第二十章 調子に乗った俺たち
卓の上の駒が、急に重くなった。
駒の重さが変わったわけではない。木の駒は最初から軽い。けれども卓の上で、それが意味するものの重さが、十倍、百倍に増えていた。
厨房ならこういう時にこそ、出さない皿が出てくる時がある。
予約客が増えて、皿の段取りが完璧に進みすぎている時。厨房の調子が良すぎる時に限って、なぜか客が一気にラストオーダーを入れてくる。順調すぎるコースは、客が満足する前に終わってしまう。
あれは、八年目の四月の夜だった。連休の真ん中、店は満席で、しかも全卓がコース予約。厨房は朝から仕込みを完璧に終えていて、ホールも俺と椎葉とアルバイト二人で、最高の編成だった。すべてが順調だった。順調すぎた。
その夜、二十六卓のうち十四卓が、同時に「もう少し早めに最後のデセールを」と注文した。理由は分からない。今でも分からない。だが客の集合の意志のようなものが、突然、急ぐ方向に揃ったのだ。あの夜、俺たちは初めて、デセールを諦めた卓を、三卓出した。料理人の福井さんが厨房から出てきて、頭を下げて回った。あれは、八年間で唯一の屈辱だった。
俺はその違和感を、ようやく言葉にした。
魔王アズリエルは誘っている。順調に押し勝たせて、こちらの主力を平野の中央に固めさせて、そこへ地の底から本命の一手を刺そうとしている。
あの夜の十四卓の同時注文と、目の前の戦況が、頭の中で重なった。順調すぎる時こそ、警戒する。それは八年目の四月以降、俺の身体に染み込んだ、たったひとつの本物の知恵だった。
「全軍、主菜を停止」
俺は卓の上に手を置いた。手のひらに伝わる木の震えが、小さくなった。手のひらの体温が、卓の木に移っていく感覚があった。
「クラドック卿に伝令。突撃を一段階だけ後退」
「後退、ですか?」
伝令の声が、初めて疑問の色を含んだ。彼は俺の判断を信じている。けれども「後退」という言葉だけは、彼の身体に馴染まなかった。それは戦士の言葉ではないからだ。
「下げ皿の段取りに似ています。出しすぎた皿を一旦下げる」
俺は説明を加えた。
「客がもう食べきれないと顔をした時、無理に食べさせない。下げて、次の出し時間を見る。それと同じです」
「分かりました。クラドック卿に、必ず伝えます」
彼は走った。
平野の真ん中で、味方の前進が、一瞬だけ止まった。
馬の蹄の音が、千頭分の数のまま、ぴたりと止まった。それは指揮系統の正確さの音だった。八年間、俺は店で何度もこの種類の音を聞いてきた。新人にラストオーダーの号令を出した瞬間、ホール全体が次の動きに切り替わる、あの音。
あの音が、戦場に重なった。瞬間の静けさ。すべての動きが一度ゼロに収束する、あの息遣い。
千頭分の馬の沈黙の中で、ただ一頭、誰かの馬がぶるりと首を振った。その音が、千頭の沈黙の中で、奇妙に大きく聞こえた。
その瞬間、地が裂けた。
味方の主力が「ちょうどいた」はずの場所が、まっすぐ陥没した。
俺は卓の上の地図を見た。地図の上の白い駒たちは、まだ動かない。けれども実際の戦場では、もしクラドック卿の突撃を停止させていなかったら、あの陥没の中に、十六個の白い駒が一度に落ちていた。
駒だったら、十六の白駒が一度に消えた。でも駒ではない。止めなければ、ここに居たはずだった人々が生き残った。
その「人々」の数を、俺は頭の中で具体的にした。十六個の駒は、おそらく一個あたり数百人の集団。掛け算すると、数千人。数千人が、今夜、家に帰る。妻と娘の元に、夫と父親の元に、帰る。その数千人の家のひとつひとつに、空っぽの玄関ができなかった。
陥没の縁から、黒い影がいくつも立ち上がった。それは人型でもあり、獣型でもあった。境界が曖昧な、何かの集合体。影の表面の質感は、夜の海の波の表面に似ていた。
「軍師殿!」
伝令が叫んだ。
「敵第二軍、地表に出現! 数、二万!」
二万。
味方主力のほぼ倍だった。ディシャップ卓の周りで、誰かが息を呑んだ。誰かが、低く呻いた。それは恐怖の呻きであり、計算の呻きでもあった。
二万という数字が、卓の上の空気の中に、文字通り重みを置いた。卓の脚が、その重みでわずかに沈んだ気がした。
俺は卓の上で両手を組んだ。厨房の朝、混乱しそうな日のミーティングで、俺がいつもやっていた癖。組んだ両手の親指を、軽く当てる。それから息を長く吐いた。三秒、五秒、八秒。
吐く息の中に、八年分の、自分の言葉にならなかったすべての夜が混じっていた。地下倉庫で泣いた夜。湊の「おいしいね」を流した夜。椎葉の「先輩のホールが一番好き」を受け取らなかった夜。それら全部の夜の息が、今夜、ひとつの長い吐息になって、口から出ていった。
「皆さん」
俺はディシャップ卓の伝令たちに向き直った。十二人が、同時に俺の方を見た。十二の視線が、俺の身体の中心に集まる感覚があった。
「ここから、コースを組み直します」
言ってから、俺は自分の声に、震えがないことに気づいた。
八年前の俺なら、震えていた。三年前の俺でも、震えていた。今夜の俺は、震えていなかった。それは強がりでもなければ、訓練の成果でもなかった。それは、自分の卓を信じる、という単純で、しかし長い時間がかかる種類の確信だった。
卓の縁で、ロロト師が静かに立っていた。
彼はずっと俺の側にいた。彼はひと言も言わなかった。だが彼の沈黙は、十二人の伝令の旗の重さを、俺の代わりに支えていた。
俺は彼の方を見なかった。見る必要がなかった。彼の沈黙の重みは、見なくても、卓の上の空気の中に、ちゃんと感じられた。




