31.薔薇園
カリスタは、ザックが手にしている剥き出しのオーラリスへと、スッと目線を寄せた。
彼女は微塵も表情を崩さず、再びエルマの顔を真っ直ぐに見つめ返した。
彼女は、ただ静かに微笑み佇んでいる。
それが『貴女から話すのですよ』という意味であることを理解するのに、エルマは数秒を要した。
口が渇く。
今まで経験してきた戦士の圧力とは、別の重圧。
数万の帝国兵で溢れ返っているはずの王都が、まるで水を打ったように静まり返っている錯覚に陥る。
エルマはどうにか口を開き、乾いた喉から音を紡いだ。
「あ、あぁ。ご挨拶、痛み入る。……して、マダム・ファネリア、何用だろうか。些か、貴女には似合わない戦場かと思われるが」
帝国将軍としての威厳を保とうとするも、その言葉尻はどこか上擦っていた。
そんなエルマの虚勢を、老婦人は斬り捨てる。
「レイドルドから聞きました。ライカ・ローサ様、貴方『ファネリア』を名乗ったそうですね」
「……ッ」
心臓を素手で掴まれたような衝撃。
エルマは息を呑み、将軍としての仮面を保てず、ただ力なく肯定の言葉を落とした。
「……はい」
「お茶の用意をしております。メルベル、案内なさい。ああ、ザック・ロー様も」
「はい、奥様」
カリスタの背後の影から、一人の女性が音もなく進み出た。
「将軍様。ファネリア家侍女のメルベルでございます」
彼女は敵意も殺意もなく、ただ純粋な作法をもってエルマの前に深く美しいカーテシーを捧げてみせた。
洗練されたその姿に、エルマはうっかり見惚れてしまった。
(これが侍女ってやつだな。シラけるほどに訓練されてやがる)
『あ、あぁ』
かつてのベルンの侍女を上書きするように、悪鬼は呆れたようにそう漏らす。
「あ、ティッタ……」
手綱を預かっていたトムがあわてて制止するも、一匹の黒馬が歩み出た。ゆっくりとカリスタの元へと近づいていく。
「あら、ティッタ。久しいわ。相変わらずの良い子だわ。少し痩せたかしら。仕方ないわ、貴方も来なさいな」
かつてアデレータと共にこの屋敷を旅立ったガルムの黒馬。カリスタは目を細め、優しくその鼻筋を撫でてやる。ティッタは嬉しそうに鼻を鳴らし、老婦人の手に甘えるように擦り寄った。
「どうぞ、こちらへ」
「俺もか。お前ら、待機だ」
メルベルに促されるまま、エルマとザックそして、ティッタは門を潜っていくのだった。
* * *
貴族街は、通り抜けてきた平民街とは異なり、視界が開けて見晴らしが良かった。高位貴族たちの広大な敷地が確保され、建物が密集していないためだ。
巨大な鉄格子の門をくぐり抜けたエルマたちの目にまず飛び込んできたのは、街の最奥、高い丘の上にそびえ立つオルディス王宮だった。その威容をこれでもかと主張している。
そして――。
その王宮へと至る直線上。まるで、王を守護する騎士であるかのように、ファネリア侯爵家の邸宅が鎮座していた。
代々、王国の剣として歴史に名を刻んできた武門の雄。その家名に相応しい、威圧感すら覚える広大な庭園。
メルベルの案内に従い、エルマとザック、そして一頭の黒馬は静まり返ったその庭園の奥へと歩みを進めた。
「メトスのこの時期に咲く薔薇は、アデレータも楽しみにしていたものです。ルーク様などは、よくわたくしにこの花束をくださったものですわ」
歩を進めたエルマ達を出迎えたのは、色とりどりの見事な薔薇のアーチだった。
その内側には棘が一つもなく、通り抜ける者を決して傷つけないよう、細心の注意を払って手入れされていることが窺える。
そのアーチの奥で、カリスタが静かに微笑みながらティーテーブルに腰掛けていた。
『……私は、お母様ではない』
かつて母が愛された箱庭の美しさを前に、エルマは内心で忌々しげに吐き捨てた。
マーサも、ユベールも、そしてこの祖母も。皆、私を通して母の面影を見ようとする。
(クク、どこまでもついて回るな。まぁいいじゃねぇか、薔薇ってやつは綺麗なもんだ。そら、よく見ろ。見事なもんだぜ)
『嘘だ。悪鬼、お前はそういった感性からは程遠いやつなはずだ』
(固いな。あぁ、固い。良いものは良いと認めるのもまた、戦士だぜ?)
