第二十二章 ファイア
魔王本陣は戦場の北端、岩山の頂にあった。
風が麦の匂いを運ばなくなる場所、最後の境界。
俺は護衛なしで、徒歩で登った。靴の底に、岩の角が当たるたびに、足の裏の特定の一点が痛んだ。靴は店から履いてきた革靴のまま。底のすり減り方の癖まで、八年分のままだった。
岩の中腹から先は、植物が消えた。
枯れ草も、苔も、何もない。岩肌だけが続く。冬の風が、岩の表面の上を低く滑っていく音が、ひゅう、と長く伸びる。耳の奥に、その音が刻まれていく。
半時間ほど登ると、岩山の頂が見えてきた。
山頂の玉座には、銀髪の長身の男が座っていた。
褐色の肌。眼は夜の海の色。
魔王アズリエル。
彼は俺を見ると、ふっと笑った。
その笑いには、敵対の色がなかった。むしろ、長く待っていた者を迎える時の、疲労混じりの安堵があった。
「ホールスタッフが、来たか」
「失礼します」
俺は頭を下げた。
ホールが客の卓に近づく時の、いつもの角度で。
「武器は」
「持っていません」
「何を持っている」
「メモ帳と、鉛筆を一本」
彼はもう一度、ふっと笑った。今度は声が漏れた。低い、湿った笑い。
その笑いは、彼の世界の長い時間を凝縮した音だった。
「世界を畳むつもりですね」
俺はまっすぐ訊いた。
「料理が焦げ始めたから」
アズリエルはしばらく俺を見ていた。彼の瞳孔は人間のそれと同じ形だったが、奥の暗さが違った。普通の人間の瞳孔は、奥に脳が映る。彼の瞳孔は、奥に夜が映っていた。
それから玉座の肘掛けを、指でひとつ叩いた。指の音は、思っていたより軽かった。
「お前は、どこでそれを知った」
「俺の世界では、ファイアの号令が早すぎても遅すぎても料理が殺されると言うんです。あなたの世界は火を入れすぎたのだと思いました」
「お前の世界は、どうなのだ」
「焦げかけです、たぶん」
「ふむ」
「でも料理を殺さない出し方があります。コースを最後まで出して、客に水を一杯添えて見送るやり方が」
俺は内ポケットから、煤けたメモの一行を取り出した。
そしてそれを、玉座の足元にそっと置いた。ホールが客の前に、最後の小皿を置く時の丁寧な動きで。
メモの紙が、玉座の足元の磨かれた黒い石の上で、白く浮き上がった。
アズリエルは、その紙を見下ろした。
長い間、彼は何も言わなかった。風の音だけが、岩山の頂を渡っていく。
やがて彼は、片膝の上に、片手を置いた。それは王の姿勢ではなく、ひとりの男の姿勢だった。
「あなたが世界を畳みたいのは、わかります。でも燃やさないで畳む方法を、俺は提案できます」
「お前に、何ができる」
「俺はホールスタッフです。コースを最後まで、お客さまに気持ちよく出すのが仕事です」
アズリエルは長い沈黙のあとに、静かに息を吐いた。息は夜の海に潜るような、深い音だった。海の底で岩が動く時の、低い、長い音。
「お前は、剣を抜かないのか」
「俺、剣の持ち方を知らないんです」
「魔法も、使えないのか」
「ファイア、しか言えません」
彼は声を上げて笑った。大きな笑い声ではなかった。けれども岩山の風が、その笑いに合わせて向きを変えた。風の中の小さな砂粒が、ぱらぱらと玉座の足元に落ちた。
「では、お前のファイアを聞かせてくれ」
彼は目を細めた。
「最後の号令を、お前に預ける」
俺は頷いた。
ロロト師から預かった銀の鈴を、左の掌に握った。冷たい銀の感触が、手のひらの中心で、ひと呼吸ごとに温まっていった。
ディシャップ卓の通信魔法に、息を吸って口を寄せた。
遠く平野の真ん中で、十二人の伝令と無数の兵が息を止めて待っているのが、わかった。彼らの呼吸が俺の呼吸と揃っていた。三秒、五秒、八秒。
