1.帝都の夜は静かですわね
大陸歴一四五三年、メトスの季節も中盤に差し掛かった頃。
帝都の片隅に位置する第六皇子フォルテ邸は、深い夜の静寂に包まれていた。
フォルテは自室の机の燭台に灯りを灯し、分厚い戦術書に視線を落としていた。
あの大戦から帰還して以降の数日間は、彼にとって奇妙なほどの「凪」であった。だが、彼は決して歩みを止めない。
自身が武力において無力であることを、誰よりも自覚しているからだ。だからこそ知識を貪り、古今東西の軍略を漁り、あの人が残していった手勢を使って盤上の模擬戦を繰り返す。それが彼にできる唯一の、戦場に立つための研鑽だった。
本を繰る手を止め、フォルテはふと窓の外の暗闇へと目を向けた。
数日前、神聖アスタロッテへと出立していったライカたちの背中を思い出す。
苛烈で、冷酷で、底知れぬ暴力性を孕みながらも――どこまでも美しい、銀色の将軍。
もし今、誰かに「フォルテ殿下の初恋は?」と問われれば、彼は一切の迷いなく『ライカ・ローサ将軍だ』と即答する自信がある。
それは少年らしい甘やかな恋慕ではない。戦場という死地において、圧倒的な力で自分を導き、盤面を支配してみせた絶対者への、信仰にも似た狂気的な憧憬だった。
「……それにしても、まさか本当に神様になっちゃうなんてね」
フォルテは思わず、呆れ交じりの乾いた笑いを漏らした。
先日、アスタロッテからリルハと名乗る、やけに男の目を引く魅惑的な修道女が密使としてやってきた。彼女の口から語られたのは、ライカが邪神を討ち滅ぼし、アーティア様として国を掌握したという、常軌を逸した報告だった。
流石の彼も、これには頭を抱えるしかなかった。
一個人の許容範囲というものがある。あの非常識な将軍のことだ、国の一つや二つを乗っ取るのは想定内、想定内……だが、まさか信仰の対象にまで成り上がるとは。なんと罪深く、眩く輝く人だろうか。
フォルテは、アスタロッテで何が起きたのかをあえて深く考えないようにして、ただ言われた通りにアズガルド山脈の関所を抜ける手続きだけを済ませたのだった。
(今頃、オルディスで大暴れしている頃かな……)
あの頼もしくも恐ろしい背中に思いを馳せ、再び戦術書へと視線を戻そうとした、その時だった。
――ぞわり、と。
フォルテの肌を、冷たい針で撫でられたような嫌な空気が撫でた。
「……?」
皇宮デズロードが位置する、帝都の中枢の方角からだ。
なぜだか、空気が重い。戦場に出ていなければわからなかった感覚だ。
フォルテは本を伏せ、素早く立ち上がって窓を開け放った。
冷たい夜風が部屋に吹き込む。
フォルテの澄んだ青い瞳が、限界まで見開かれた。
皇宮の高台から、無数の松明の光が列を成し、まるで巨大な炎の蛇のように、こちら――第六皇子の別邸へ向かって真っ直ぐにうねり進んできているではないか。
「まさか……」
こんな深夜に、あれほどの軍勢が動く理由。
フォルテの優秀な頭脳が、最悪の事態を瞬時に弾き出した。
「殿下!?」
「皆! 集え! 狼と薔薇の隊、非常事態だ! 集え!」
「御意!!!」
流石は、あのライカ将軍に鍛え上げられた兵士たちだ。深夜の奇襲にも関わらず、誰一人として疑問を挟むことなく、瞬時に頭を切り替えて非常戦闘態勢へと移行する。
「本隊! 館前方から来る敵軍を牽制せよ! 無理はするな。遊撃隊が退路をつくる。徐々に後退しつつ、帝都を脱出するぞ!」
フォルテは素早く愛馬に跨り、館の広場から迫り来る松明の列を睨みつけた。彼の背後には、臨戦態勢を整えた狼と薔薇の手勢が続々と集結してくる。
(全く、趣味の悪い。だれだ?)
