4.ハッ、行儀が良いもんだぜ
メトスの冷ややかな風が、広大なステップの草木を波のように揺らしていく。
帝都から南東方に広がるその平原の中央には、交易の要衝として栄える都市ゼラが城壁を構えていた。ラビィ、ゼーレ、トラキア、エルドラドの共同貿易エリアからもほど近く、様々な物資と野心が交錯する活気ある街だ。
ここを治めるのは帝国の名門、黒百合に鷹の旗印を掲げる『鉄壁』の老将、バモン・ドーラ。
先日、帝都から大軍を率いてこの自領へと帰還した彼は、軍議を終えたばかりの執務室で、机上に広げられた地図を苦々しい顔で見下ろしていた。
「……厄介な盤面だ」
バモンは分厚い指で、地図上の帝都より北西の領域をトントンと叩く。
北西のダダリア方面は、猛将ファラリスの力が強い。第三皇子の絶対的な勢力圏だと見るべきだろう。
一方、レーヌ川を境にした帝都の北から北東にかけては、第二皇子アドニスが深く根を張っている。アドニスの傍らに控えているあの軽薄な笑みを浮かべた男と、野蛮な面構えの山賊の狡猾さを思えば、帝都近郊の要衝アルトも既に奴らの手に落ちていると警戒しなくてはならない。
バモンは窓の外、広がるステップの地平線を見て目を細めた。
つい数年前までは、ただの飾りとしか思っていなかった第六皇子フォルテ。彼が先ほどの軍議で示した策が、老将の脳裏に蘇る。
『まずはゼラからアズガルド山脈の関所バレリィまでを繋ぎ、その先のヴィクトリア砦を獲ろう』
そして、フォルテは続けて言った。
その後方支援として、彼が絶大な信頼を置くあのライカ・ローサが控えているのだと。
バモンは白髪交じりの顎髭を撫で、深く息を吐き出した。
皇子の策もわからないではない。現在保有する戦力をバモンの領地に収めておくのには無理がある。だから、獲りやすい所を獲って数に見合った戦線をとりたいのだろう。だが、軍略としてはあまりにも危うい。
ここゼラの背後には、神聖アスタロッテという狂信者どもの巣窟が口を開けているのだ。
少し前、ライカ・ローサは異端審問という名目でその地へ呼び出された。狂気に染まったあの国で、異教の将軍がまともな扱いを受けるはずがない。五体満足で生還できている保証すら、今のところどこにもないのだ。
さらには、目標とするバレリィ。
あそこは田舎国オルディスを繋ぐアズガルド山脈の要所ではあるが、その向こう側は未だ不透明な敵地。背後にアスタロッテという爆弾を抱えたまま、あえて危険な国境の関所を率先して獲りに行くという采配には、軍人としてどうしても首を傾げざるを得なかった。
「殿下はあの銀狼を買い被りすぎではないか……?」
ぽつりとこぼした老将の懸念。
それを年甲斐もない嫉妬でもあるかと一笑に付したバモンは、気を引き締めてカルロスの下へ向かうのであった。
* * *
「……なんで俺が、こんな真似を」
神聖アスタロッテとトラキア王国の国境。冷たい風が吹き抜ける荒野にあるトラキアの関所を前に、ザック・ローは死んだ魚のような目で深く、深く溜息を吐いた。
彼の腰には、かつて王国最強と謳われた老将ルーク・ファネリアから託された宝剣『オーラリス』が吊るされている。
そして、ザックの背後には同じく王国の騎士であったレイドルドが、神妙な面持ちで控えていた。
「立派です、ザック殿。今の貴方は間違いなく王国の『ナイト』の威風を纏っておられる」
「頼むからおだてないでくれ。胃液が逆流しそうだ」
レイドルドの真面目な称賛に、ザックは恨めしそうにボヤく。
少し前、アスタロッテの簡易神殿で満面の笑みを浮かべた上司から下された無茶振り。
『騎士ってのは高潔だからさ。同じ騎士様なら色々通じるところはあると思わない? ザック、オーラリスを掲げて行ってこい。更に、ルーイから神聖国家の神託を付けてやった。すごいぞ、ザック、お前は勇者になった。栄光の騎士様に挨拶しにいくってのは自然だろう?』
そんなことを宣った張本人はローブを深く被り、護衛のフリをして飄々とついてきている。
思い出すだけで胃に穴が空きそうだ。
これから会うのは、あのダリア平原で圧倒的な死の気配を撒き散らしていた大陸最強のバケモノ、ギュスターヴ・アレクサンドライトなのだ。ライドの命と引き換えに、這々の体で逃げ出した相手の懐に、たった数名で乗り込もうというのである。正気の沙汰ではない。
「……だが、行くしかねぇよな」
ザックは首元で揺れる、ライドの遺した布のお守りをぎゅっと握りしめた。
かつての彼なら、ここで恐怖に足を竦ませ、無理やり前へ踏み出そうと踠いていただろう。だが、ルークの背中を突いたあの日から、心臓は早鐘を打っていても、決して膝は震えなかった。
こんな所で怯えを晒していては、背後でローブを被ってニヤついているであろうイカれた将軍の副長は務まらないのだ。
凡人には凡人の意地がある。あの女が盤面を整えると言うのなら、副長として任務を全うするまでだ。
「オルディス王国『ナイト』の称号を継ぎ、さらには神聖アスタロッテより神託の戦士と任命されし者、ザック・ローである! 栄光の騎士、ギュスターヴ・アレクサンドライト卿に使者として面会を願う!」
トラキアの関所に向かって、ザックは腹の底から、裏返りそうになる声を必死に抑え込んで名乗りを上げた。そして、慌てて出てきた守衛にオルディス、アスタロッテの署名が入った書簡を手渡す。
「お、お待ちを! 直ちに上官に取り次ぎますので!」
更に慌てて奥へ走っていく守衛の背中を見て、ザックは遠い目をして深々と溜息をついた。
(可哀想に……また、エルマの被害者が一人)
トラキアの中心部からすれば、ここは南の辺境の地である。アスタロッテとオルディス、二ヶ国の国家印が入った共同書簡を事前連絡もなしに突然持ち込まれることなど、彼らの常識の範疇を優に超えているのだ。ザックは理不尽な上司に振り回される者同士の悲哀を、ただ一人噛み締めていた。




