30.オルディスの淑女
剣が手から離れ、地面に落ちて乾いた音を鳴らす。
薔薇の騎士団長レイドルド・ハイドランドは、王国の剣が崩れ落ちるのをその目で目の当たりにした。
ルーク・ファネリアは王国の剣だ。負けることなどない。ずっとそう思っていた。
終わりだ。もう、王国は終わりだ。
『折れるな、王国の騎士よ』
だが、レイドルドの脳裏に、老将からかけられた言葉が蘇る。
レイドルドは地面の剣を拾い上げた。歯を食いしばり、あの女が待つ中央へと駆ける。剣は上段に。斬られても、そのあと死体になってでも斬って見せる。
彼の決死の特攻を前にして、敵将ライカ・ローサは、腕の中で事切れたルークをそっと地面に下ろした。
そして、瀕死のザックを駆け寄ってきた部下たちに預けると、静かに立ち上がり、レイドルドを一瞥した。
「エルマ・ベルンだ。……いや、今だけはエルマ・ファネリアだ」
『お父様。お許しください』
(どっちでもいいじゃねぇか)
レイドルドの足が止まる。止まってしまった。
敵将の口から紡がれた、その言葉が耳に入ってしまったからだ。
レイドルドは、改めて眼前の敵将――エルマを見る。
凛とした立ち振る舞いが、にじみ出る覇気が、王国最強の老将と重なっていた。
「ベルン、ファネリア……?」
レイドルドとて貴族の家に生まれた身だ。ファネリア侯爵の娘が傭兵のもとへ走り、辺境のベルンへという話くらいは知っている。
その言葉の意味を、そして眼前の敵将の正体を理解して彼は息を呑んだ。
「王国の剣は死んだ。我が軍が討ち取った。最大の障壁であった。無駄死にはするな。こちらも本望ではない。君がここですることは、死ぬことではない。この偉大な『ナイト』を、家に帰すことだ」
エルマは、誇り高き戦士として、倒れ伏したルークを振り返る。
そう言って、エルマは剣を収め、踵を返した。
帝国軍が、潮が引くようにゆっくりと退いていく。
王国の左翼も右翼も、すでに壊滅状態にあった。このまま一気に王都へ攻め入ることもできただろうに、帝国軍は――ライカ・ローサの軍勢は、レイドルドたちがルーク・ファネリアの亡骸を丁重に王都へと運んでいくまで、その場から一歩たりとも動かなかった。
それは、最大の敵として立ち塞がった偉大なる『ナイト』に対する、帝国軍からの最大の手向けであった。
* * *
王国の敗残兵たちが、ルークの亡骸を乗せた輿と共に王都の門の奥へ退いていく。
その光景を見届けながら、ザックが息を吐き出して言った。
「……俺もいくぜ」
ルークに両肩を貫かれ、立っていることすら奇跡のような満身創痍の状態で、彼は剣を杖にして王都へ向かって足を踏み出そうとした。
言った本人は大真面目なのだろうが、周りがそれを理解するのには数秒かかった。
「ふ、副長!? だめですよ! これ以上血を流したら死んじまいます! ベレスと一緒に、早く後ろに下がってください!」
慌ててロッジたちがザックの両脇を抱え、必死に引き留める。
「脇はやめろ! お前ら! 離せ……。俺は、行く……」
「た、隊長……! 隊長からも言ってくださいよ!」
泣きそうな顔の部下たちに助けを求められ、ライカは振り返り、ボロボロの副長を静かに見つめた。
「……東がそろそろ来るはずだ。今日は終わろう」
アスタロッテと挟みうちをする。それが本来の作戦だ。
戦略的な理由と共に簡潔に言い渡す。だが、それがザックの状態を慮った彼女なりの不器用な気遣いであることは誰の目にも明らかだった。
(……悪党に成りきれんやつだ)
『私は復讐者だ。悪党を目指しているわけではない』
(ハッ)
甘さを捨てきれない令嬢を内面で悪鬼が嘲笑うが、エルマは揺るがない。
彼女は、奪われた日常と、散っていった愛する者たちへの復讐のため、自らの意志でこの覇道を歩んでいるのだ。
「全軍、戻るぞ! 怪我人の治癒だ! ザック、お前は絶対安静だ。死んだら許さん」
「了解だ。将軍……」
ザックは力なく笑うと、ついに限界を迎えたのか、部下たちの腕の中でゆっくりと意識を手放した。
王都の門前。
王国最強の剣を折り、ついに王宮の喉元へと刃を突きつけた狼と薔薇の軍勢は、来るべき最終決戦に向けて、静かに、そして獰猛に牙を研ぎ澄ますのであった。
――翌朝。
狼と薔薇の軍が野営を張る陣地で、早朝から部下たちの信じられないものを見るような声が響いていた。
「ふ、副長……あんた、人間ですか?」
ロッジが引き攣った顔で後ずさる。
その視線の先には、肩から胸にかけて包帯をぐるぐる巻きにし、顔面を土気色にさせながらも、自らの足でしっかりと立ち上がっているザックの姿があった。
