第十二章 軍師ヘネラルの逆襲
俺が前線を離れた一週間で、戦況は一気に悪化した。
鴻巣の戦術は派手だった。
全戦力を一点突破に投入し、勝率の高い局面を選んでぶつかる。現代戦の教科書から、表紙の章だけ読んだような戦い方だった。本文は読まずに、目次だけで動いている。
本文を読まない人間に、本文の重みは分からない。それは八年間、俺が店で何度も見てきた光景だった。新人マニュアルの表紙に書いてある「お客様第一」を諳んじて、しかし実際の客の前では、客より自分のシフト表を優先する新人。鴻巣は、その種類の人間が、規模を変えただけだった。
最初の三戦は勝った。本社推薦の頃の彼の態度を、俺はそこに見た気がした。一時的な勝ちは、彼の中で「ほら見たことか」という小さな勝利の積み重ねになる。その積み重ねが、彼の自信になり、彼の盲点になる。
四戦目、敵がそれを学習して反対側を突いた。
五戦目、味方の補給線が切れた。
六戦目、彼の指揮した第三軍がほぼ壊滅した。
戦死者の名簿が王都に貼り出された。
俺はその前を毎日通った。掲示板は雨に濡れて、文字が滲み始めていた。職人が新しい紙に書き直しに来るのは、三日に一度。その三日のあいだ、名前が滲んでいくのを、誰も止められなかった。
知らない名前が長い列を作っていた。でも知らない名前ほど、誰かの大切な誰かだった。
名簿の前で、女が一人、座り込んでいた。年齢はわからない。白い肩掛けが濡れていた。彼女は立ち上がる気力を、もう持っていなかった。俺はそこを、急ぎ足で通り過ぎた。通り過ぎた自分の靴音が、しばらく耳に残った。
通り過ぎてから三歩で、俺は足を止めた。振り返ろうとして、振り返らなかった。振り返って何か言葉をかける資格は、俺にはない。第三軍の壊滅の一端は、間接的にだが、俺の戦線離脱に責任があった。俺がいれば、と考える権利すら、俺には残っていなかった。
代わりに俺は、その女のために、内ポケットのメモに一行だけ書いた。「白い肩掛けの女。掲示板の前。雨の午後三時」。書いて、それきりにした。けれども書いたという行為が、俺の中で、何かを完全に手放さない助けになった。
市井の声は最初、鴻巣を持ち上げた。
二週目で疑い始めた。
三週目には軍師ヘネラルへの罵倒が、酒場の半数の話題になった。
罵倒の言葉は、彼が俺に投げてきた言葉と、奇妙に似ていた。「現場仕事の延長」「教科書の延長」「替えのきく」。市井の人々は、彼の言葉の中の刺を、いつのまにか覚えて、彼に返していた。
彼は酒場には現れなかった。現れるのは王宮の宴と、自分の部屋と、夜の魔王軍との接点だけ。
彼はずっと内輪に向かって笑顔を作っていた。外に向かって作る笑顔の作法を、誰も彼に教えていなかった。それは八年間の店で、俺がずっと目撃してきたことだった。彼は新人にも常連にも、同じ角度の同じ笑顔を向けていた。それが彼の「客対応」だった。
その笑顔は、客が一人で来ようと、家族連れで来ようと、悲しみを抱えて来ようと、祝い事を抱えて来ようと、変わらなかった。客の事情を一切読まない笑顔。それで彼は副店長になっていた。それが、店という場所の不思議だった。
俺は王都の宿で、メモを再開していた。
白紙のノートを市場で買った。表紙が薄い革で、中の紙が黄色っぽかった。日本のものよりずっと書きにくかった。インクが滲む。線がぶれる。だが書いた。
ノートを買った市場の店主は、白髭の小柄な男だった。彼は俺の手を見て、「あなたの手は、長く何かを書いてきた手だ」と言った。「指の節の形が、書く者の形をしている」。俺は何も答えなかった。けれども、その言葉を、ノートの最初の頁の隅に小さく書き留めた。
・敵の動き、四戦目以降、全戦線で『回避』を組み込み始めている。
・回避の起点、すべてアルメリア領の北方境界線。
・つまり敵は北方を、最初から狙っている。
ペンを置いた。
俺はもう戦線を任されてはいない。書いても、誰にも読ませる先がない。それでも書く手は止まらなかった。書かないと、自分が今日を生きている形が、残らない気がした。
書くという行為は、自分の生を一日ぶん、紙の上に置く行為だった。置いたものが誰にも読まれなくても、置いたという事実は残る。それが、俺の八年間を支えてきた、唯一の習慣だった。
扉が叩かれた。
ロロト師だった。彼は入ってくるなり、俺のノートをふっと笑った。皺の中に、温かい色があった。
「貴方は、書くのを、やめないのだな」
「癖です」
「それは、もう癖ではないでしょう」
彼は卓に向かいの椅子を引き寄せて座った。座る時、膝の関節が小さな音を立てた。年寄りの膝の音だった。それでも彼は、毎日階段を上り下りして、俺のところに来てくれていた。
「軍師ヘネラルは、間もなく落ちる」
「魔王軍からですか」
「両方からだ。彼は内輪向けの言葉しか持っていない。内輪に飽きられた瞬間、彼の足元から砂が抜ける」
俺はそのとき、初めて、鴻巣の靴の磨かれていなさが、そういう意味だったのかと気づいた。
磨かれていない靴は、自分以外の誰かに見られているという感覚を、彼が捨てている証だった。誰も見ていないと信じている靴は、磨かれない。磨かれない靴で歩く人間は、いつのまにか、自分の歩く姿の輪郭そのものを、失っていく。
ロロト師は、卓の上の俺のノートを、長く見ていた。それから、ふと、目を細めた。
「貴方の卓は、いずれまた使われる」
「俺は戦線を外されたままです」
「外されたとは、誰も言っていない。休まされているだけだ」




