27.キスには毒がある
ボルガング郊外、薄暗い路地の一角。レイドルドはノックもせずに、とある建物の扉を力任せに蹴破った。
闘技場へ向かう大通りの喧騒の中、すれ違ったほんの一瞬。気配を殺していたとある不審な人物、ユベール公爵と裏で交渉を交わしていた帝国の使者の顔を、薔薇の騎士団長の眼は見逃さなかった。
(姫様の御勇姿をこの目に刻めないことをお許しください)
胸の内でただ一人の主に詫びながら、レイドルドは躊躇することなく、土埃の舞う室内へと踏み込んだ。
「酷いですね。ひとの家を」
部屋の奥から、男が胡散臭い笑みを浮かべて振り返る。
「貴様、ユベールのところで見かけたな。帝国の者であろう?」
「人違いじゃあ、ありませんか?」
「ふん。まぁ、これを見ろ」
レイドルドが懐から取り出したのは、剣に巻き付く蛇の紋章――帝国将軍サモランの旗印が描かれた羊皮紙。
それを目にした瞬間。男の貼り付けたような薄笑いが消え、その眼に隠しきれない殺意が走った。
「……まぁ、私が記憶で描いてみたものだがな」
そう言って、レイドルドは男の目の前で、その羊皮紙を無造作にズタズタに切り裂いてみせた。
「貴様ッ!?」
所属しているだろう軍の旗印を侮辱され、男が反射的に腰の武器へと手を伸ばす。
「下種共にも忠義や誇りはあるか」
レイドルドは腰から抜いた短剣の柄を固く握りしめ、帝国の男を睨み据えた。
「吐け。などと無粋なことは言わない。サモラン・ゼッタの手の者よ。いや、結局はレゼンの手の者か?」
形勢不利と悟った男は、即座に背後の窓へ向かって逃走を図ろうとする。だが、彼がそう思考し、足に力を込めた時にはすでに遅かった。
空気を裂く微かな風切り音。男が違和感に視線を下へ落とすと、自らの胸のど真ん中から、短剣の柄が生えていた。
「が、はっ……」
「悪党の言葉よりも、物的証拠を重んじる性である故。申し訳ない、と便宜上言っておく」
膝から崩れ落ちる男を見下ろし、レイドルドは淡々と告げた。
そうして彼は息絶えた男の身ぐるみを素早く剥がし、衣服の裏地や隠しポケットの隅々まで調べ上げる。やがて、血に染まった革鎧の内側から、厳重に封をされた小さな筒を見つけ出した。
中から引きずり出した羊皮紙の端。そこに押されていた刻印を見て、レイドルドは思わず眉を深くひそめた。
「黒百合の刻印……? だが、帝国の黒百合はバモンと……ゾーラ家しか……」
レイドルドは文を読むと羊皮紙を素早く懐に入れ、駆けだす。バモンの旗印は『黒百合に鷹』である。それに比べてこの刻印は『黒百合』のみとなる。帝国の家系についてはそこまで造詣が深くないレイドルドだが、問題はその中身だ。いち早く己の主に報告すべく駆ける。
――殺気だ。
長年の経験と勘で前方に伏せると、風切り音の直後に、足元に鋭い矢が突き刺さる。
(しくじった。この辺一帯が、影の者達の住処か)
頭上から降り注ぐ矢の雨を、建物や障害物を盾にしながらなんとか進む。だが、その中の一矢が、ついにレイドルドの肩を掠めた。
途端に、嫌な熱が全身を駆け巡る。猛毒だ。
それでもレイドルドは駆けた。ただ姫のために、全力で駆けた。
肩の感覚は既にない。
幸いなことに雨が降り始めた。ひどい雨だ。ぐにゃぐにゃと歪な雨。
レイドルドの記憶はそこから途切れたが、それでも体は動き続けてくれていると、彼は自身の肉体を心の底から褒め称えた。
* * *
扇動者たちとの闘いを終え、ロッジは先頭を意気揚々と歩きながら、前方から見知った顔が駆けてくるのを見つけた。
「うーん、ひでえ雨だ。お! おーい、レイドルドじゃねぇか! 将軍のところに帰るところだ! 一緒にいこうぜ!」
と軽く声をかけるも、彼が止まる気配はない。
ロッジの言葉に視線一つ向けず、ただただ虚ろな顔で、機械のように駆け抜けていこうとする。
