21.温い教育だ
一方、闘技場の熱狂から鉄格子一枚で隔てられた薄暗い控室。
出番を待つ一人の若い男が、鉄格子の隙間からアリーナに立つ青いドレスの少女を、爛々とした肉食獣のような瞳で見下ろしていた。
「……あのおんなぁ、つえぇな」
男――Sランク血闘士のベルーザは、己の身の丈に迫る巨大な両手剣を肩に担いだまま、低く喉の奥を鳴らす。
「んだよ、ベルーザ。お前が闘技の前に相手を観察するなんざ珍しいな」
後ろで壁にもたれかかっていた仲間の血闘士が、呆れたように声をかけた。普段のベルーザならば、相手が誰であろうと興味すら示さず、ただ扉が開けば力任せに蹂躙しに行くだけなのだから。
「なんか、あいつを見てるとザワザワすんだよ」
「ほーん。お前にもついに春がきたのかねぇ?」
仲間のからかいに、ベルーザは口角を凶悪な三日月型に吊り上げた。
「ちげーな。これは『愛』ってやつだ。私を倒して、奪ってくれって言ってる気がするぜ」
どこかで聞いたことのあるような、傲岸不遜で理不尽な論理。
獲物を前にしたその野蛮な笑みは、どこぞの悪鬼と瓜二つであった。
* * *
エルマが投げた剣はベルーザの足先の地面に突き刺さる。
「あぁ? やってくれるじゃねぇの」
ベルーザは足先の剣を眺めて口角を更に吊り上げる。
「三人目! とうとうやるのか!? 悪逆のベルーザ!」
「女ぁ。おめぇは黒曜? の牙とかいうやつがルーツなんだろぉ? 」
「まぁな」
「いいねいいね。俺は血筋ってやつは嫌いじゃねぇぜ?」
エルマは背中から骨砕きを抜いた。こいつは少し違うと本能が嗅ぎ取ったのだ。
「どこぞの坊ちゃんなんだな」
「とっても良い血筋だぜぇ? 俺はよぉ、戦士アザレアと悪鬼バルバロッサの子さぁ!」
「……え?」
エルマが間の抜けた声を上げる。
同時に、先ほどまで「俺は寝てるぜ」とふて腐れていた大悪党の意識が、ピタリと硬直して急浮上してきた。
(ほーう? アザレア、アザレア……あ)
悪鬼の脳裏に盗賊時代、酒と略奪の果てに一夜を共にした数多の女たちの顔が駆け巡る。そして、酒場の裏手で泣きついてきた赤毛の女の顔が、ようやく記憶の底から引っ張り出された。
『悪鬼……』
(いたわいたわ。良い体してたな! 具合も良いもんで尻をたたくと――)
『や、やめろ! やめろぉ!』
思わず耳を塞ぎたくなるような悪鬼の生々しい回想録を、エルマは半狂乱になって遮った。
(おー、おめぇには性教育が少し足りねぇみたいだな。そんなんじゃ将来辛いぜぇ?)
『知らん!』
冷ややかな視線を向けるエルマに対し、大悪党は少しも悪びれもなく開き直る。そして、逃げるように精神の奥へと引っ込んだエルマと入れ替わるように、悪鬼は嬉々として肉体の主導権を握った。
「ハッ、簡単なもんだ。精神修行が足りねぇ」
エルマに向けてそう吐き捨ててから、眼前の「息子」の構えを頭の先から足の先まで嘗め回すように品定めする。そして、心底つまらなそうに鼻で嗤った。
「バルバロッサねぇ……んで、その成りでどうやって頂点に立つってんだ? 頭が高ぇよ、クソガキ」
「あァ!? てめぇ、ぶっ殺されてぇのか!」
急な罵倒への怒りで顔を真っ赤にしたベルーザは、獣の咆哮を上げて地を蹴り、両手剣を大上段から力任せに振り下ろした。
風を切り裂く轟音。Sランクの膂力が生み出す、直撃すれば人体など容易く粉砕する致命の一撃。
「わかりやすい事この上ねぇな。アザレアの奴、どんな教育してやがる。それにしても、この身体も大分出来上がってきたじゃねぇか」
だが、悪鬼は欠伸を噛み殺しながら、身をずらした。
大剣が悪鬼の残像を切り裂き、闘技場の土くれを爆砕する。その隙だらけの無防備な背中へ、悪鬼の華奢な足を容赦なく叩き込む。
「ガッ!?」
ベルーザの鍛え抜かれた体が鞠のように軽々と宙を舞い、闘技場の壁へ向かって無様に転がっていく。
「ほらほら、エリートぼっちゃーん? どうしたどうした。自慢の剣が重てぇのか?」
血を吐きながら立ち上がろうとするベルーザを見下ろし、悪鬼は喉の奥を鳴らして底意地悪く煽り立てる。
「おれみたいな温室育ちの女にも、そんなデカい図体して届きませんかァー? ハッハァ! 骨砕きを使うまでもねぇ」
エルマが抜いた骨砕きを悪鬼は地面に深々と突き刺して、口角を吊り上げる。
「てめぇ、舐めんじゃねぇぞッ!」
激昂したベルーザが血走った目で再びツーハンデッドを振り回す。
だが、そのすべての軌道は悪鬼の手の平の上だった。悪鬼はあえて武器を抜かず、舞うようにして剣撃を躱し続ける。
「おいおい、そんなもんじゃ偉大で最強でこの上なく貴き御父上様には一生追いつけねぇぞぉ?」
『そこまで言ってたか?』
「クソがァ!!」
空を切るたびに、悪鬼の手の甲が、肘が、膝が、小気味良いほどの正確さで男の急所外を的確に削っていく。
肉体的なダメージよりも精神を完全にへし折りにいく、悪意に満ちた蹂躙劇だ。
* * *
「な、なんだあの女……!? さっきまでと動きが全然違うぞ!?」
「まるで、ベルーザみてぇな戦い方だ……ッ!」
観客席の傭兵たちが、突然荒々しく豹変したエルマの姿に戦慄の声を上げる。
その中でただ一人、ザックだけが頭を抱えてうずくまっていた。
(おいおい……悪鬼の奴、出やがった)
ザックの並外れた嗅覚が悪鬼に気づき、彼はすべてを見なかったことにしようと固く目を閉じた。
――だが、暗闇の中で思考を巡らせていた彼の脳裏に、違和感が掠める。
(いや、ちょっと待てよ? エルマの奴、なんであそこで急にスイッチが入ったんだ?)