俺はただ一言。
「ファイア」
平野が動いた。
冒険者ギルドが、敵第二軍の退路の右に展開した。アミューズの一皿が、客の右側にそっと置かれる動きで。
辺境伯軍が左に展開した。前菜の二皿が、客の左側に並べられる動きで。
王国正規軍は攻撃をやめて、退路の中央を空けた。主菜の皿を、客のちょうど真ん中ではなく、右斜め上に置く時の動きで。
教会の聖騎士団が、退路の出口に白い旗を掲げた。デセールの最後の一皿に、白いナプキンを添える動きで。
敵第二軍は止まった。
戦闘ではなく、退路の提示だった。誰一人、新しい一矢を放たないまま、敵の隊列はゆっくりと後ろに下がった。
退路の中央に、敵の指揮官らしい男が立った。彼は黒い甲冑を着ていた。彼は俺たちの陣に向かって、剣を一度だけ掲げた。それから剣を地面に置き、踵を返した。
彼の後ろに続く兵たちが、一人、また一人と、剣を地面に置いて、退却の隊列に加わった。地面に置かれた剣の数が、千を超え、二千を超え、五千を超えた頃には、もう数えるのをやめた。
戦が終わった。
最後の号令が、最後の一皿を、ちょうどいい時間で出した。
左の掌の中で、銀の鈴が、ちりんと鳴った。鈴は俺の声を覚えていた。俺の「ファイア」を、ちゃんと魔力に翻訳していた。
アズリエルは玉座から立ち上がった。立ち上がる時、彼の長身が、岩山の風の中で、思いのほか軽そうに揺れた。
「お前の名を、聞かせてもらおう」
「荻原廉。荻原は『荻』に『原』、廉は『廉価』の『廉』です」
「オギワラ=レン。覚えた」
彼は俺の前まで歩いてきた。歩幅は人間のものだった。
「世界を畳むのを、やめておく。お前のような者がいるなら、まだ作り直す前に、出し直せる料理があるのかもしれない」
「ありがとうございます」
「お前を帰す門は、私が管理している。明日の夜明け、北の岩戸を開く」
俺は頭を下げた。
ホールが客を見送る時の、長く深い角度で。深く下げた頭の角度の中で、岩肌に映る自分の影が、八年前の自分のそれより、ほんの少しだけ大きく見えた。
山を下りる時、岩山の中腹で見覚えのある男に出会った。
磨かれていない靴の、上着の襟が緩んだ男。
鴻巣慎吾。
彼は両側を見限った魔王軍兵に、無造作に取り囲まれていた。取り囲まれていた、というより、彼自身がそこから動こうとしていなかった。動く先を、もう持っていなかったのだ。
「荻原。助けてくれ」
彼は笑顔のまま、声だけが震えていた。彼の笑顔の作り方は、店で副店長だった頃と同じ角度だった。けれども声が震えている分、笑顔が滑稽になっていた。
「俺たち、同じ世界の出身じゃないか」
俺は彼の前で足を止めた。
言葉は出さなかった。ただ彼の靴を見た。磨かれていない靴は、どこの世界でも同じだ。
俺は、彼の靴の表面に薄く積もった半年分の埃の層を、ホールの目で見た。お客さまにお出しすることのできない種類の靴だった。客の前に出る前に、ホールの誰かが「鴻巣副店長、靴」と声をかけて、磨いてもらう必要のある靴だった。八年間、誰も彼にそう声をかけなかった。それは彼の問題でもあり、彼の周囲の問題でもあった。
俺は何も言わずに、彼の横を通り過ぎた。
彼の背後でアルメリアが——ようやく目を覚まし、馬で岩山まで来ていた彼女が——黙って踵を返した。馬の鬣が夕陽に、ほんの少し震えた。
彼女は岩肌に立ったまま、何も言わなかった。彼女の沈黙は、鴻巣に向けたものではなかった。彼女の沈黙は、彼女自身が五年前に失った家族の数の重さと釣り合っていた。それを今夜、誰のためでもなく、彼女自身のために、そこに置いた。
風が向きを変えた。
岩山の頂から、麦の匂いが、ふっと戻ってきた。




