第十八章 軍師ヘネラルの最後の宴
その頃、魔王本陣ではひとつの会合が開かれていた。
会合の場は、岩山の中ほどに穿たれた広間だった。天井は高く、壁は黒い玄武岩で覆われている。岩の表面には、時折、内側からの僅かな光が漏れていた。それは魔法の光ではなく、何百年も前にこの広間を掘った職人たちが、岩の中に閉じ込めた焚火の煤の名残らしい、と魔王軍の幹部たちは伝えていた。
広間の中央に、黒い卓があった。卓は石でも金属でもなかった。何か別の、もっと重たい素材で出来ていた。卓の上座には、玉座を模した重厚な石の椅子が据えられていた。本物の玉座は山頂にある、と幹部たちは口を揃える。だが本陣の議論は、いつもこの中腹の広間で行われていた。座る者の体重を、椅子そのものが受け止めるのではなく、椅子の下の地面が直接受け止めているような、そういう据わり方をしていた。
黒い卓の奥の石椅子の上に、痩せた長身の男が座っていた。
褐色の肌に銀の髪。眼は夜の海の色をしていた。眼の表面に光が映らない。その光景を見た者は、最初、目に映る現実の方が間違っているのではないかと感じる、そういう種類の眼だった。
魔王アズリエル。
その眼が、卓の前で頭を下げる鴻巣を見下ろしていた。
鴻巣の頭の下げ方は、王宮で老王に下げた時より、一段低かった。けれども一段低い分、彼の身体の力みも一段強かった。それは深い敬意ではなく、深い計算の角度だった。八年間、彼が店の本社の人間に向けて使い分けてきた、お辞儀の引き出しの中の、一番下の角度。
「軍師ヘネラルよ」
声は低く湿っていた。湿った声は、岩の上を流れる水の音に似ていた。
「お前の戦術は最初は私を楽しませた。だがここ十戦、勝率は二分以下だ」
「いえ、陛下。これは敵の特殊な手で」
「敵の特殊な手を、敵が使うことを、なぜ見抜けない」
鴻巣の唇が引きつった。引きつる時の癖は、店で副店長として新人を叱る時の癖と、同じ角度だった。引きつる時、彼はまず右の頬を斜め上に持ち上げる。それから左の頬が遅れて追いつく。その左右のずれが、彼の中の言い訳の角度だった。
「私は、貴方の世界の」
「お前は、何だ」
「現代戦の、専門家です」
魔王はふっと笑った。笑うと言うより、息だけが漏れた。
その笑いは、長く生きた者の笑いだった。鴻巣のような速さでは、生きてこなかった種類の生命の、長い時間の沈殿の上に乗った、ごく薄い笑い。
「お前は替えのきく駒だ。私がいま欲しいのは戦の機微を見る者であって、教科書を諳んじる者ではない」
鴻巣の頬が白くなった。
彼はその言葉を、どこかで聞いたことがあった。
配膳ロボが入ったら、お前のメモなんて全部紙くずだぞ。
あれは自分が言った言葉だった。発した言葉が、別の口から自分に返ってくる時の感覚を、彼は今、生まれて初めて経験していた。
彼の口の中が乾いた。次の言葉を準備しようとしたが、用意した言葉のどれも、今この瞬間の場には合わなかった。彼が三十五年かけて磨いてきた言い回しの引き出しのすべてが、この一瞬、中身を空にしていた。
「陛下。私はまだ、お役に立てます」
ようやく出てきた言葉は、彼自身が予期しないほど低い、媚びた声だった。
「次の戦線では、もっと洗練された理論を」
「もういい」
魔王は片手を、半分だけ持ち上げた。それは退出を促す手の動きだった。鴻巣は半年前、本社研修の面接で、面接官が同じ角度で手を半分上げた時のことを、なぜか思い出していた。あの時も、彼は何かを失っていた。
魔王は彼を見限った。
その夜のうちに、魔王軍の幹部たちは鴻巣を見限った。彼を擁護していた側近の四人は、それぞれにしれっと別の指揮系統に移った。移る時、誰も鴻巣の顔を見なかった。それが彼らの最後の礼儀だった。
四人のうちの一人は、移る前に、鴻巣の机の上に置かれていた羽根ペンを、無言で持ち去った。それは鴻巣がこの世界で最初に手に入れた品物だった。羽根ペンを失った机の上は、奇妙にがらんとした。彼はその空白を、しばらく見ていた。
鴻巣はひとり、廊下に立ち尽くしていた。
廊下の天井から、青白い苔の光が落ちていた。光は冷たく、彼の頬の血の気の引いた色を、より青く見せていた。
磨かれていない靴の先が、廊下の光を曇らせていた。彼はその時、初めて自分の靴を見下ろした。靴の表面の埃が、こちらの世界に来てから半年分積もっていた。半年分の自己卑下と、半年分の他者軽視の混ざった、薄い灰色の層だった。
しゃがんで、靴を磨こうとした。けれども磨くための布が、彼の手の届くどこにもなかった。彼はこの半年間、布を必要としない世界に居たのだった。布は、誰かに用意してもらうものであって、自分で持ち歩くものではなかった。それが彼のホールに対する見方であり、人生に対する見方でもあった。
翌朝、魔王軍の前線付近で奇妙な男を見たという報せが届いた。
黒い上着を着た、痩せた、無精髭の男。投降の旗を振りながらも、その旗はどちらの軍にも届かず、男はひとり岩山の方角へ歩み去ったという。
軍師ヘネラル。
その顎には、もう自信がなかった。
報告を聞いた俺は一度だけ目を伏せた。
復讐心は湧かなかった。もう湧かなかったと気づいた。
代わりに、別の何かが胸の底にあった。憐れみではない。憐れむには、彼は俺に対して何もしてこなかったわけではない。だが彼を憐れまない自分のことを、俺はちゃんと知っていた。それは八年間、俺が彼の前で何度も自分に許してきた感情だった。
憐れみの代わりにあったのは、ひとつの認識だった。彼もまた、自分の仕事を尊んでいなかった、という認識。彼の傲慢の底には、自分の仕事を尊んでいないという、俺と同じ穴があった。穴の埋め方が違っただけだ。俺は穴を放置し、彼は穴を他者への軽蔑で塗りつぶした。塗りつぶすほど、穴は深くなった。
「もし保護できる機会があれば、捕虜として丁寧に扱ってください」
俺は伝令にそう告げた。
「彼の食事も温かいうちに出してあげてください。冷めた料理を出すのは、彼が一番堪えるはずです」
伝令は不思議そうな顔で頷いて、走り去った。
俺はその伝令の背中を見送りながら、初めて、鴻巣を一人の人間として描写した気がした。冷めた料理を堪える人間。それだけは、彼が確かに持っていた、人間の側面のひとつだった。
彼は店で、自分の昼食が冷めることを、ひどく嫌っていた。三月のある日、まかないの皿が彼の手元に届くまでに少し時間がかかった時、彼は厨房の福井さんに対して、五分間ほど嫌味を言い続けた。あの時の彼の声は、今思えば、ただの不機嫌ではなかった。冷めた料理を出されることを、誰よりも怖がっている人間の声だった。
俺はその記憶を、メモに書き加えなかった。代わりに胸の中で、ひとつの抽斗に仕舞った。それで充分だった。