「あぁ? 失礼なこと言うな。俺はか弱き一般人だぜ」
「か弱き一般人は、肩を貫かれた翌日に立ち上がりませんよ! 絶対死んだと思ったのに……!」
「馬鹿野郎。気合と、あとウチの将軍様が塗りたくってくれた得体の知れねぇ薬のおかげだよ。……いててて」
「それでも、ベレスは立ち上がれてすらいないですよ……」
軽口を叩きながらも、ザックは内心で冷や汗を流していた。
実際、少し動くだけで激痛が走る。だが、昨日、祖父を看取ったばかりのエルマを一人で王都の最奥へ行かせるわけにはいかない。
副長である自分が倒れていれば、あの不器用な将軍はまた一人で業を背負い込もうとするだろう。
だから、意地でも立つ。それが、ザック・ローなのである。
「おら、無駄口叩いてねぇで隊列を整えろ! 今日でオルディスを終わらせるぞ!」
ザックの怒号に、部下たちは「なにが一般人だよ」と呆れ半分、敬意半分で頭を掻きながら配置についた。
* * *
「開門ッ!!」
アレクの地響きのような咆哮と共に、大剣『頭砕き』が王都の巨大な第一城門に叩きつけられた。
すでに指揮系統が崩壊している守備隊に、これを止める力はない。分厚い門がへし折れ、狼と薔薇の軍勢が怒涛の勢いで王都内部へと雪崩れ込んだ。
王都の外はアスタロッテの大軍が囲んでいる。王都は詰んでいた。
第一層の農民街、そして第二層の平民街。
抵抗の激しい市街戦になる――そう予想して武器を構えていた帝国兵たちは、肩透かしを食らったように足を止めた。
「……おい、誰もいねぇぞ」
ザックが警戒しながら呟く。
王都の街並みは、不気味なほどに静まり返っていた。通りには人の気配が一切なく、家々の窓は固く閉ざされている。
(ククク……匂うぜ。同じ匂いだ)
悪鬼が鼻で嗤う。
「こういう時こそ士気を上げるんだ。レイドルフ。ドラグの歌だ。本国のやつだ。仕込んであるな? やれ」
「ハッ!」
エルマは油断なく周囲を見据えながら、愛馬ティッタを進める。
やがて、神殿騎士達が歌う。合わせて、元々王国の民だった帝国兵も歌い始める。
『剣を持て! 槍を持て! 栄光ある戦いの時が来た!
我らに向けて、野蛮なる敵が、血塗られた刃を振りかざしている!
聞こえるか! 彼方から、狂った獣どもの遠吠えが!
奴らにぶつけるは無限の闘志、死しても突き進め
その牙で肉を割き、血を飲み込むがいい!
武器を取れ、我が子達よ! 隊列を組め、前へ! 前へ!
踏み鳴らせ! 踏み鳴らせ! 蹂躙せよ! 蹂躙せよ!
敵の穢れた血で、オルディスの大地を赤く染め上げろ!!』
「いいぞ者共! これはお前らのお前らによる王政への革命である!」
黄金の瞳を爛々と輝かせた悪鬼が剣を高く掲げる。同時に兵達の大歓声があがった。
やがて、無人の平民街を抜け、一行は第三層――分厚い防壁に守られた『貴族街』の門前へと辿り着いた。
王宮へと至る、最後の関門である。
だが、その門は固く閉ざされているわけではなかった。
巨大な鉄格子は開け放たれており、その中央に、たった一人の人物が立っていたのだ。
「……ッ」
エルマは思わず息を呑み、ティッタの手綱を引き絞った。
万の軍勢が地鳴りを立てて迫っているというのに。
そこに立っていたのは、武器を持った騎士でも、戦士でもない。
一人の老婦人だった。
サファイアのような深く澄んだ瞳。年老いてなお、一切の陰りを見せない圧倒的な気品。
彼女は、帝国の軍勢を前にしても微塵も怯むことなく、ただ背筋をピンと伸ばし、両手を体の前で上品に組んで立っている。
ファネリア侯爵夫人、カリスタ。
「……なんだ、あの婆さん。たった一人で、軍隊の前に立ち塞がってやがる……」
ザックが信じられないものを見るように呻いた。
静寂に包まれた貴族街の門前。
数万の殺意を真っ向から受け止めながら、貴婦人はゆっくりと、エルマの顔を――アデレータの面影を宿す孫娘の顔を真っ直ぐに見据えた。
エルマは無言のまま目配せをして部下たちを後方に下げた。
そして愛馬から降りると、たった一人で歩みを進め、貴婦人の前で足を止める。
「帝国将軍、ライカ・ローサです」
名乗ったエルマに対し、彼女は体の前で静かに両手を重ね合わせたまま、軽く会釈をした。
その気品に帝国軍が圧倒される。思わず傅きたくなる、そんな雰囲気を漂わせている。
「まぁ、貴女が。お会いできて嬉しいですわ。私はカリスタ・ファネリア。ルーク・ファネリアの妻でございます」
カリスタは万の軍勢を目の前で夜会の挨拶のようにそういう。
そして、あくまで膝を折らぬ、高位貴族の誇りがそこにはあった。




