36.呪われた血
「あー……うー……お、ゆーべーるか! おっこちる、おっこちるぞー!」
王宮が攻め落とされようとしているこの状況下で、王は虚空に向かってよだれを垂らし、幼児のように手を叩いて奇声を上げている。
傍らに控える侍女は、顔面を蒼白にしながら、ただ震える手で王の口元を拭うことしかできていない。
「これが……我が仕えた、オルディスの王なのです……」
レイドルドが、悲痛な声で呟く。
(ふん、良い手だ。盾をここに数名残しているのか。人質は数と使い道だからな)
『自国の民を人質扱いか』
(まぁ、いい。交代だ。ここはお前の領分だ)
『わかっている』
瞬時に黄金が消え、静かな菫色の瞳へと戻った女将軍は、風のように駆けた。
感情もなく人質に武器を向けている親衛隊を、一刀のもとに斬り伏せる。侍女が悲鳴をあげ、王が楽しそうに奇声をあげる。
「薔薇の騎士団のレイドルドだ! 民よ、こちらへ!」
即座にレイドルドが民を部屋の隅へと避難させた。
――それを合図に、彫像のように立ち尽くしていた数十名の親衛隊が動き出す。裏庭の者と同様、彼らからは一切の感情が読めない。
だからこそ、エルマは尚更冷酷になれた。容赦なく首を刎ね、大剣『骨砕き』を叩き付けて次々と粉砕していく。
瞬く間に血の海となった玉座の間。
エルマは静かに王へと近づき、血塗られた切先をその喉元へと突き付けた。
「お初にお目にかかる。エルマ・ベルンだ」
「べるんか。べるんかぁ……つめがはげてみんなしんだ」
王は焦点の合わない濁った瞳で宙を見つめながら、ゆらゆらと首を揺らしてうわごとを続ける。
「そうだ。戦士が死んだ」
「きれいなすずがなって、る。おちちうえはすべりおちる、つめ、も、はげる。つかえる、せつなを、ははうえはのぞむ。せつな? ここ、で、つか、う、べき」
「うん?」
「ここ、だ。ここ、もう、す、こし、もうすこし。えるま……エルマ・ベルン」
不気味な羅列。だが、その声のトーンが、唐突に幼児のそれから低く落ち着いたものへと変化した。
「オルディス王……?」
エルマが怪訝に眉をひそめた、その時、濁りきっていた王の瞳に澄み切った理性の光が宿った。
よだれに塗れた顔を侍女に拭わせる。王は真っ直ぐにエルマの菫色の瞳を見据え、告げた。
「巨狼の子、腐り落ちた我が身に名などない。見たであろう、王家の純血という呪いを」
王が言葉を紡ぐ度に唇の端から血を滴らせる。
「……」
「血を重ねるごとに淀み、肉体は腐りゆく。その結果、印の王として自我を抑えられ、秘宝に活かされた象徴だけの王が出来上がった」
痛ましき王の独白。そして、その瞳の理性の光が再び急速に明滅し始めた。 時間がない。
「せつめいは終わりだ。あとは端的にのべる。ユベールをとめてくれ。あれはじゃしんの。そし、て――私を殺してくれ。……これだぁーこれぇーおっこちるー」
王は自らの胸元をはだけさせ、体に深く食い込む鎖と、禍々しく脈打つ宝玉を見せつけると、再び焦点の合わない狂人へと戻っていった。
(こいつは、帝国の秘宝にそっくりじゃねぇか)
悪鬼が内心で怪訝に眉をひそめる中、エルマは静かに大剣を構え直した。
そして、狂ったように笑う王を冷徹に見下ろし、冷たく言い放つ。
「王よ。貴方は罪の塊だ。だが、それは押し付けられた罪だった。そして、貴方に神も救いもなかった。だから、敢えて私が言おう」
白銀の刃が、高く振り上げられる。
「死ね。それがお前にできる唯一の懺悔だ」
一閃。
『骨砕き』の分厚い刃が王の胴体に食い込んでいた呪いの鎖ごと、その肉体を容赦なく両断した。
エルマは空いた左手で、千切れた鎖から宝玉を乱暴に剥ぎ取ると、そのまま返す刃で――王の首を、鮮やかに刎ね飛ばした。
「ひ、ひぃぃぃぃぃぃぃっ!?」
