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ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


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第二十四章 閉店後のホールに、誰かが帰ってくる

深夜零時の店内には、業務用エアコンの低い唸りだけが残っていた。

 俺は四人掛けの卓に向かい、業務日誌を広げていた。革の表紙の角は、相変わらず擦り切れている。万年筆のキャップを外す。インクの色は紺。ペン先が紙に触れる音は、店内のどんな音よりも静かだ。


 今日のミスを書き出す。


 ・五卓のドリンクを出すタイミングが、半呼吸だけ早かった。

 ・新人の椎葉に教えた下げ皿の動線、今日はやっと逆にならなかった。

 ・八卓の常連客にお冷やを継ぎ足し忘れず、ご本人から「いつもどうも」をもらった。


 ペンを止めた。

 窓の外の二月の夜風が、少しだけ生ぬるかった。


 あれから何日経ったのか、俺はもう数えていない。

 岩戸の向こうであの世界の朝がちゃんと始まったのかどうかも、確かめる方法がない。

 ただ岩戸を抜けた瞬間、俺はこの店の裏口の前に立っていた。二月の夜風の中で、街灯の明かりはまだ切れていなかった。時計は出勤直前の時刻に戻っていた。


 俺はその時、自分の手のひらをじっと見た。爪のあいだに、薄い黒の痕跡があった。岩山を登った時の、岩の埃。それは数秒の間にゆっくりと消えた。残ったのは、ただ俺の現実の手のひらだけだった。

 でも記憶は消えなかった。記憶は、爪のあいだの埃よりも長く残った。


 ひとつだけ、違っていることがある。

 副店長の机が空いている。


 鴻巣副店長は、二月のあの夜の翌日から店に来なくなった。

 退職届だけが本社に郵送されたという。行方は誰も知らない。ただ、本社の研修推薦の話は白紙に戻ったらしい。

 代わりに現場上がりの真面目な店長代理が、彼の机の周りを片付けていた。机の上に置かれていた本社研修のパンフレットは、店長代理がひと束ずつ、丁寧に資源ごみの袋に入れていた。

 彼は俺の業務日誌にふと目を留めて、こう言ったことがある。

「荻原さん、これ、続けてくださいね。読みたいんで」

「読みたい?」

「ええ。ホールの記録、本社にもあんまり残ってないんですよ。これ、現場の財産です」


 俺は頭を下げた。誰かに読まれるとは、八年間思っていなかった。八年間、俺はずっと、誰にも読まれない言葉を書き続けていた。それでよかったし、それでよくなかった。両方だった。

 店長代理は何度か頷いて、自分の仕事に戻った。彼の靴は磨かれていた。爪先のあたりに、上品な光が乗っていた。


 厨房の戸が軽く軋んだ。

 椎葉が顔を出した。エプロンの結び目は、相変わらず少し左にずれていた。

「先輩、お疲れ様です」

 彼女はためらいがちに続けた。頬が、いつもより少し赤かった。

「あの、店長」

「店長じゃないよ」

 俺は笑って訂正した。八年間で、こんなに自然に笑った夜はなかったかもしれない。

「あ、すみません、ええっと、その」

 彼女は頬を赤くして、ぺこりと頭を下げた。

「先輩のホール、やっぱり一番好きです。今日も見ていて気持ちよかったです」


 俺は一拍置いてから頷いた。

「ありがとう」

 受け取った。ようやく受け取れた。あの夜、受け取らなかった言葉を、今夜、受け取った。受け取ってしまったら、自分の仕事を背負わないといけなくなる、という怖さは、もうなかった。八年分の仕事を、今夜の俺は、ちゃんと背負っていた。


