表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/24

第十七章 コースを組み直す

王都に戻った時、俺はもう戦犯ではなかった。

 戦犯と呼ぶ者は王宮にも市井にもいなくなっていた。代わりに皆が俺の名を呼んでいた。

「ファイアの賢者が、戻った」


 市場の雑踏の中で、誰かが俺を見て、足を止めた。子供を抱いた女だった。彼女は何も言わずに、ただ頷いた。それが彼女の挨拶だった。彼女の腕の中の子供は、俺の湊と同じくらいの年齢だった。子供は俺を見て、笑った。理由のない笑いだった。

 俺はその子供の笑いを、深く吸い込んだ。

 次の角を曲がる前に、もう一人の老人が、俺に向かって帽子を脱いだ。脱ぐ動作はゆっくりで、白髪が冬の風に一瞬だけ揺れた。次の通りでは、若い兵が槍の柄を地面に立てて、敬礼した。槍の石突が石畳に触れる音が、静かに響いた。

 俺は、自分が誰かの目に「戻ってきた者」として映っているのを、初めて知った。八年間、俺は誰の目にも「ただいる者」だったのに。


 ロロト師が王宮の会議室で待っていた。

 卓の周りに、クラドック卿、辺境伯領を預かる若い騎士、各地の冒険者ギルドの代表、教会の高位聖職者。

 辺境伯領を預かる若い代行は、まだ十九か二十歳に見えた。主君を二日前に亡くしたばかりの顔が、奇妙にしっかりしていた。死を背負ったばかりの若者の、引き締まった顎をしていた。彼は辺境伯の遠縁にあたる従士で、当主と末娘の不在の間、領地を預かるよう、辺境伯の遺命で立てられたばかりだった。

 会議室の窓は格子だった。冬の薄い光が、卓の地図の上に細い縞模様を作っていた。縞の暗い部分に、白い駒の影が伸びていた。


 俺は一礼してから卓の前に立った。

「もう一度、コースを組み直します」


 白い駒が卓の上に並んだ。指の腹で駒を一つずつ、所定の位置に運ぶ動作は、店で予約札を卓に置いていく動作と、まったく同じ手の運びだった。

「アミューズに、冒険者ギルドを使います。陽動。重要な役目です」

「前菜に、辺境伯軍。側面突破」

「主菜に、王国正規軍。正面」

「デセールに、教会の聖騎士団。退路を塞ぎ、敵を生かして帰す。可能なら、降伏を受ける」


「殺さぬのか、軍師殿」

「殺さなくて済むなら、殺しません」


 会議室の空気がふっと変わった。

 誰も笑わなかった。誰も馬鹿にしなかった。沈黙の質が変わった。前回までの会議室の沈黙は、計算と疑念で満たされた沈黙だった。今夜の沈黙は、別の種類だった。覚悟を、それぞれが自分の側で量っている沈黙だった。


 冒険者ギルドの代表が、髭の濃い男だったが、卓に身を乗り出した。彼の手は卓の縁を掴んでいた。指の関節が太く、爪に古い傷の跡があった。

「我ら冒険者は、命を高く売る商売だ。安く扱われるなら受けない」

「安くは扱いません」

 俺は言った。

「アミューズは、最も難しい一皿です。客の口に最初に入る。失敗すれば、コース全体が崩れる。だから一番上手い職人を使う。あなたがたを、信じます」


 彼はしばらく俺を見つめた。値踏みする目の色が、長い時間をかけて、別の色に変わった。それから髭の中で笑った。笑いは短かったが、本物だった。

「軍師殿。我らの誰かが、戦の中で死ぬかもしれぬ。それを承知の上で言っているのか」

「承知の上です。死なないコースを目指します。だが、絶対の保証はできません。それを承知の上で、俺はあなたがたに頼みます」

 彼は何度か頷いた。頷くたびに、髭が胸の前で揺れた。

「分かった。我らは受ける」

 彼は卓の縁から手を離した。離した跡の木の表面に、彼の汗の薄い跡が残った。それは彼が、この決断を、軽くは下していないことの証だった。


 教会の高位聖職者が、白い法衣の袖を整えた。袖を整える動作は、長い儀式の中で身につけた所作だった。

「軍師殿。デセールの役目に、教会を使う。つまり退路を塞ぎ、敵を生かして帰す役目を、教会に」

「ええ」

「これは、聖典の最初の頁にある教えと、同じ形だ」

 彼の声は穏やかだったが、奥に、重みがあった。

「聖典に曰く。最後の一杯の水を、敵にも与えよ、と。我らも、それを久しく忘れていた」

 彼は卓の上の駒を、ひとつだけ、自分の前に引き寄せた。教会の駒。それを彼は、自分の手のひらの中で、しばらく握りしめていた。

 俺はその握り方の中に、彼が長年、抱えてきた何かの重みを見た。教会の人間が、戦の中で果たすべき役割について、彼自身、長い間答えを持っていなかったのかもしれない。今夜、その答えが、ようやく彼の手の中に、戻ってきていた。


 辺境伯領を預かる若い代行が、声を上げた。

「我が主君の領地を、最も多くの兵で守れる作戦は、これですか」

「これです」

 俺は答えた。

「貴方の領地が、敵の本当の狙いです。だから前菜の役目を、辺境伯軍に頼みます。一番美しい一皿を、出していただきたい」

 彼の顎が、わずかに引き締まった。主君を二日前に亡くしたばかりの若者の、自分の役割をようやく見つけた瞬間の顔だった。

「畏まりました。我が主君の名にかけて」

「主君の名は、必要ありません」

 俺は言った。

「貴方自身の名で、お願いします」

 彼は息を呑んだ。それから、深く頷いた。頷いた角度に、新しい重みが加わった。


「私が指揮を執ろうか?」

 クラドック卿が言った。

「いえ、卿には主菜を任せます。指揮は、ディシャップ卓を立てます。情報を集約し、号令を出す卓を、戦場の中央に置きます」

「ディシャップ?」

「俺の世界の言葉です。完成した皿の品質を見て、出す瞬間を決める卓のことです」


 老騎士は低く笑った。

「軍師殿。貴公はようやく、貴公の言葉で戦を語り始めたな」

「俺は最初からそうでした」

「そうだな。だが今日のは、誇りが乗っている」


 俺は答えなかった。答える必要がなかった。

 答えの代わりに、卓の上に、駒をひとつ、丁寧に置いた。最後の白い駒。それは俺自身の駒だった。ディシャップ卓の中央。その駒は、誰にも頼まれずに、自分で置いた。

 卓の周りで、誰も何も言わなかった。沈黙が、駒の置かれた音だけを、長く響かせていた。

 窓の外で、王宮の鐘が、五度鳴った。鐘の音が、部屋の中の沈黙の上に、ゆっくりと層を重ねていった。誰も、その層を破ろうとしなかった。それぞれが、それぞれの場所で、自分の駒を、自分の手で置く準備をしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