16.甘ったりぃ飲み物だろう?
粗野な木材の扉をあけて蟲の掃き溜め亭に踏み入る。淀んだ空気に強い酒精の匂い。正面のカウンターでグラスを拭いているのは店主だろうか。グラスを拭く手を止めて、一瞬だけ怪訝な目をした後に低く、だがよく聞こえる声で言う。
「いらっしゃい。何にする?」
「そうだな。ミルクに蜂蜜とシロップをブチ込んでシェイクしてくれ」
荒くれ者たちがひしめく酒場『蟲の掃き溜め亭』。むせ返るような酒精の臭いが充満する中、青いドレスに金属の胸当てを纏ったエルマは、カウンターに座るなり涼しい顔でそう注文した。
「あー? おんなぁ、ミルクだぁ? そんなもんてめぇのとこに実ったそのでけぇのから出しゃいいだろうがよ!」
「ちげぇねぇ! げははは! おら、店主! 絞ってやったらどうだ? その後は上の部屋でも貸してくれよ!」
近くのテーブルで安酒を煽っていたゴロツキが、エルマの豊かな胸元へ下劣な視線を舐め回すように向け、下品な野次を飛ばす。周囲のゴロツキたちもそれに同調し、ゲラゲラと耳障りな笑い声を上げた。
「おい、お前ら酔っ払いすぎだぞ! 見るからにやべー連中じゃねぇか!」
エルマの背後に控えるザックやアレクたちの異様な威圧感をいち早く察知し、酒場の主人が血相を変えて傭兵たちを制止しようとする。
「あ? 知らねーよ! 性欲処理にでも――ぎゃァァァァァ!?」
傭兵が鼻で嗤おうとした、まさにその瞬間だった。
エルマは表情を崩すことなく、卓の上に置かれていたナイフを無造作に手に取ると、男の掌を分厚い木のテーブルごと躊躇いなく串刺しにした。
――誰も見えなかった。
刃が閃く軌道すら捉えられぬ神速の所業。ナイフを抜いて血を滴らせてのたうち回る男を一瞥もせず、エルマはただ静かに、運ばれてきたミルクのグラスへと手を伸ばす。
「言われたとおりに作ったが、それ旨いのか?」
店主が溜息交じりに聞いてくるが、エルマは微笑みを返すだけでそれに答えた。
『ハッ、甘ったるい』
たった一撃で酔っ払いとの格付けを終えた、その時だった。
「おい、てめぇら、見ねぇ顔だ。新参者が随分とデカくでてんじゃねぇか」
奥のテーブルを乱暴に蹴り飛ばし、一人の男が凄みを利かせて歩み出てきた。
無数の傷が刻まれた顔と、筋骨隆々の体躯。周囲のゴロツキたちが「あいつら終わったな」という憐れみの視線をエルマたちへ向ける。
だが、エルマはグラスのミルクを静かに啜るだけで、見向きもしない。
代わりに、背後に控えていた革のアレクが、重い足音を響かせて一歩、前に出た。
「あ? 新参者? 誰に口きいてんだ? 果実水のハウザー坊、股間から酒でも出るようになったか?」
低く、地を這うような野太い声が酒場に響く。
そのふざけた呼び名に、ハウザーの顔が怒りで赤黒く染まった。
「あぁ!? てめぇそのな、ま、え……え?」
相手を殴り飛ばそうと踏み込んだハウザーの言葉が、途中でピタリと止まった。
白濁した盲目の瞳。だらりと下がった動かない左腕。しかし、その身から放たれる、血に飢えた獣のような覇気。
「ア、ア、アレク……のアニキ!?」
ガクガクと膝を震わせ、信じられないものを見るように目を見開くハウザー。
「ハウザーさん! やっちまいましょうよ!」
「そうだ! そうだ! やっちまえ! 舐められてたまるかよ!」
「ハウザー! ハウザー! ハウザー!」
事情を知らない周囲の傭兵たちが、酒場の熱気にあてられて無責任なコールを上げ始める。
その熱狂のど真ん中で、当のハウザーだけが滝のような冷や汗を流しながら、必死に部下たちを制止しようと手を振っていた。
「や、やめろ、お前たち! そういうレベルの話じゃ……ッ! こいつは黒曜の!」
「よぉ、ハウザー坊や。偉くなったなぁ? 俺ぁ嬉しいぜ」
狼狽える男に対し、アレクは白濁した瞳を細め、嬉しそうに獣の牙を剥き出しにして嗤う。
