第二十一章 真実を掘り当てる
俺は内ポケットから、煤けたメモを取り出した。
たった一行。煤の汚れが指先に移った。指先に黒いものが付くたびに、俺はその汚れを、メモの主の重みのように感じていた。
ファイアは早すぎても遅すぎても料理を殺す。
その一行を卓の上に平らに置いた。全員がそれを見た。風で飛ばないように、駒で四つの角を押さえた。
卓の上の戦況の真ん中に、紙きれが一枚。それは異物だった。だが異物が、戦況の真ん中に置かれた瞬間、戦況の方がほんの少しだけ姿勢を変えた。
「魔王アズリエルは、世界を破壊しようとしているのではないと思います」
俺は低い声で言った。声は喉の奥で一度引っかかった。それでも続けた。
「彼は世界を、畳もうとしている」
ロロト師が目を細めた。皺が頬の上で深くなった。
「畳む、とは」
「料理が焦げ始めた時、料理人は皿を捨てます。捨てて、新しく作り直すために。彼は世界を捨てて、作り直そうとしている」
「なぜ、そう思う」
「彼の戦線運びが、殺すための運びではないからです」
俺は卓の駒を静かに動かした。動かす指の関節が、僅かに鳴った。
「敵はこちらの主力を徹底的に殲滅する機会を、もう三回見送っている。三回です。誰かを殺すための戦なら、見送れない場面でした」
冒険者ギルドの代表が、髭の中で唸った。
「言われてみれば、そうだ。我らの斥候も、敵の動きの中途半端さに気づいていた」
「中途半端ではなく、止めるための動きだったんです」
俺は言った。
「皿を全部使い切って料理を作り直すのではなく、焦げかけの皿だけを下げて、作り直そうとしている」
「では、軍師殿はどうする」
クラドック卿の声だった。
「料理を殺さない出し方を、提案します」
俺は卓の上の地図に新しい線を引いた。指の先で、煤の上に線が描かれた。一本目、退路の左。二本目、退路の右。三本目、退路の中央——空けた線だった。
「主力を分散します。敵第二軍に対して攻撃を仕掛けない。代わりに退路を空けます。敵が退ける道を、こちらから提示します」
「降伏勧告とは違うのか」
「違います。敵に勝負を中断する『卓の畳み方』を提示します。料理を殺す前に、コースを終える方法です」
「アズリエルは、それに乗るか?」
「乗ると思います。彼は世界を畳みたいのです。畳む方法は燃やすだけではないと気づけば、たぶん」
ロロト師は長く目を閉じた。閉じた瞼の上に、皺がいくつも畳まれた。瞼を開いた時、その皺の数が一本減ったように見えた。
それから皺だらけの掌を、卓の上に置いた。掌の上で、僅かな埃が舞った。
「貴方を信じる。我々は、貴方の卓に乗る」
俺はその手の上に、自分の手を置こうとして止めた。代わりに卓の中央に、白い駒を一つ置いた。
「俺が魔王本陣に行きます」
「単独でか」
「ええ。ディシャップは卓を離れない方が原則ですが、今回だけは離れます」
「危険だ」
クラドック卿が言った。
「貴公が魔王本陣に入って、生きて帰る保証はない」
「保証はいりません」
俺は言った。
「ホールが、客の卓に近づく時、保証なんてありません。客が機嫌を損ねるかもしれない、客が文句を言うかもしれない、客が手を上げるかもしれない。それでも近づきます。注文を取るのが、ホールの仕事だから」
会議室がしんとした。誰も笑わなかった。
冒険者ギルドの髭の代表が、不意に言った。
「軍師殿。我らの中で、最も腕の立つ者を、護衛にお付けしましょう」
「いりません」
「しかし」
「ありがとうございます。でも、この卓は、ひとりで近づくのが筋です」
彼は何度か頷いた。納得したからではなく、納得した形を、自分の身体に通したからだった。
俺は会議室を出た。
廊下の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。冬の夕暮れは、早い。光の色は、橙ではなく、灰色がかった青だった。
階段の踊り場で、ロロト師が後ろから追ってきた。
「これを」
彼が差し出したのは、薄い銀の鈴だった。鈴は手の中で鳴らない。鳴らすにはちょっとした魔力がいる、と老人は言った。
「魔王本陣に着いて、貴方が無事だと知らせたい時に、これを鳴らしなさい」
「俺には魔力がありません」
「貴方の声が、その鈴の魔力です。『ファイア』と一言、口にすれば鳴る」
俺は鈴を受け取った。指先に、銀の冷たさが伝わった。
階段を降りる足音が、自分の耳に普段より大きく聞こえた。歩くたびに、左の脛のあたりで、何かが小さく揺れていた。それは内ポケットの煤けたメモだった。
階段の途中で、俺は一度立ち止まった。
窓の外、王宮の中庭で、誰かが井戸の縁に座っていた。後ろ姿だけ見ると、アルメリアに似ていた。けれども違う。彼女はまだ呪詛から目を覚ましていない。中庭にいるのは、彼女付きの若い侍女だった。アルメリアの愛馬を引いて、井戸の前で水を飲ませているところだった。
俺は窓を開けなかった。侍女もこちらを見上げなかった。
ただ、彼女は井戸の縁で、片手を石の上に置いていた。石を撫でる動作だった。撫でる手の動きは、俺がノートにペン先を走らせる時の、ゆっくりした手の動きに、よく似ていた。仕える主が眠ったままの女が、その主の代わりに何かを石に伝えるような、そういう手の動きだった。
俺はその手の動きを、しばらく見ていた。それから、階段を降りた。
階段を降り切る時、俺は内ポケットの中の二つのものを、左の手のひらで一度確かめた。煤けたメモ。そして辺境伯から預かった銀の徽章。二つとも、ちゃんとそこにあった。




