第十三章 日々の記録は、何のためにあったのか
その日の夜、俺は妻と娘の写真を、長く見ていた。
宿の机の上には、ろうそくが一本だけ立っている。蜜蝋ではなく、安い獣脂のろうそくだった。炎が時折ぱちりと音を立てて、油の細い臭気を吐き出す。机の表面に、その光が橙色の輪を作っていた。輪の外は、深い影だった。
スマホのバッテリーは、もうすぐ切れる。充電できる場所はどこにもない。最後に充電できるうちに、写真をできるだけ目に焼き付けた。
画面の四角い光だけが、この古い宿の部屋の中で、唯一こちらの世界に属さない光だった。それは俺の手のひらの中で、青白く灯っていた。
湊が四歳の誕生日に、俺の店で食べた、子ども用の小さなプリン。
その写真を、俺は何度も見返した。プリンの上に、小さなチェリーが一粒。あれはパティシエの福井さんが、湊のために特別に乗せてくれた一粒だった。彼は普段、子ども用にチェリーを乗せない。「歯にひっかかると危ないから」というのが、彼の哲学だった。だがあの日だけは、彼は冷蔵庫の奥から、わざわざ別の小さなチェリーを取り出してきた。
あの日、俺はホールに立っていた。娘の卓のことだけを、特別丁寧に見ていた。他の卓に申し訳ないと思いながら。
あの夜の店内の音を、俺は覚えていた。
壁際の四卓の客の笑い声。カウンターの常連の咳。窓際の二人連れの低い口論。その全部が、湊の卓の周りで、奇妙にやわらかく響いていた。それは俺の耳が、湊の卓の音だけを優先的に拾っていたからだった。
娘の前にプリンを置いた瞬間、彼女は両手をぐーにした。それは興奮した時の、彼女の癖だった。生まれて一年目から、嬉しい時だけ、彼女はそうした。手のひらの中の温度が上がっているのが、握る力の強さで分かった。
あの日、湊は俺の制服の裾を引いてこう言った。
「お父さんのお店、おいしいね」
ただの一言だった。
でも俺は、その一言で、もう一年戦える人間になっていた。あの日から数えて、ちょうど一年経つ前の冬に、俺は店の地下倉庫で泣いたことがある。理由は覚えていない。理由はたぶん、なかった。八年間続けてきた仕事の意味が、ある夜、ふっと底まで透けて、何も残っていないのを見てしまった、ただそれだけだった。
あの夜、俺は地下倉庫の冷蔵棚の前で、両膝を床について、肩を震わせていた。誰にも見られなかった。誰にも言わなかった。
翌朝、湊の「おいしいね」を思い出した。それで、もう一度立ち上がれた。
今もその一言が、暗い宿の中で、ほのかに光っていた。光のかたちは、子どもの両手のぐーの形をしていた。
俺の仕事は、誰にとっての何だったのか。
配膳ロボに置き換わると鴻巣は言った。置き換わる仕事だったのか。それとも置き換わらない仕事だったのか。
配膳ロボは、湊にチェリーを乗せて運べるだろうか。乗せて運ぶことはできる。だが「特別に乗せた」と、湊に伝えることはできない。たぶん、できない。「特別」という意味は、ロボには理解できない。だが俺は、八年間、その「特別」だけを毎晩、卓の上に乗せてきたのだ。
答えは出さなかった。
ただ、もう一行だけ書いた。ペン先のインクは、ろうそくの光の中で、紺ではなく黒に近く見えた。
・俺は、自分の仕事をまだ自分で尊んでいない。
書いてからしばらく、俺はスマホの画面を点けたままにしていた。バッテリーが減る速度を、心のどこかで意識しながら。けれども消す気にはならなかった。娘の顔が、画面の中で、まだ生きていた。
画面の中の湊が、息をしているように見えた。寝顔の鼻のあたりが、ほんの一瞬、動いた気がした。それは俺の目の錯覚だ。錯覚であることを、俺はちゃんと知っていた。それでも見続けた。見続けることが、今夜の俺にできる、唯一の祈りだった。
窓の外で、深夜の鐘が三度鳴った。
鐘の音は、日本のそれよりわずかに低い。一度目の音が、空気の中で長く伸びる。二度目は、その伸びの上に重なる。三度目は、二つの音の余韻が混ざった上に乗る。三つの音が完全に消えるまでに、たっぷり十秒かかった。
その音に重なるように、廊下の向こうで誰かの足音がした。慣れない作りの長靴の音だった。木の床と革の靴底が擦れる音。一歩一歩の重みが揃っている。重みが揃う歩き方は、軍人か、長く歩くことに慣れた者の歩き方だ。
扉が叩かれた。
ノックは三回。律儀な間隔。一拍目と二拍目の間隔と、二拍目と三拍目の間隔が、寸分の違いもなく揃っていた。
アルメリアではない。彼女はまだ眠っている。
俺はろうそくを手に取って、扉に向かった。火が傾いて、壁の影が一度、大きく揺れた。
俺は扉を開けた。
白髭の男が立っていた。