松明の大軍は、ほどなくしてフォルテ邸の門前へと到達した。帝国の正規兵の重厚な武具に身を包み、整然と並び、隙なく武器を構えている。
その先頭にはためくのは、『銀冠の青獅子が牙を剥く』旗印。
「よぉ、夜更かししてんな。なぁ? ベルベットは知らねえか?」
軍勢の中央から、重い足音を立てて歩み出てきた男がいた。
ファラリス・ゾーラ・ガルヴェリア。帝国の第三皇子だ。
獅子を思わせる燃えるような赤銅色の髪。そして何より、暗闇の中でも獲物を狙う肉食獣のように、爛々とギラつく青い瞳が、逃げ場のない殺気を伴ってフォルテを射抜いていた。
「……お互い様ですよ。こんな夜更けにきて、また酔っぱらっているんですか?」
冷や汗を流しながらも、フォルテは決して目を逸らさず、不敵な軽口で打ち返した。
「突然来るもんですから、このような歓待しか準備できていませんよ」
表面上は余裕を装いながら、フォルテは内心でホッと胸をなでおろしていた。
『ベルベットを探している』ということは、第四皇子ベルベットはまだファラリスの手に落ちておらず、逃げ延びているということだ。盤面はまだ詰んではいない。
「いいや、なかなかのもんだ。流石、我が弟の一人だ。こんなすぐに戦力を集めるとはな。やはり、狙っているな?」
「……話が見えませんよ。兄様」
すぐに戦力を集めることが出来るこの軍への恐怖か? ライカを擁した自分への恐れか?
「アドニス兄上がレゼンとボーラを使って調査したそうだ」
ファラリスが瞳を爛々と輝かせ、憎しみに満ちた表情で告げる。
「ディーン兄上を毒殺し、あまつさえ御父上の意識を刈り取った者がいる」
「……ああ、そういうことですか」
「調査結果は、十中八九、お前らダイタスの仕業だ」
茶番だ。とフォルテは思った。あまりに馬鹿馬鹿しく、白々しく、言いがかりも甚だしい。だが、第二と第三皇子のゾーラ家がそういえば、そうなってしまう。つまり、権力争いはその段階まできているということだ。
「兄上」
「なんだ? 観念して死ね」
「いいえ兄上。――お前が死ね」
フォルテは氷のように冷たい青の瞳で、兄を真っ直ぐに射抜いた。
不思議なことに己の非力な足は恐怖で微かも震えていない。彼の背後には、あの銀狼が残してくれた屈強な兵士たちがいるのだ。盤面を支配する者として、圧される理由は微塵もなかった。
「――放て!!」
フォルテが右手を高く振り下ろす。
それを合図に、狼と薔薇の隊の迎撃が火蓋を切った。別邸の屋上や暗がりから、ファラリスの軍勢へ向けて一斉に無数の矢と煙幕が放たれる。
「フハハハハ! 第三皇子の腰抜け兵士共! 夜は人肌恋しいかぁ!? おじちゃんたちが添い寝してやろうか? 坊ちゃんたち!」
「ちげぇねぇ! おいおいでもよぉ、おめぇみてぇなキタねぇ顔みちまったら、お上品なあいつらは漏らしちまうぜ!」
「てめぇ! キタねぇっていったか!?」
「どうみたら綺麗に見えるんだコラ! あ?」
あの将軍にしてこの兵あり、とフォルテはちらりと屋上から矢や毒煙を投げ込んでいる兵を見た。
「撤退戦だ! この場で付き合うな! 帝都の裏路地へ引き込め! 帝都を出たらジークデンに向かうぞ!」
ジークデンへ向かうぞ。それは狼と薔薇の隊で訳すと東部に行くぞの意となる。
怒号と爆音で皇宮の夜が引き裂かれる中、若き知将は自らの手駒を操り、帝国屈指の猛将へと死闘を挑むのであった。




