第十五章 砦が落ちる、業務日誌が燃える
戦線復帰の許可が下りる前に、辺境伯領は落ちた。
俺は馬を駆って、半日かけて辺境伯の領城に走った。
馬の名は知らなかった。借りた馬には名前を聞かないのが、戦時の習慣だった。けれどもその馬は、足が速かった。半日の乗りに耐えて、一度も悲鳴を上げなかった。それは馬としての一級の働きだった。
馬の鬣は赤茶色で、首の付け根に小さな星の形の白斑があった。俺はその白斑の位置を、走りながら覚えていた。あとで、もし帰ってきたら、その馬の所有者にお礼を言いに行きたいと思った。
城は半分が炎に呑まれていた。
石壁が崩れ、紋章の旗が引き裂かれて踏みつけられていた。三つ星の紋章。アルメリアの胸甲と同じ模様。それが地面の泥の中に押し込まれていた。
俺はその旗を、靴の先で軽く起こした。完全に立て直すことはしなかった。立て直す資格が、俺にあるとは思えなかった。けれども泥の中に押し込まれたままにしておくのも、嫌だった。だから半分だけ、起こした。
城の中庭で、辺境伯が剣を握って倒れていた。頭頂から血が流れていた。息はまだあった。
俺は彼の脇に膝をついた。膝の下の石が冷たかった。冷たさが膝の骨まで届いた。
彼の鎧の胸の部分には、深い切り傷の跡があった。鎧の鉄が、内側に向かって裂けている。一撃で貫通させようとした剣の傷。けれども鎧が、それを最後の一寸で受け止めていた。彼は鎧に守られて、ここまで生きていたのだ。
「我が娘の妹が、捕らえられた」
彼は最後の力で、俺の袖を掴んだ。掴む力は弱かった。だが意志は弱くなかった。彼の指の節が、俺の袖の布を掴んだまま、小刻みに震えた。
「あの子は、まだ七歳だ」
「分かりました」
「貴公の手で、頼む」
その「頼む」は、命令ではなく、最後の祈りだった。俺はそれを受け取った。受け取った瞬間、自分の中の何かの形が、少しだけ変わったのが分かった。
受け取るとは、誰かの最後の言葉を、自分の身体の中に置く、ということだった。それは、椎葉の「先輩のホールが一番好き」を受け取れなかった、あの夜の俺には、できないことだった。今夜の俺は、それができていた。
城内に走り込んだ。
書庫が燃えていた。書庫の天井から、火の粉が舞い落ちている。空気は熱く、息を吸うと喉の奥が痛んだ。煙の中で、俺は前のめりに進んだ。煙は床から五十センチくらいまでは薄い。俺は半分かがんで歩いた。
書庫の中には、これまで戦線で俺が書き、彼女に渡したメモの写しが、書庫の隅に保管されていた。アルメリアが、自分の判断でそうしてくれていた。彼女は俺に何も言わずに、ひとりで写しを取り、書庫に置いていた。それは彼女なりの、俺への信頼の置き方だった。
その写しが灰になっていた。
灰の中に、たまに白い破片が混じっていた。手を入れると、指先がじりじり熱かった。だが俺は手を入れた。指の腹が熱で赤くなり、それから水ぶくれになり始めた。それでも探した。
燃え残った一枚を、煤の中から掴み出した。
他の文字は全部消えていた。たった一行だけ読めた。
ファイアは早すぎても遅すぎても料理を殺す。
その一行を俺は長い間握っていた。握っていると指が震え始めた。怒りでも悲しみでもない、もっと底のほうの何かが震えていた。
その震えは、八年前、店に入ったばかりの俺が、初めて自分の力で十二卓を捌き終えたあの夜の震えに似ていた。あの夜、俺は震えながら、嬉しかったのか怖かったのか、自分でも分からなかった。今夜の震えも、それと同じ種類の震えだった。
ただし違う点がひとつあった。八年前の震えは、孤独な震えだった。誰も見ていない、誰にも分からない、自分だけの中の震え。今夜の震えは、誰かのための震えだった。アルメリアの。彼女の家族の。彼女の妹の。それと、俺自身の妻と娘の。震えの中に、複数の人の重みが入っていた。
城外に出ると、辺境伯はすでに息絶えていた。
彼の指は、剣の柄を握ったままだった。死後硬直の前の、最後の意志の強さで、剣の柄を握っていた。俺はその指を解こうとして、止めた。彼が剣を握って死んだのだ。剣を握ったまま見送るのが、彼への最後の礼儀だった。
俺は彼の額に、自分の手を当てた。額は、まだ温かかった。けれども冷えていく途中の温かさだった。
空に黒い翼の影が低く飛んでいた。
それは魔王の影でもなく、魔王軍の幹部の影でもなかった。もっともっと向こう側のものだった。あれが何なのか、俺はまだ言葉にできなかった。
俺は燃え残った一行のメモを、内ポケットに押し込んだ。馬に飛び乗った。
西の方角に煙がいくつも立ち上っていた。そのひとつひとつが、俺の責任のような気がした。
でも今は、走るしかなかった。
七歳の妹を、迎えに行かないといけない。
俺の娘も、四歳。あの子の三歳上の少女が、今夜どこかで震えている。
その震えを、誰も見ていない震えのままにしてはいけない。それが今夜、俺がここで馬を走らせる、唯一の理由だった。