「あぁぁッ! 王様っ! 国王陛下ァァッ!!」
王の血飛沫を顔に浴びた侍女たちが、鼓膜を劈くような悲鳴を上げて腰を抜かす。
彼女たちは恐怖に顔を歪め、後ずさりながらガタガタと震える。
王が何を思っていたのか、最期に何を見ていたのか、それは王にしかわからない。だが、その顔は憑き物が落ちたように、ひどく安らかな表情を浮かべていた。
「姫様……」
部屋の隅で民を護衛していたレイドルドが、主君の死を前にして、静かに目を閉じ、胸の前で深く剣の礼をとった。
元王国の騎士として、これを重い覚悟と共に受け入れたのだ。
エルマは、震える侍女たちに視線を向けることもなく、手の中の宝玉の感触を確かめながら、静かに告げた。
「泣き喚いている暇はない。生き残りたければ、レイドルドと共に部屋の隅へ退がれ。 …… 来るぞ」
――階下から、ズルリ、ズルリと重い肉を引きずるような異音が近づいてくる。
それに呼応するように、玉座の間に転がっていた親衛隊の遺体が不気味に脈動し始めた。
「ああ! ここにいたのかい! 君はなんと奥ゆかしくも恥ずかしがり屋なのか!」
開け放たれた扉から姿を現したのは、息を切らし、脂汗に塗れた顔を狂喜に歪ませるユベールだった。
だが、真に恐ろしいのはその後ろだ。
ユベールの背後には、多くの死体が融合した巨大な『肉塊』が悍ましく蠢いていた。脈動していた広間の遺体たちが、見えない糸に引かれるようにその肉塊へと引きずられていき、グチャグチャと音を立てて次々と吸い込まれ、さらに肥大化していく。
その異形の化け物を、無感情な三人の近衛兵が『火弾槍』を構えて護衛していた。
「君の為に! 君を取り戻すために! 僕は何でも利用するよ! 帝国の醜い将軍も! 汚い邪神教も!」
ユベールは、背後の冒涜的な化け物には目もくれず、ただ己の愛と傲慢さを誇示するように叫ぶ。
『邪神教……また、サハグか』
(モテねぇ奴がトップだと使う奴もこうなるわな)
玉座の間を汚す最大の元凶を前にして、令嬢と悪鬼は内心で冷ややかに吐き捨てた。
肉塊は多くの顔を持つ。それぞれが叫び、嘆き、怨嗟の声あげる。
レイドルドは嫌悪に顔を顰め、部屋の隅へ避難した民の中には、そのおぞましさに耐えきれず嘔吐するものすらいた。
『なんと悍ましい……』
(倒す相手に好き嫌い言ってんじゃねぇ。そんな暇あったら少しでも何かを見つけろ。そら、あいつは生きている人間は吸い込まねぇ。死体に釣られるんだよ)
『そうだな。あとは、ユベールに付き従っている。あの光る指輪で操作しているのは明白だ』
肉塊の狙いはユベールの狙い。そして、操作をするのがユベールである以上、知能でいえば彼を越えることはないだろう。で、あれば。
(やりようはいくらでもあるぜ)
心の中で悪鬼が獰猛に嗤ったその時だった。ユベールの死角となる柱の陰から、気配を完全に殺していた影が、音もなく飛び出した。
一閃。
ユベールとすれ違い様に白刃が閃き、ユベールの指が数本、光る指輪ごとポトリと床に落ちた。
「ギャアアアアアアア!?」
己の指が切断されたことに気づいたユベールが、一拍遅れて鼓膜を劈くような絶叫を上げる。
コントロールの指輪を失った肉塊の化け物が、ピクリと不気味に震え出した。
だが、その影は残心を取ることもなく一直線にエルマの元へと駆け戻ってくる。
「殺しちゃ、いけねぇってことだから、な。これ以上は流石に、無理だ、ぜ」
ザックだった。彼は血の気を失った顔で親指を立てながら、ズルズルと壁に背をもたれかける。無理な一撃で傷口が完全に開いたのか、両肩からはドクドクと血が滴り落ちていた。
「流石、ナイトね」
己の復讐のために獲物を残してくれた副長へ。
エルマはかつての心優しい令嬢としての、労いと深い感謝の微笑みを向けるのであった。




