25.居酒屋『路地裏』
闘技場を包んでいた極限の静寂は、一瞬にして破られた。
全員が息を呑む。そして、傭兵王が相討ちに終わったという事実が、観衆の間ににわかに伝播していく。
この修羅の国において、グランディークは誇りであり、不敗の象徴である。
その王が地に伏したという現実を許容しきれず、熱狂に浮かされていた空気が、狂気へ歪み始めた。
誰かが、震える声で叫んだ。
「こ、殺せ! あの女を殺せ!」
その一言が、発火する。
民衆は次々と、闘技場の中央で倒れ伏す青いドレスの女を指差す。本来ならば勝者の武を尊ぶはずの彼らだが、これは違う。
観客席のあちこちで、殺意と共に武器が抜かれる音が響き渡る。
数万の観衆が暴徒と化し、一斉に闘技場へと降り立とうと腰を浮かせた、その瞬間だった。
観衆が動くよりも遥かに早く。
戦場の空気が殺意へと反転する直前の『濃密な死の匂い』を誰よりも早く嗅ぎ取っていた冴えない顔の男が、意識を失っているエルマを背負い、出口へ向かって弾かれたように駆け出していた。
そして、間をあけず観客席の壁上から男が躍り出て、凄まじい地響きと共に闘技場へと降り立った。その威容に狂気が抜けていく。
「貴様等! 戦士を! グランディークを愚弄するか!!!」
男の物理的な震動を伴う大音声が響き渡る。
左腕をだらりと下げ、白濁した両目を見開いた盲目の戦士――アレクだ。
彼は怒りで血管を限界まで膨張させた太い右腕で、頭砕きを観衆の眼前へと突き付けた。
アレクの咆哮で観衆の足が止まったのを背中で感じ取り、ザックはエルマを背負って走りながらも、ほんの僅かに安堵の息を吐き出した。
だが、その鋭い視線は決して油断することなく、観客席の一角を捉えている。
先ほど、「あの女を殺せ」と真っ先に叫び、暴動の火種を撒き散らした不審な影。
そいつが、混乱する群衆を盾にして、ひっそりと闘技場から逃げ出そうとしているのをザックは見逃さなかった。
(……逃がすかよ、クソ野郎)
ザックは足を止めることなく、並走する部下のロッジへと視線だけで合図を送る。
イカれた将軍の下で共に死線を潜り抜けてきたベレス、カイ、キース、ロッジの四人である。微かな目配せだけで、誰を狩るべきか、その意図を伝える。
「了解だ、副長」
ロッジの短い返事と共に、四人の帝国兵は即座に軌道を変えた。音もなく観客席の壁を蹴り上がり、熱気に包まれた群衆の死角を縫って、逃げようとする扇動者へと狩猟犬のように迫っていくのだった。
* * *
ボルガングの喧騒から隔絶された、入り組んだ裏路地。男は息を切らせて立ち止まり、膝に手をついてうずくまった。額から滝のような汗が滴り落ちている。
アスタロトに入りかかった肌寒いメトスの季節の風が、男にとって今はひどくありがたかった。
荒い呼吸を整え、再び逃走へと足を向けようとした、その時だった。
「おっと、こっちは通れねぇみてぇだぜ、色男。親切なこの俺はロッジってんだぜ」
逃走中の男の前に、色素の薄い緑がかった髪の、一見軽薄そうな兵士が立ち塞がる。
男は舌打ちをし、すかさず踵を返して逆方向へと駆け出した。――が。
「なんか、ここからネズミが飛び出してくる感じがしたんだよな。俺はキースってんだ」
「そういうノリってあるよな? わかるぜ。急に自己紹介したくなるときって。俺はベレス」
「ああ、怖がらせてすまねぇな。なに、悪いようにしかしないぜ。俺がカイだ」
四方を完全に塞がれた。それぞれが腰の剣に手を添え、獲物を囲む猟犬のような隙のなさで退路を潰している。
逃げ場はない。男は奥歯を噛み締め、意を決して懐へと手を潜り込ませた。
だが、その指先が布に触れるよりも早く。
いつの間にか背後に回り込んでいたカイの手が、男の手首を万力のような力で掴み上げ、強引に動きを阻んだ。
「まぁ、そう急くな。死ぬのは用事をきっちり終えてからにしようぜ?」
ロッジは努めて朗らかに笑いかけたが、男は顔面を蒼白にさせ、ガチガチと歯の根を鳴らしてへたり込む。無理もない。彼等の放つ濃密な殺気は、軽口の会話程度で隠しきれるものではなかったのだ。
「アアァァァァァ!」
突如、男が天を仰ぎ、獣のような奇声を上げた。
