第十九章 アミューズ・前菜・主菜
最終決戦の朝が来た。
戦場は王都北方の広い平野。
風が麦の刈り跡を撫でていた。空は晴れていた。日本の夏の終わりに似た、薄い青。雲はなかった。冬の朝の空気は、肺の中で軽く凍る感覚があった。吸うたびに歯の裏が冷えた。
吐く息は白い。けれども普段の白さより、少しだけ薄かった。緊張が、肺の中の水分を奪っていた。俺はその違いを、自分の身体の中で測っていた。八年間、毎朝の出勤前に、自分の呼吸の白さを見ながら歩いていた。あの癖が、こんな日にも生きていた。
俺は戦場の中央の高台に、ディシャップ卓を組んだ。
卓は本物の卓だった。厨房用の大きな作業台を、わざわざ運ばせた。木の天板は使い込まれていて、表面に細かな包丁傷が無数についていた。その傷の一本一本が、誰かの仕事の痕跡だった。
俺は天板の縁を、手のひらで一度撫でた。木の繊維が指の腹に引っかかる。何百回も洗剤で洗われて、色の抜けた木目。その手触りが、店の厨房の作業台と寸分違わなかった。違う世界の、違う木で作られた卓のはずだった。けれども職人の仕事の痕跡は、世界を超えて、同じ手触りを持っていた。
その上に地図と駒と、十二人の伝令が立っている。十二人の伝令は、揃いの灰色の外套を羽織っていた。それぞれの胸に、所属の徽章。誰一人として表情を緩めていなかった。
十二人を、俺は順に見回した。一番左の若い男は、十六歳に見えた。右端の年配の男は、四十を過ぎていた。年齢の幅が、ホールの新人歓迎会の集合写真くらいあった。その全員が、今夜の俺の言葉を、戦線まで運ぶ役を担っていた。
厨房とまったく同じ景色だった。
違うのは、卓の上に料理がないというだけだ。代わりに戦線がある。卓の上の地図の縁に、俺は小さな目印を四つ置いた。アミューズ、前菜、主菜、デセール。それぞれに白い駒を割り当てる。
駒を置く指先に、わずかな震えがあった。震えに気づいた瞬間、俺はその震えを、自分の中で受け入れた。八年前の俺なら、震えを隠そうとした。今朝の俺は、震える手で駒を置いた。震えた手で置かれた駒は、まっすぐ立った。
「アミューズ、出します」
俺は最初の伝令に、白い駒を渡した。
「冒険者ギルド連合、東部丘陵から鬨の声を上げてください。突撃しなくていいです。声だけです」
「は、はい!」
伝令は走り去った。彼の外套の裾が、走り去る瞬間、灰色の旗のように風に翻った。
走り去る後ろ姿を見ながら、俺はその伝令の名前を、ふと尋ねたくなった。けれども尋ねなかった。名前を知ってしまうと、たぶん、戻ってこなかった時に、その名前が長く残る。八年間、店で何百人もの新人と別れてきた経験が、俺にそれを学ばせていた。今だけは、名前は知らないままでいい。
「前菜、出します」
次の伝令。年配の男だった。彼は俺の前に立つと、わずかに頭を下げた。礼儀正しい角度だった。
「辺境伯軍、北方街道から側面突破。主力は前ではなく、左翼を突いてください」
「畏まりました」
彼は短く答えた。短い答えの中に、長い経験が詰まっていた。彼が走り去ると、地面の踏まれ方が、若い伝令とは違う音を立てた。重さの分布が、踵と爪先で均等に乗っている、年配者の歩き方だった。
遠くで味方の角笛が鳴った。次に別の角笛。
俺はそのリズムを目を閉じて聞いた。一拍目、二拍目、三拍目。それぞれの間隔が、ちょうど厨房から皿が上がる時の合図と同じだった。違うのは、皿の代わりに人が動いていることだ。人は皿よりずっと重い。だが扱う原理は変わらない。
目を閉じている間、俺の耳は、戦場全体を一枚の地図のように受け取っていた。東の鬨の声。西からの蹄の音。中央のクラドック卿の正規軍が、まだ動いていない静けさ。三つの音の質量が、頭の中の地図の上に、重さの異なる三点として配置されていく。
ホールでも、毎晩こうしていた。客の声、グラスの音、厨房からの呼び声。三十人の客の総量を、耳で測りながら、次の一手を決めていた。
「主菜、ファイア」
三人目の伝令。
「クラドック卿、王国正規軍、正面突撃。号令を頼みます」
白髭の老騎士がはるか平野の遠くで、剣を抜いたらしかった。
ここからは見えない。でも空気が、わずかに重さを変えた。風の中に、鉄の擦れる音が混じった。一頭の馬の蹄が、二頭分の足音に化け、四頭分になり、百頭分になり、千頭分になった。
大地の振動が、ディシャップ卓の足元まで伝わってきた。卓の脚が、わずかに震えた。地図の上の駒が、ひとつだけ、ぱたりと倒れた。倒した駒を、俺はそっと立て直した。
立て直した駒の根元に、俺は指の先で小さな印をつけた。煤の跡。これは「主菜、進行中」の印だった。店なら「七卓、メイン提供済み」の伝票に判子を押す動きと、同じだった。
ロロト師が卓の縁に立っていた。彼は何も言わなかった。けれども彼の白髭の先が、戦場からの風で、ほんの少しだけ前後に揺れていた。揺れの周期が、俺の呼吸と同じだった。それは偶然ではない、と俺は思った。彼は意図的に、呼吸を俺と合わせていた。
ディシャップ卓に、伝令が次々と戻ってきた。
「アミューズ、敵の右翼が反応!」
「前菜、上がりました! 敵左翼、混乱!」
「主菜、正面押し勝ちつつあります! ですが、ここで——」
伝令の言葉が止まった。彼の顔が白くなった。彼の口が一度開いて、閉じた。それからもう一度開いた。声を出すための時間が、必要だった。
「敵第二軍、突如出現。地の底から、湧いて」
「位置は」
「主菜の真後ろ。退路を断たれます!」
その瞬間、ディシャップ卓の周りの空気が、ひとつ重くなった。
十二人の伝令たちが、それぞれの持ち場の旗の柄を、強く握り直した。革の手袋が、木の柄を擦る音が、十二箇所から同時にした。
俺はその音を、卓の中央で聞いた。十二の革の音が、ひとつの和音にまとまる。和音は不協和音だった。だがその不協和音の中に、俺は十二の意志を聞いた。彼らは怖がっていた。怖がりながら、まだ持ち場を離れていなかった。それで充分だった。