「そうだそうだ。ここはエルドラドだ。らしいぜ。とてもらしい。お前のようにムカついたら『力』で示す必要があらぁな」
その一言は、傭兵の国における掟。
部下たちを背負い、この街で名を上げているハウザーにとって、これ以上戦わずに尻尾を巻くことは、戦士としての死を意味していた。
「ぐっ、ぐぅッ……! チィッ! アレク! 俺だって、昔の俺じゃねぇ、いくぜ!! オラァァァァァァ!」
ハウザーは血走った目で奥歯を砕けんばかりに食いしばると、大上段から渾身の拳を振りかぶり、決死の覚悟でアレクへ突進した。
「ハハハ! それでこそエルドラドの戦士だぜ!」
ハウザーの獣のような咆哮と共に、丸太のように太い腕から放たれた重い拳が、アレクの無防備な胸板へと深く突き刺さる。
鈍い衝撃音が酒場に響き、アレクの巨体は宙を舞って、そのまま背後の壁へと派手に叩きつけられた。
* * *
「ハウザー! ハウザー!」
「やっぱりうちの団長はつえーぜ!」
「次はあの女を犯しちまえ! ……!?」
歓喜に沸き返る傭兵たちの怒号が、不意に、ふつりと途切れた。
場が凍りつく。凍りついているのか? いや、違う。
熱い。肌が火傷しそうなほどの異常な熱気が、酒場の空間そのものを歪ませていたのだ。
その熱源は、壁にめり込んだまま俯く、あの男の巨体から放たれていた。
「うれしいぜ! 嬉しいぜハウザァァァァァ! オォォォォォォォ!!」
地を揺らすような咆哮。
壁から顔を上げたアレクは、獣のように牙を剥き出しにして獰猛に嗤っていた。
それは、黒曜の牙が開戦を告げる合図。腹の底を震わせるウォークライである。
それだけで理解する戦士としての格の違い、その圧倒的な覇気を真正面から浴びたハウザーは、ガクガクと両足を震わせた。蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまい、もはや生きた心地など欠片もしていなかった。
アレクから放たれる尋常ではない死の気配に当てられ、酒場のゴロツキどもは恐怖を振り払うように一斉に剣の柄へと手をかけた。
「いいぜぇ、抜いてみな。そしたら、生死不問だからな」
アレクは白濁した瞳を細め、低く嗤う。ただその一言だけで、酒場の空気が軋み、見えない刃を喉元に突きつけられたような重圧がゴロツキたちを襲う。
「やめろ、お前ら! 俺の獲物だ!」
一触即発の死地において、ハウザーが部下たちを庇うように声を張り上げた。
震える足を踏みとどまらせ、かつてその背中を目指した怪物と己の部下たちの間に立ちはだかる。傭兵団の頭としての、彼なりの命懸けの矜持。
「おうおうおうおう! ハウザー! 立派だなぁ! オラ、お返しだ!」
その漢気を見たアレクは嬉しそうに牙を剥くと、踏み込みの予備動作すら見せずに右の拳を突き出した。
「ごぶぅ!?」
ドンッ、と。ひどく地味で、くぐもった打撃音が響く。
ハウザーの分厚い胸板にアレクの拳が突き刺さるが、先ほどのように派手に吹き飛ぶことはなかった。ハウザーは足を踏ん張り、その場に立ち尽くしている。
その光景を見たゴロツキたちの顔に、パァッと安堵と喜色が浮かんだ。
「へなちょこパンチじゃねーか! びびらせやがって!」
「やっぱりハウザーの旦那の敵じゃねぇぜ!」
部下たちが口々に歓声を上げる。
だが、その呑気な声とは裏腹に、ハウザーは立ったまま、心の中で血を吐くような悲鳴を上げていた。
(骨が、揺らされた! 内臓が! 内臓が揺れてうごけねぇ!)
表面上の衝撃は皆無。だが、巨大な質量を一点に圧縮して内部へと浸透させるえげつない打撃。
ハウザーは白目を剥きそうになるのを必死の形相で堪えながら、ピクリとも動けない己の身体と、無駄に士気を上げている部下たちとの板挟みになり、内臓が揺らされる痛みに耐えるしかなかった。