 彼女が奥に下がった後、俺は業務日誌の最後の一行を書いた。

 いつもの一行。でも書く気持ちは、八年間でいちばん軽かった。


 ファイアは早すぎても遅すぎても料理を殺す。

 だから今日も、ちょうどいい時間で出す。


 ペンを置いた瞬間、スマホが震えた。妻からのメッセージだった。

《今日もお疲れさま。湊、絵を描いてた。題名「おとうさんのおみせ」だって》


 添付の写真を開いた。

 四歳の娘が描いた、不格好なお店の絵。

 卓が三つ。それぞれの卓に、小さな丸い人が座っている。卓の脇に、痩せた棒人間がひとり、お盆を持って立っていた。お盆の上に、何かオレンジ色のものが載っている。プリンかもしれない。

 頭の上に子どもの字で、こう書いてあった。


 おとうさん。


 俺はしばらく画面を見ていた。

 目の奥が温かくなった。でも泣かなかった。泣くより、明日のホールをちゃんと立てたかった。

 画面の中の絵を、もう一度よく見た。卓の三つは、店の入り口側、奥、そしてカウンター席の横、それぞれに配置されていた。子どもなりに、店の動線を覚えていたらしい。俺が、湊の卓だけを特別丁寧に見ていた、あの誕生日の景色を、湊もちゃんと覚えていた。


 店の電気を順番に消した。厨房の元栓を確認した。レジを締め、釣り銭を整えた。最後に業務日誌を、机の引き出しに丁寧に仕舞った。引き出しの底には、椎葉が書いてくれた小さな付箋が一枚、貼ってあった。

 「先輩へ。今日も一日、お疲れ様でした」

 俺はその付箋を、ノートの表紙の裏に、丁寧に貼り直した。


 裏口を出ると、二月の夜風が頬に触れた。

 あの夜と同じ温度の風だった。湿った冷気の中に、ラーメン屋の油の匂いと、もう一段奥の喫煙所のフィルターの匂いが、同じ配合で混じっている。

 街灯のひとつがジ、と音を立てて、また切れた。

 俺は足を止めた。


 路地の向こうの薄い闇の中に、一瞬だけ人影が見えた気がした。

 白い馬の影と、銀の鎧の輝きと、胸甲の三つ星。三つ星の銀の縁に、まだ煤の跡が残っているように見えた。

 でも瞬きの間に、それは消えた。

 錯覚かもしれない。錯覚でなくてもいい。


 彼女が、貴方の世界が貴方を待っている世界であってほしいと言ってくれた。

 俺はその世界にちゃんと帰り着いた。それで十分だ。

 メモの最後の一行は、彼女が胸甲の内側に仕舞った。彼女の世界の心臓の上で、それは今も白く残っているはずだった。


 俺は内ポケットに手を入れた。

 煤けたメモの感触はなかった。その代わり、買い物のレシートと、古いボールペン。

 代わりに、左の手のひらの中に、小さな冷たいものがあった。銀の鈴。岩戸を抜けた時、それは消えていなかった。最後に、ロロト師から預かった、ファイアの鈴。

 俺は鈴を、ジャケットの内ポケットに、もう一度仕舞った。それは家族には見せない方がいい類の物だった。それは俺自身のための物だった。


 俺はコートの襟を立てて、家の方へ歩き出した。

 四歳の娘が起きているうちに、間に合いたかった。

 歩きながら、明日の業務日誌に書く一行を、頭の中で考えた。今夜の出来事のうち、何を書くか。何を書かないか。書く順番。書く深さ。

 それは八年間の癖だった。けれども今夜の癖は、八年前のそれとは少しだけ違う方向を向いていた。


 明日も、店を開ける。

 卓を捌く。

 ファイアの号令を、ちょうどいい時間で出す。


 誰でもできる仕事じゃない。俺にしかできない仕事ではない。

 でも、今日の俺の卓を今日の俺以外の誰も、捌くことはできない。

 そのことを、今夜の俺は、ようやく自分の言葉で言える。


 その夜、二月の路地に俺の足音だけが長く残った。

 遠くの空に、星がひとつ瞬いた。

 日本の星と、あの世界の星と、同じ形に見えた。

 そして俺は、家までの三百歩を、八年間でいちばんしっかりとした足取りで、歩いた。



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