ザックはバッと目を見開くと、傍らで能天気に試合を見物している部下たちの肩を乱暴に叩いた。
「おい、カイ! キース!」
「やっぱりすげーっすね。うちの将軍は。手ぶらでSランクをボコボコっすよ」
目を輝かせて歓声を上げているキースの後頭部を、カイが呆れたように小突く。
「バカ、キース。呼んでるぞ。……なんです? 副長」
「アザレアという女を調べてくれ」
ザックは声を潜め、周囲に聞かれないよう二人に耳打ちをした。
「……それと、バルバロッサと言えば、あのバルバロッサだよな?」
「ええ。『良い子にしないとバルバロッサに殺される』の、あの大悪党バルバロッサしかいねぇでしょう」
カイの当然の返答に、ザックは顔をしかめる。
「エルマの奴、バルバロッサの名前を聞いた瞬間、イカレの方になりやがった。それまでずっと令嬢が上手くやっていたのによ。……何かある。裏を取れ」
「とりあえず、了解っす。手下どもに探りを入れさせます」
ザックの真剣な眼差しに、二人の部下もただ事ではないと察し、表情を引き締めて頷いた。
* * *
(……チッ、温い攻撃しやがって。こんなのにも骨砕きを抜いてしまうのも見積が甘すぎんだろ、小娘)
『……反論の余地がない』
悪鬼は内心でダメ出しをしながら、ベルーザの懐に深く潜り込んだ。
そして、男の顔面スレスレで地を這うような低い声で囁く。
「甘ったりぃ。――クソして寝ろ。じゃあな、教育的鉄拳だ」
「あ……?」
ベルーザの瞳に、極大の殺気を纏った「本物の悪鬼の幻影」が映り込んだ。
全身の血が凍りつき、心臓が握り潰されるような絶対的な恐怖。彼が追い求め、超えようとしていた父親の強さが、目の前の可憐な少女の姿と重なる。
「オラァッ!!」
直後、悪鬼の蹴りがベルーザの鳩尾に深々とめり込んだ。
「ゴフッ!? 鉄拳って……」
そして、力なく声を上げてベルーザの意識は刈り取られ、闘技場の地面へと崩れ落ちたのだった。
* * *
静寂。一拍置いての大歓声。特に女性の声が大きい。観客は興奮冷めやらぬ様子でエルマを讃える。黒曜の牙が等はもうどうでも良いとでも言うが如く、その力を讃えている。
司会がエルマに駆け寄ろうとしたその瞬間、空気が揺れた。
「見事だぞォォォォ!」
闘技場の観客席の最上段から、大気を震わせるような野太い咆哮が降ってきた。
突如、上空から巨大な質量が落下してくる。
轟音と共に、悪鬼の数歩先に猛烈な土埃が爆発するように舞い上がった。
やがて、濛々と立ち込める土埃が風に流され、視界が晴れていく。
そこに現れたシルエットを見て、エルマの脳裏に最初に浮かんだ素直な感想は――『デカい』。ただそれだけだった。
思わず見上げた遥か頭上に、その顔はあった。
小柄なエルマが二人分縦に並んでも届くかどうかわからないほどの、常軌を逸した規格外の巨体。大樹のように太い四肢。後ろに無造作に撫で付けた荒々しい白髪に、顔の半分を覆うほどたんまりと生やした分厚い髭。
修羅の国エルドラドを力で束ねる頂点。傭兵王グランディーク。その人だろう。
その巨漢は、見下ろす位置にいるエルマへ向けて、獣のように獰猛な笑みを浮かべた。
(ふは! グランディークだ! 相変わらずデケェなおい!)
内側で、悪鬼が懐かしい旧友に出会ったかのように、腹の底から愉快そうに嗤うのだった。




