33.火の気配
レイドルドを先頭に、暗く狭い隠し通路を進む。
途中から、ふくらはぎに容赦ない負荷がかかるほどの、急な登り坂へと変わった。
「ハァ、…… ハァ、…… ッ」
背後から、押し殺した荒い呼吸が聞こえる。
ザックだ。 一歩進むたびに激痛を噛み殺している。 すこし傷口が開いたのか、ほんの少し滴る血が暗がりに黒い染みを作っている。
エルマが思わず足を止めようと振り返るが、ザックは血の気の失せた顔で不敵に牙を剥き、顎で「前を向け」と促した。
余計な同情は無用。 己の足でこの勾配を登り切る。 ザックの意地が、その爛々とした瞳に宿っていた。
やがて、冷たい風が吹き抜ける。
通路の出口は、王宮の裏庭へと繋がっていた。ほんの少し乱れた息を整えながら、エルマは手すりに手をかけ、眼下に広がるオルディス城下を見下ろす。
円形の城壁に幾重にも囲まれた、巨大な城塞都市。 上から見てみればなんと機能的なことか。
――その時だった。
静寂を暴力的に引き裂く轟音が王都に響き渡った。
突風のような爆風の余波が、王宮の裏庭にまで吹いてくる。
エルマが反射的に目を向けた先――王都の一角から、空を真っ赤に染め上げるほどの巨大な炎の柱が立ち昇っていた。
ファネリア侯爵邸だ。
かつて祖父母が暮らし、数分前まで温かい紅茶を酌み交わしていたはずのあの美しい屋敷が、猛烈な爆炎の中で崩落していくのが見えた。
「…… っ、あ……」
エルマは呆然と、その紅蓮の光景を見つめることしかできなかった。炎の中で崩れる街。ベルンとも重なる。
なぜだ。 おばあ様は私を送り出してくれたはずだ。
帝国将軍となった孫娘の背を押し、民の未来を託してくれた。 それなのに、なぜ死を選ばなければならなかったのか。ああ、帝国将軍の背を押したから……その責任を取った? いや、でも……。
答えなど、いくら思考を巡らせても出てこない。
だが、別の物はとめどなく溢れてくる。堰せきを切ったように、熱い涙が頬を伝って流れ落ちた。
(…… なぜだ? 私は、復讐を誓った大悪令嬢のはずだ)
ベルンを焼かれ、日常を奪われ、すべてを壊し、憎むと決めた。
そもそもが不思議だった。カリスタもルークも、自分の記憶にはない「他人」だ。と王都にくるまではそう言い聞かせていた。 ただ血が繋がっているというだけの、見知らぬ老人たちだ。ここまで悲しむ理由など、どこにもないというのに。
だが、掌に握りしめた隠し通路の『鍵』の冷たさが、ドレスの裾に残る、抱きしめられた時の祖母のバラの香りが、この髪飾りが、ザックが命を賭して、エルマに「肉親殺しの業」を背負わせまいとしたその事実が。
彼女の奥底にある「エルマ・ファネリア」としての心を引き裂く。
「う、あ……、ぁぁ…… ッ」
(最高だ。とっても綺麗だぜ。マダムカリスタ)
心の中で悪鬼が喝采をあげる。それすらも今は気にならない。
漏れ出そうな嗚咽を抑えるようにエルマは唇を噛んだ。
涙で滲む視界の向こう、ファネリア邸の炎はなおも燃え盛り、まるで「すべてを背負って進め」と彼女の背を焼き焦がすように猛り狂っていた。
「エルマ、行こうぜ。あの婆さんの誇りを傷つけてはいけない、と思う」
ザックがエルマの肩を叩き、そして、彼女の金の髪を隠すように、頭からすっぽりと外套のフードを被せた。
「ザック、オーラリスを少し貸して」
「あ? ああ」
ザックから、ルークの遺志が宿る『オーラリス』を借り受ける。抜き放たれたオーラリスは白昼の光を反射し、眩しいほどの輝きを放つ。
エルマはその美しき刃を、濁った空に向かって天高く掲げた。
「私はエルマ・ファネリア! ファネリア最期の戦士としてここに偉大な先代たちを弔うものとする!」
そういって、オーラリスをザックに戻すと、骨砕きを担ぎ、つづけた。
