夜が明け始めていた。

 地平線の端に、薄い、青より白に近い色が広がっていた。

 風の中に、麦の匂いが戻ってきていた。冬の麦は、根しか持たない。けれどもその根の匂いが、今朝はいつもより強く感じられた。

 俺たちは何も言わずに、東の空が薄く色づくのを見ていた。


 岩戸の前まで、彼女が俺を案内した。

 岩戸はただの大きな石だった。けれども石の表面に、複雑な紋様が薄く刻まれていた。ロロト師が見せてくれた羊皮紙の紋様と、同じ模様。

「ロロト師は」

「先ほど別れの挨拶を済ませた」

 彼女が答えた。

「彼は、貴方が振り向かないことを知っている。だから来なかった」

「すみません」

「謝らなくていい。彼もそれを望んだ」


 石の前で、俺は立ち止まった。胸の中で、何か熱いものが、ひと回りした。

 俺は彼女の方を、振り返らなかった。振り返ると、岩戸が閉じてしまうかもしれない、というような迷信めいた感覚があった。けれどもそれより、振り返って彼女の顔を見たら、俺はたぶん、もう動けなくなる。それを、自分でも知っていた。


「アルメリア」

「うむ」

「妹さんは」

「無事だ。昨日、保護した」

「よかった」

「ありがとう」


 その「ありがとう」は、彼女から俺への、本日二度目の感謝だった。一度目は、戦が終わった夜、彼女が病床で目を覚ました直後に、俺の手を握って言った言葉だった。あの時の彼女は、声が出なかった。代わりに、唇だけがその言葉の形を作った。今朝の彼女の声は、しっかりしていた。声の中に、五年分のものを、ようやく置く場所を見つけた女の落ち着きがあった。


 俺は岩戸に手を当てた。岩は冷たかった。冷たさが手のひらから腕の骨を通って、肩のあたりまで上がってきた。

 石の表面の紋様が、ゆっくりと光り始めた。光は青に近い白だった。

 俺はその光に向かって、最後の一言を、ホールの作法で告げた。


「ありがとうございました」


 光が、強くなった。

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