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ホールスタッフが異世界で『ファイア』の号令ひとつで世界を救い帰還する話  作者: もしものべりすと


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第十四章 援軍を求める辺境伯

その白髭の男は、辺境伯領からの密使だった。

 俺の宿に直接来た。アルメリアの父、辺境伯本人だった。

 彼は外套を脱がなかった。外套の肩には、こちらまで来る道中の雨が、まだ薄く滲んでいた。革の長靴の先には、街道の泥が斑模様についていた。彼は身分を明かさずにここまで来たらしい。明かさずに来られる種類の人物が、ひとつの領地の主だった、という事実が、俺の頭の中で奇妙な角度に置かれた。

 俺は頭を下げようとして、彼に止められた。手のひらは、革の手袋を脱いでいて、節くれ立っていた。爪の根元のあたりに、消えない剣だこの跡があった。

「無礼を承知で頼みに来た」

「俺は、もう」

「貴公にしか、頼めぬ」


 彼の声は深かった。砂利の底を流れる水のような声だった。話す前と話したあとで、空気の重さが変わる種類の声。

 ろうそくの光が、彼の顎の白髭の縁を、橙色に縁取った。白髭の中に、煤の痕が薄く残っていた。途中、燃えている城を出てきた者の証だった。


「我が娘は貴公の話を、よく聞かせてくれていた」

 彼の口調が、ふっと、父親のそれに変わった。

「妹のために死を覚悟で戦線に出ている男がいる、と。卓を捌くように戦を捌く者がいる、と」

「俺は、彼女を守れませんでした」

「いや。貴公だけが、彼女を最後まで信じた指揮官だった」


 彼の声に、責める色はなかった。責める権利を、彼はもう持っていないのかもしれない、と俺は思った。

 彼は俺の手を強く握った。節くれ立った、年老いた指。ホールの常連の客の誰かに似た手だった。八番卓の、いつもひとりで来る老紳士。彼の手も、こんな形をしていた。あの老紳士は、毎週水曜の七時にやってきた。注文は固定。日本酒の冷や、二合。突き出しの小皿は俺が選ぶ。彼が好きなのは、塩気が強くないもの、辛味のないもの、そして、温度が常温に近いもの。俺は八年間、その三つを毎週、無言の合意の中で守ってきた。


「辺境伯領は明日にも落ちる。貴公の戦線復帰を、王に直訴する。受けてほしい」

「俺は戦犯です」

「戦犯を作ったのは王宮だ。戦場ではない」


 彼は俺の宿の窓辺に立ち、しばらく外の雨を見た。雨はまだ止まなかった。雨粒が窓ガラスの上を一筋ずつ、ゆっくり流れ落ちていく。流れの速度は、雨粒の重さと、ガラスの汚れによって、一筋ごとに違っていた。

 彼の白髭の先が、窓の冷気で湿っていた。

「私は娘の名を呼ぶ機会を、もう何度も失ってきた。今度こそ、失いたくない」

 彼の声は、窓の方に向けられていた。俺に直接向けられた言葉ではなかった。窓の外の雨に、自分の言葉を一度預けてから、こちらに戻すような話し方だった。

「お嬢さんは、目を覚ましますか」

「分からぬ。だが私の家には、もう一人、娘がいる。七歳だ」

「妹さんですか」

「ああ。あの子も、失いたくない」


 彼は窓から振り返った。振り返る動きの中で、外套の裾が一度、揺れた。瞳は、アルメリアの瞳と同じ色だった。海の底のような静けさの中に、長い喪失の沈殿があった。それは五年前の侵攻で失った妻と、二人の息子と、そして今夜、捕らえられたばかりの末娘の、合計四人分の沈殿だった。


「貴公は卓を見る者だと聞いた」

「ええ」

「我が家の卓を、見てもらえぬか」


 俺は答えなかった。答える代わりに、彼の節くれ立った手を、もう一度見た。あの八番卓の老紳士のことを、思い出した。彼はいつもひとりで来て、いつも同じ酒を頼み、いつも同じ時間に帰った。

 あの老紳士には、たぶん、家族がいなかった。あるいは、家族と何かがあって、ひとりで来るようになったのか、俺は知らなかった。聞いたことがなかった。聞かないのが、ホールの礼儀だった。

 ただ俺は、彼の好みを覚えていた。彼の節くれ立った手の形を覚えていた。それは八年間の積み重ねだった。週に一度、約四百回。それだけの回数、俺は彼の卓の前で、彼の手の形を見ていた。


 卓を見るというのは、そういうことだった。

 四百回の蓄積の上に、初めて成立する仕事だった。鴻巣には、たぶん、その四百回が一度もなかった。


「見ます」

 俺は言った。声が小さかった。けれども、自分でその声が小さくないことを知っていた。

 辺境伯は深く頭を下げた。長身の彼が、頭を下げた時の白髭の動きが、ろうそくの光の中で、ゆっくりだった。

「ありがたい」

「ただし、私の戦線復帰の許可が、間に合わないかもしれません」

「許可は要らぬ。私が連れて行く」


 彼は外套の内側から、布で包んだ何かを取り出した。重さのある布の塊だった。

「これを、貴公に」

 俺はそれを受け取った。布は古い亜麻だった。布の中身は、銀の小さな円盤だった。表面に、三つ星の紋章が彫り込まれていた。裏に、小さな文字で何か書かれていた。

「我が家の徽章だ。我が娘たちの母が、嫁入りの時に持ってきた」

「これは、いただけません」

「もう持ち主がおらぬ」

 彼の声に、初めて、ほんの少しの揺らぎがあった。

「妻はもう死んだ。長女は呪詛で眠ったままだ。次女は、捕らえられた。三人とも、これを受け取れる場所にはいない」

「だから、私が」

「ええ」


 俺は布を元のように包み直した。包む動作の中で、布の繊維が指の腹で擦れる音がした。布は古い。けれども丁寧に保管されてきた、上等な布だった。

「分かりました。お返しに上がる場所までは、預からせていただきます」

「貴公は、変わったことを言うな」

「俺の世界では、預け物には期限を切るんです」


 彼はその答えに、白髭の中で、わずかに笑った。笑いには、何かを思い出した者の柔らかさがあった。

「妻も、似たようなことを言う人だった」

 彼はそれだけを言うと、外套の襟を立てた。雨の中に出ていく人の準備だった。

「先に行く。貴公は、後を追ってくれ。我が領地で、待つ」

「畏まりました」


 彼が宿を出ていった後、俺はしばらく窓辺に立っていた。雨はまだ降っていた。彼の背中が、雨の中に消えていくのを、俺は最後まで見届けた。

 それから、卓に戻り、布の包みを内ポケットに仕舞った。胸の左側、心臓の上の位置に。それが、俺がその夜、彼から預かった重さの、置き場所だった。

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