伏兵を呼ぶ合図だと察知し、カイが男の両腕を捻り上げ、全ての関節を外して転がす。
だが、時すでに遅し。裏路地の屋根や死角から、武器を手にした黒い影が次々と姿を現す。
四人は互いに背中合わせとなり、油断なく剣を抜いた。
気配が一つ、二つ……いや、二桁を優に超えている。
「ベレス、ルーク卿の一撃はどうだった?」
危険な状況下で、ロッジがケラケラと軽薄な笑いを浮かべて尋ねる。だが、ベレスは振り向きもせずに不敵に答えた。
「ファムちゃんの投げキッスより熱いぜ」
その答えに三人はヒュウっと口笛を吹く。
「くるぜ」
「陣形変更だな」
キースの言葉と同時、カイが足元の男を蹴り飛ばして壁際へと寄せる。
そして四人は即座に後退し、壁を背にして死角を完全に潰し、カイとキースが前衛で盾となり、ロッジとベレスがその隙間から刃を突き出す陣形を整える。
「俺はピリカちゃん派なんだよ! っと!」
カイが飛んでくるナイフを小盾で弾き落とす。と同時、殺到した黒装束の一人が剣を振り下ろすが、隣のキースがそれを危なげなく剣の腹で受け止めた。
「じゃあ、ファムちゃんは諦めるんだな!」
キースが笑いながら敵の刃をいなした瞬間、その脇の死角からベレスの刃が毒蛇のように伸び、黒装束の喉元を正確に貫き通す。
「キース、それはねぇぜ。狼と薔薇の隊は強欲が売りだろ?」
「あー、鷹のくちばし亭、帰りてぇな」
血飛沫を浴びて倒れゆく敵を跨ぎながら、カイとキースの雑談のような会話にロッジが心底恋しそうに想いを漏らす。
「でも、帝都には行けねぇんだよな」
ロッジが言うと、四人は次々と迫る敵の群れを屠りながら、全く同じタイミングで深い溜息を吐くのであった。
「ところでよ」
カイが、迫り来る刃を盾でいなしながら唐突に口を開く。
「んだよ。お、こいつはちょっと強いぞ」
キースは敵の重い一撃を剣の腹で受け流し、その首元へとカウンターを突き刺しながら相槌を打った。
「将軍って、好きな人いるんかね」
「…………」
降り注ぐ刃の雨のど真ん中だというのに、その一言で、四人の動きがほんの一瞬だけピタリと止まった。
「いまのところ、アレクさんに対しては甘いよな」
ベレスが敵の胸を深々と貫きながら、真面目な声色で述べる。
「あれは、ほら。父性ってやつじゃねぇか?」
ロッジが死角からの奇襲をあっさりと蹴り飛ばし、首を振った。
彼らがそんな呑気な会話を交わしている間にも、足元には次々と骸が重なり、狭い路地裏はあっという間に血に覆われていく。
「たまに可愛いところ出してくるのがずるいよな。無自覚なんだろうけどよ」
キースが剣の血糊を無造作に振り払いながら、やれやれと肩をすくめる。
「がんばれ、副長」
ロッジが、闘技場にいるであろう上司に向けて、心底同情するようにエールを送った。
「副長、いけるかな?」
カイが最後にそう零すと、死屍累々の路地裏に、四人の重く深い溜息が再び響き渡るのであった。
「ま、成るようになるか。いこうぜ」
ベレスが関節を外した扇動者の男を片手で乱暴に引きずりながら、懐から一枚の布を取り出し、顔に付着した血を拭う。
残りの三人は、それを見逃さなかった。
「あ! ベレス! テメェ、それ!」
「あ!? あっれー!? いっけねぇ! 見せちまった!」
ベレスは口ではそう言いながらも、布を隠すどころか、あえて見せびらかすように手元でヒラヒラと振ってみせた。そのにやけきった表情は、どう見ても確信犯である。
「わざとらしいぞ! 自慢だろ! オルディスの時だな!?」
「くっそぉぉ! あの時、俺もルークに斬られておけばよかったぜ!」
キースとロッジが血の涙を流さんばかりの勢いで食ってかかる。カイは無言でベレスのふくらはぎを軽く蹴った。
ベレスが取り出した布には、芸術品のように精緻で美しい『狼と薔薇』の刺繍が施されていたのだ。
それが誰の手によるものかなど、彼らにとっては一目瞭然である。オルディス戦で重傷を負ったベレスが、彼らの敬愛する将軍から直々に手当てされ、賜ったご褒美である。
血生臭い路地裏で、三人の男たちのギリギリと歯ぎしりする音が、男を引きずる音に混じっていつまでも響き続けるのであった。