「私はエルマ・ベルン。王国を――いや、ユベールを殺す復讐の戦士だ」
「おうよ。帝国に戻ったらまた名乗りを考えねぇとな」
「抜かせ」
冷たく返したエルマの唇の端が、ほんの少しだけ和らぐ。
燃え上がる炎の柱を背にして、エルマは一歩踏み出したのであった。
* * *
「逝ったか。相変わらず、固い夫婦だ」
盲目であるアレクの瞳に、その光景は映らない。
だが、動かない左腕に鼻先をすり寄せる愛馬ティッタを撫でながら、彼はその巨体に叩きつけられる強烈な熱波と、空気を震わせる猛烈な崩落音を、真っ直ぐに受け止めていた。
かつて、ガルムと共に滞在したファネリアの屋敷。
光を失っているからこそ、アレクの脳裏には、在りし日の情景が痛いほど明瞭に浮かび上がる。 肌を焦がす現実の熱波が、終わりを彼の心に焼き付けていた。
「偉大なファネリアの戦士たちに、黙祷」
低く、しかし戦場の喧騒を圧して、アレクの重い声が響き渡った。
無数の金属の鈍い音が、大地を揺らした。
彼に従う屈強な帝国兵たちが一斉に武器を置き、片膝をついて深く首を垂れる。 救済された王都の民たちもまた、震える手を組み、涙ながらに石畳へと平伏した。
爆炎が天を焦がす轟音が響く中、敵も味方も関係なく、そこにいる数万の人間がただ静かに、誇り高く散った気高き夫婦へ祈りを捧げていた。
* * *
王宮最奥の王の間はすでに濃密な血の匂いで満たされていた。王は相変わらず王座でよだれを垂らしている。
「貴様がスパイか?」
「ひぃっ、ち、違いま――」
弁明は最後まで続かなかった。
無造作に振るわれた剣が、広間から無差別に引きずり出された平民の首をあっさりと刎ね飛ばす。
ゴトリ、と転がった首を一瞥もせず、ユベールは玉座の前の豪奢な絨毯に広がる血溜まりを踏みにじった。
苛立たしい。 ルークは敗れ、忌々しい帝国軍がすでに貴族街まで雪崩れ込んでいるという。 悉く計画通りにいかない。 無能どもが純愛の足を引っ張る。
ユベールは血に濡れた剣をだらりと下げたまま、誰もいない虚空に向けて、不意に蕩けるような甘い声を出した。
「もう少しだ。もう少しで迎えにいくからね、アデレータ。 こんな薄汚れた国で、君を待たせるわけにはいかないから」
「…… かっ、閣下! 正門より大軍です!」
狂った独り言を破るように、兵が部屋に駆け込んできた。
ユベールは虚空に向けた優しい笑顔のまま、ゆっくりと首を巡らせる。
「ふん。広間に民を押し込め。 足止めくらいにはなろう。――ッ!? はは! ははははは!」
「閣下!?」
不意に、ユベールの視線が、窓の外――王宮の裏庭へ走る。
王宮に向かって駆けてくる女がいる。マントとフードに隠れているが、その青いドレスは見間違えようがない。
ユベールの瞳孔が限界まで開き、歓喜の狂笑が玉座の間に響き渡った。
「お前ら、いくぞ。アデレータが来てくれたんだ。彼女を連れてエルドラドへ行こう」
「なっ……! 今は王国が――」
「喧しいぞ」
翻った白刃が、部下の胸甲の隙間を容赦なく切り裂いた。
驚愕に見開かれた目から光が消え、重い甲冑の音が響いて体が崩れ落ちる。ユベールとて、現状が絶望的であることくらい理解している。
だから、捨てるのだ。 こんな国も、王も、兵士も。
地下の水路から川を下り、王国の貿易船を使ってエルドラドへ渡る。 そこなら安全だ。 この国を捨てて、美しきアデレータと二人きりになれる新しい「楽園」を築けばいい。
「さあ、行こうか。私だけの女神よ」
狂王の瞳には、迫り来る帝国の軍勢への恐怖などない。 ただ、己の妄執が生み出した愛する女の幻影だけが、濁った光を放って映っていた。
ユベールは足早に歩く。火弾槍を持った兵士を引き連れて。