『チッ……』
エルマの心の中で、悪鬼が愉快そうに嗤う。
破壊と闘争を好む悪党でありながら、本質的な「美しさ」や「強さ」には敬意を払う。それがバルバロッサという男の美学があった。
エルマは微かに舌打ちをすると、目を細め、祖母の待つティーテーブルへと歩み寄った。
「なりません。その歩き方はなんですか? ファネリア家の女がみっともない」
カリスタがスッと立ち上がり、エルマに歩み寄るや否や。
ピシャリと、彼女が手にしていた扇子でエルマの背中と膝が容赦なく叩き据えられた。
「背中は真っ直ぐ! 膝はそんなに開いてはなりません!」
「あ、え?」
帝国では猛将として知られ、トラキアの栄光の騎士とも対峙し、王国の剣と血で血を洗う死闘を繰り広げた帝国の将軍が、である。
突然の作法指導に、エルマは将軍としての威厳も殺気も吹っ飛ばされ、目をパチクリとさせて素っ頓狂な声を漏らした。
「エルマ! 早くなさい!」
「は、はい……ッ」
有無を言わさぬ祖母の叱咤に、エルマは反射的に背筋をピンと伸ばし、膝を綺麗に揃えてしまった。
もはやそこにいるのは、厳格な祖母に怒られて萎縮するただの孫娘であった。
(……おいおい、マジかよ。あいつが逆らいもせずにおとなしく躾けられてやがる……)
少し離れた場所で控えていたザックは、信じられないものを見るように目を擦り、ポカンと口を開けていた。
(クァーッハッハッハッハ!! 傑作だぜ小娘! 形無しじゃねぇか! ハッハッハ!)
そして、エルマの精神の奥底では、大悪党が腹を抱えて呼吸困難になるほどの大爆笑を転げ回っている。
『う、うるさいっ……! 体が、勝手に……!』
顔を真っ赤にして脳内で抗議するエルマだったが、カリスタの厳しい、しかしどこか母を思わせる温かい眼差しの前では、「将軍の仮面」を被り直すことができない。
「よろしい。では、お座りなさい」
「……失礼、いたします」
カリスタに促され、エルマはドレスにアーマーを纏った姿でありながらも、出来る限りの優雅な所作で、ティーテーブルの椅子へと腰を下ろしたのだった。
ほどなくして、メルベルがカップに茶を注ぐ。
彼女は純白の陶器に琥珀色の茶を、見事な手際で注ぎ分けた。芳醇な茶葉の香りが、鼻腔を擽る。
「どうぞ」
カリスタが静かに微笑む。
彼女はテーブルに置かれた受け皿には手を触れず、右手の指三本でカップの取っ手を優雅に摘み上げた。背筋を真っ直ぐにしたまま、カップの方を口元へと運び、音を立てずに一口含む。
それは「私から先に口をつけることで、この茶が安全であると証明いたします」という、上流階級における茶会の開始を告げる作法である。
エルマもそれに倣う。
先ほどの厳しい作法指導を思い出し、叱られはしないかと恐る恐る口に含む。
(おい、エルマ! 敵陣のど真ん中で出された茶だぞ! 毒見もせずに口をつけていいのかよ!?)
背後に立つザックが、冷や汗を流しながら視線で必死に訴えかけてくる。
だが、エルマは一切の躊躇いなくカップを傾け、温かい紅茶を喉の奥へと流し込んだ。
『……おいしい』
舌触り、香り、喉を通るわずかな刺激。そのすべてを瞬時に分析し、エルマは内心で安堵の息を吐く。
だが、彼女の精神の奥底では、大悪党が退屈そうに鼻を鳴らしていた。
(戦場ではないがこの婆さんはクソ真面目な戦士だ。毒殺なんざするタイプじゃねぇよ)
『悪鬼は勝てる?』
(俺に負けはねぇよ。逃げる時もあるがな)
エルマは、表情を崩さずにカップをソーサーへと戻す。
ザックは知らないのだ。ベルン領を出てから今日に至るまでの過酷な戦場生活の中で、悪鬼バルバロッサが、エルマの肉体にどれほどの「改造」を施してきたかを。
暗殺を防ぐため、そして戦場での生存率を高めるため。
悪鬼は、知る限りのあらゆる毒草や魔獣の毒を、日々微量ずつ彼女の食事や傷口に混ぜ込み、強引に耐性を作らせてきたのだ。
『最初は辛かった……』
今のエルマの肉体は、即効性の猛毒を致死量煽ったところで、せいぜい胃が少し熱くなる程度のスパイスにしかならない。
ただ、それを知らないザックが慌ててるのを見ると、幾分か緊張が解れていく。黙っておこうとエルマは思った。
カップを置いたカリスタが、静かにエルマを見据え、口を開いた。
「ルーク様は勇敢でしたか? エルマとして答えなさい」
「おじい様は、とても強くて気高くて、その、優しかったです」
「……そう。ずるいわね」
カリスタは溜息をついて聞こえないようにぽつりとそう漏らした。