「カイ! キース! ベレス!」
普通じゃない。そう判断したロッジの鋭い声掛けに、三人は息を揃えて応じた。
彼らは即座に散開してレイドルドに並走し、四人がかりでその四肢を抱え込んで、強引に動きを止める。
「やべぇ! 見ろ! 肩口がどす黒いぞ!」
「ああ、毒だな! とにかく将軍のところへ! ――あ!?」
四人に担ぎ上げられ、途中まで大人しかったレイドルドが、突如として獣のような低い唸り声を上げた。
毒で意識などとうに無いはずの肉体が、屈強な帝国兵四人の拘束を、異常な膂力で強引に振り解いた。
「おいッ!?」
静止の声を置き去りにし、レイドルドは走る。ただ一人、敬愛する主の元へ、その情報を届けるためだけに。
「副長! レイドルドを止めてください! 正気じゃねぇ!」
追いすがるロッジたちの悲痛な叫び声が響く。
「なんだと……ッ!?」
ザックが振り返った視線の先。ふらつく足取りの騎士が、文字通り転がり込むようにして彼らの元へと飛び込んできた。
全身から濃厚な死の匂いを撒き散らしながらも、レイドルドはエルマの姿を認めた瞬間、倒れ伏しそうになる身体を強引に引き起こす。
ガツンッ、と。地面に重い音を立てて膝をつき、息も絶え絶えになりながら、主君に対して完璧な臣下の礼をとってみせた。
「……早くしねぇと、こいつ、死ぬぜ?」
忠義の塊のような騎士を見下ろし、悪鬼が顔を顰めて吐き捨てるように言った。
「嘘だろ、おい……ッ! こりゃ、死の匂いだぞ! どういうこったよ!」
ザックは血相を変えて駆け寄り、レイドルドの身体を支える。
「毒だ。ザック、俺の太もものあたりから九番と五十二番を取れ」
悪鬼が指さすのは己の丁度大腿の根本あたり。それはドレスの裾をめくり上げねばとれない箇所だ。
「すまん!」
ザックはそう言ってドレスを優しくめくると、太もものあたりに何本もの小瓶が括り付けられていた。一つ一つに番号が振られている。
なまめかしくも瑞々しいその大腿に一瞬目を奪われるも、ザックは煩悩を振り払い瓶を探した。
「と、九番と……五十二番っと」
取り出して渡したザックに、悪鬼は「よくやった」と獰猛に嗤う。
「さてザック。俺をレイドルドの近くに運べ。そして、そいつを貸せ」
「悪党、まさかお前……」
ザックの顔から血の気が引いた。
* * *
――それから、どれほどの時間が経っただろうか。
雨も止んで辺りはすっかり夜の静寂に包まれていた。
唇に当たる柔らかくも温かいなにかを感じながら、レイドルドの意識がゆっくりと浮上していく。
熱くて、でも寒かった身体に、確かな安らぎが伝わってくる。
「姫、様……」
「起きたか! レイドルド!」
目を開ければ、そこには菫色の瞳に涙を溜めた、彼にとって最も敬愛する主君の姿があった。
「私は……?」
「毒にやられていたんだ……。よく、生きて戻ってきてくれた」
「姫様が私を解毒なさった……?」
「ああ!」
エルマが力強く頷く。
「では、あの唇の感覚は……。なんと……この不肖レイドルド! なんたる不覚! 姫様自ら御手を、いや、御口を煩わせるとは……! いえ! なんでもありませぬ! ああ、それよりもこれをお見せせねばならないのです! ささ!」
死の淵にあっても決して手放さなかった羊皮紙を、レイドルドは震える手で恭しく差し出した。
申し訳ないと言いつつも、エルマの手当てを受けられたことに内心で舞い上がっているレイドルドの姿。
ザックは、そんな彼に深い憐憫の目を向けていた。
そして、その後ろでは――。
「……うぅ……なんで、俺が……おっさんに……」
手の甲で何度も乱暴に唇を擦りながら、真っ白に燃え尽きてうずくまっているベレスの背中を、残りの三馬鹿たちが「お前はよくやったよ」「誇りに思えよ」と涙ぐみながらさすって慰めているのであった。




