6.令嬢の嗜みですわよ?
ダリアを後にして北上を続けたベルベット率いる三千の軍勢は、やがて大河レーヌ川のほとりへと辿り着いた。
「急ぎ、浮橋を架けよ。数は最低でも五本だ」
馬を下りたベルベットは、冷たい水面を見つめながら素早く指示を飛ばす。
このレーヌ川を越えた先には、第二皇子アドニス派が陣取る激戦区が待ち受けている。万が一の際、軍を速やかに後退させるための退路確保は、指揮官として必須事項である。
「ゼラからの補給線は維持できておるな?」
「はっ。しかし、距離が延びている分、些か心許ないかと。東にはエルドラドやトラキアといった脅威も潜んでおりますゆえ……」
「承知している。だから、奴等がちょっかいを出してくる前にやらねばならん」
副官の懸念に短く応じ、ベルベットは対岸――北の方角へと鋭い視線を向けた。
レーヌ川のさらに先、そこにはラビィ王国の国境が存在する。
その方角を見据えていたベルベットの脳裏に、ふと、ある猛烈な違和感が過ぎった。
(……待て。先日の大戦で、ラビィの軍勢はどのようにしてダリア平原まであのような大軍を進めたのだ?)
ダリア平原での戦い。あの時、ラビィの弓兵たちは大軍をもって現れた。
だが、ラビィの国境とダリア平原の間には、今まさにベルベットの眼前を流れているこの巨大なレーヌ川が横たわっているのだ。あれほどの数の兵を、この大河を渡河させるなど通常の手段では不可能に近い。
(東部大戦が開戦する前、ラビィ国境付近を含む北東エリアの警備を管轄していたのは……第二皇子アドニスの派閥だ。あの時、レゼンとボーラはあえて西部へと配置されていた。なぜ西部なのか、違和感があったはずだ。あの時の西部といえば、ベールとディーズの国力を大幅に削った後で、比較的安定していた。わざわざ、あの二人を配置するほどの必要性を感じない)
第二皇子派の黒幕たち。
もし、彼らが意図的に自軍の国境警備を緩め、ラビィ軍を素通りさせたのだとしたら。
いや、それだけではない。大軍を迅速に渡河させるための物理的な手段――例えば、アドニス派によって秘匿された巨大な橋や、浅瀬の特殊な渡河ルートが、今もそのまま残されているのではないか。
「斥候を放て! そして、ゼラへの伝令も走らせよ。補給拠点へ手旗信号を送れ。内容は『違和感あり』だ!」
ベルベットが叫ぶと、すぐさま兵士の一人が、補給拠点から等間隔で配置された人員に向けて手旗信号を送り始める。
それを確認してから、ベルベットはモルス山脈から伸びるレーヌ川を、共同貿易エリアの方角――真東へと鋭く目を向けた。
直後、斥候が走っていった先の川縁で、と激しい爆炎が上がった。
「――ッ!? 警戒態勢!」
背筋を駆け抜けた悪寒に従い、ベルベットは即座に剣を抜き放って叫ぶ。
ジリジリと後退しながらも、眼前の異様な光景に彼は息を呑んだ。
大軍が、川の上を歩いている。
水面を滑るように、あるいは水面下に隠された見えない足場を踏みしめるようにして、数百、数千の兵が音もなく渡河してくるのだ。
その先頭を歩くのは、顎髭を蓄え、洗いざらしのような荒々しい髪に浅黒い肌をした男。
血に飢えたような野蛮な相貌。間違いない。第二皇子派の武の要、ボーラ将軍である。
「ここは俺のシマだぜ? 皇子サマ」
かつて大陸を荒らし回った大盗賊ゼノン。その本性を隠そうともせず、不敵に嗤いながら、彼は一直線にベルベットへと迫ってくるのだった。
「ボーラか。あいにくだが、ここは貴様の土地ではない。我がガルヴェリアの地だ。その身を大地に捧げよ。貴様の血肉も、肥料ぐらいにはなろう。――やれ」
ベルベットの冷徹な号令と共に、前線の帝国兵たちが一斉に槍を構える。
(……ボーラが正面から堂々と現れるなど、あまりに愚直すぎる。背後のレゼンと組み、いくつもの悪辣な策を張り巡らせていると見るべきだ。最前線を走るあの男すら、影武者である可能性すらあり得る)
ベルベットは手綱を引き、自らの馬を安全な最後方へと下げることはしなかった。
あえて前線の熱気を感じ取れ、かつ戦場全体を俯瞰できる陣形の中盤へと留まる。
剣の柄を握る手に力を込めながら、ベルベットは自ら前線に赴いて、自ら敵兵を切り裂いてやりたいという気持ちを抑えて次々と指示を飛ばすのだった。
* * *
ベルガの領主邸。その修練場の真ん中で、ライカは童顔の騎士カリオンと対峙していた。
「さぁ、はじめましょう。――ッ!?」
カリオンが爽やかな笑みで宣言した、まさにその瞬間だった。
金色の瞳を爛々と輝かせたライカは、悪辣な笑みを浮かべて修練場の土を思い切り蹴り上げ、カリオンの顔面へと容赦なく砂塵を浴びせかけた。
「始めましょうって言ったよなぁ?」
「エルマ嬢! 卑劣な! だが、美しい!」
両目を押さえて悶絶しながらも、カリオンはなぜか熱のこもった賛辞を叫ぶ。
「まぁ、待ってやるよ。そこの騎士さんたち、拭くもん渡してやれ」
「し、しばしまたれよ」
ライカの言葉に安堵したのか。カリオンは涙目で視線を外し、部下から差し出された手拭いを受け取ろうと顔を向けた。
『チャンス』
「オラァ! 敵を前に意識そらしてんじゃねぇぞ!」
「ゴフッ!」
布を受け取るより早く。死角から踏み込んだライカの鋭く尖らせた拳が、カリオンの鳩尾に深々とめり込んだ。
激痛にたまらず肺から空気を吐き出し、カリオンの身体が無様に「く」の字に折れ曲がる。それに合わせて、無防備な頭がライカの胸元まで下がってきた。
「良い位置にさがったな。よっ!」
「ガァッ!」
「鳥みてぇな鳴き声すんじゃねぇか」
ライカは下がってきたカリオンの後頭部に無造作に手を添えると、己の全体重を乗せて、修練場の固い地面へと容赦なく顔面を叩き伏せた。
「おお、頑丈だな」
顔面を打ち付けられたカリオンは、呻き声を上げながらもすぐさま立ち上がろうと身体を捩る。
だが、その必死の抵抗を嘲笑うかのように、次々と迫るライカのブーツの踵が、容赦なく彼の背中や肩をハンマーのように叩き潰していく。
ライカの全身から、濃密な覇気が立ち昇る。
ただの殺気や圧力という言葉では足りない。本来見えないはずのそのドス黒い闘気が、ベルガの騎士たちには陽炎のように揺らめいて、確かに目視できた。
「おいおい、まだ剣すら使ってねぇぞ? お? 聞いてんのか!? おいテメェ、返事しろや! 客が聞いてんだろが! 騎士だろテメェ!」
ライカは完全に抵抗する気配のなくなったカリオンの腹に馬乗りになると、その顔面へと嬉々として容赦のない殴打を浴びせ続けた。
「カリオン様ァッ!?」
「や、やめろ貴様! それ以上は――ゴブァッ!?」
慌てて止めに入ったベルガの騎士達だったが、ライカは彼らへ向けても遠慮なく拳と蹴りを叩き込み、次々と修練場の土に沈めていく。
「あぁ、ライドもやられてたな……懐かしい」
ザックはそれを腕を組んでつぶやく。あの状態の将軍は触れてはいけない。死に敏感なザックは絶対に近寄らない。
あっという間に死屍累々となった修練場で、返り血を浴びたライカは、悪辣な笑みを浮かべて残る騎士たちに告げた。
「めんどくせぇから早くギュスターヴに会わせろ。さもなくば、女の尻を追っかけて完敗した無残なスケベ騎士共という噂を国中に流すぞ。……ああ、俺は自分の容姿の良さを完全に理解している。可憐な令嬢が無理やり襲われたと、泣いて叫び回ることもできるんだぜ? 俺は気が長げぇが、早くしろよ」
ライカはそう吐き捨てると、呻く騎士達を修練場に残したまま、応接間へと赴き、ドカッとソファーに腰を下ろした。
「……またやったよ、うちの将軍」
ザックを含めた帝国兵達は、もはや止める気すら起きず、ただ遠い目をしてその光景を眺めることしかできなかった。
「姫様御立派です」
「……」
そう言うレイドルドにザックは特大の冷ややかな視線を向けるのだった。




